読書家の人に『アラビアの夜の種族』を読んでみてほしい
人はなぜ物語を読むのか。
もくじ
一度読み始めてしまえば、その結末を知りたがるのは人間の性だから、まあ理解できる。ミステリー小説で人が死ねば、なぜ・どうやってその人が死んだのか知りたくなるのが人情だ。
しかし、ここで私が問題にしているのは、「なぜその人はそのミステリー小説を読もうと思ったのか」という点である。つまり、物語を手にとってページをめくる心理的メカニズムだ。
たとえば、なぜ私はこの本を手に取ったのだろうか……
ということを考えると、その理由が判然としない。いつのまにかAmazonの「ほしいものリスト」に入っていた。おそらく、なにかでこの本のことを知り、惹かれたのだろう。
冒頭の問いに戻ると、私たちは「自己を失いたい欲求」があるのだと思う。
これは「非日常を体験する」のとはちょっと違う。
たとえば、ディズニーランドに行けば非日常を体験できるが、そこには日常生活と変わらず、肉体や、自分とは異なる意思を持った他者がいて、疲労感やちょっとした気まずさを感じちゃったりする。非日常の中にいる自己を楽しんでいるわけで、自己そのものを失っているわけではない。
ページをめくる手が止まらない
本の場合、もちろん目や腕の疲労を感じることで自らの肉体を思い出すことはあるが、真におもしろい物語に出会ったとき、私たちの意識は肉体をトリップしていく。
しかも、トリップした先に「私」は存在しないのだ。物語の中に読者である「私」が存在する余地はない。「私」がいなくても、物語の登場人物たちは関係なく物語を進めて、勝手に終わっていく。
このように説明すると、映画や音楽も同様に感じるかもしれないが、読書の場合、そこに「読む」という、「観る」「聴く」よりも一段階能動的な動作が介在している。読書には、「読む」という、もうちょびっと能動的な行為をしている「私」がいるにもかかわらず、私が消えてしまうチグハグさがある。
たとえば、「ページをめくる手が止まらない」という表現がそれを的確に表現しているのかもしれない。ページをめくるのは能動的な行為であり、主体は「私」であるはずなのに、この状態に陥っているとき、読者は「本にページをめくらされている」とも表現できるわけだ。
※あとで読み返して気づいたが、これはミハイ・チクセントミハイの提唱した「フロー体験」なのだろう。
フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)
- 作者: M.チクセントミハイ,Mihaly Csikszentmihalyi,今村浩明
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自己を失っている自分を認識する
「自己を失いたい欲求」に話を戻そう。
私はお酒が飲めないので想像するしかないが、世の中にはお酒を飲みすぎて記憶を失う人がいる。そのとき、その人はまさに「自己を失っている」状態なのだが、翌朝になると、「自己を失っていた」ということは認識できても、それをリアルタイムで体感することができない。
つまり、「あ、いま自分は自己を失っているな」と認識できないし、そのことをあとから思い出すことも難しい。
ここまでくると私が言いたいことがわかってもらえると思うのだが、本当におもしろい物語に出会って「ページをめくる手が止まらない」状態になるというのは、「自己を失っている自分をリアルタイムで認識できる」状態だといえるのだ。
その体験にはきっと麻薬のような気持ちよさ(麻薬もやったことがないからわからないけど)があって、いわゆる書痴(読書狂い)はその気持ちよさを自らに与えてくれる一冊を常に捜し求めているのである。
物語が人を飲み込むとき
自分で言うのもなんだが、私は本を読んでいても「ふと我にかえってしまう」ような理性強めの人間なので(とくに社会人になってからはその傾向がさらに強くなった)、たぶん人よりもそうした本に出会いにくいからこそ、その体験に餓えている。
(これも麻薬と同じように、同じ体験を繰り返すと慣れてしまい、より強い刺激を与えられなければトリップできなくなっているのかもしれない)
その意味でいえば、この『アラビアの夜の種族』は、私にとって久しぶりにそのトリップをさせてくれそうな本だった。この物語は、いろいろな説明のしかたや分類ができるが、私なりに紹介すれば、「物語が人を飲み込む物語」である。あまり語りすぎるとすぐネタバレになる。
『アラビアの夜の種族』おススメの読み方
しかし、私は飲み込まれるのに失敗した。
いくつか要因はあると思うが、その最大のものは、「分割された文庫版で読んでしまった」ということだろう。
私は最初、図書館で文庫の「上巻」だけ借りて読んだ。それはもう、まさに徹夜する勢いで一気に読み終えた。しかし、そこで一段落して時間が空いてしまったのだ。そこですっかり、私の中の熱が冷めてしまったんだろう。
だから、この本を読む人に進言したいのは、できれば文庫本じゃなくてハードカバーのものを、連休などを使って一気に読みきることだ。とくに、読書家である人ほど、試してみてほしいと思っている。
(というのも、私は軽く自分に絶望している。もしかしたら、私はもう物語を楽しめない人間になってしまったのではないか、と。)
次の本を探そう。
今日の一首
53.
歎きつつ 獨りぬる夜の あくるまは
いかに久しき ものとかはしる
右大将道綱母
現代語訳:
(あなたが来ないことを)嘆いて一人で寝る夜が明けるまでの時間が
どれだけ長く感じるか、あなたはご存じないのでしょうね。
解説:
プレイボーイとして知られた藤原兼家の第二夫人だった道綱母。ある日、久しぶりにやってきた兼家に門を閉ざしたら怒った兼家は別の女性のところに行ったので、しおれた菊と一緒にこの歌を送ったとか。つまり、「自分は毎晩待っていたのに、あの男は門が開くまでの時間も待てないのか!」ということを皮肉たっぷりに伝えてたのがこの歌。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。