宮本武蔵はなぜ二刀流なのか?~『五輪書』のレビュー~
今回紹介する本はこちら。
江戸時代の大剣豪・宮本武蔵が自らの闘い方の哲学をまとめた名著『五輪書』をわかりやすく現代語に訳した一冊。
もくじ
五輪書、全五巻
五輪書は5つの部に分かれている。「地の巻」「水の巻」「火の巻」「風の巻」「空の巻」だ。それぞれ、簡単に説明しよう。
「地の巻」
兵法一般の概略および、宮本武蔵の創設した「二天一流」の考え方、ものの見方について説明。地ならしをするように、まず基礎を固める部分である。
「水の巻」
二天一流の兵法、哲学について記された部分。清らかながら方円の器に従う水のごとき二天一流の真髄が記されている。
「火の巻」
一対一や、一対多人数、多人数対多人数など、戦況に応じた具体的な戦術について語られた部分。火は一瞬にして燃え上がったり、消えたりする。そのような俊敏な変化を具体的に説明してくれる。
「風の巻」
二天一流とは関係のない、ほかの流派について書かれた部分。世の中には「○○風」などがいろいろあるので、それらを解析し、己の技を鍛え上げるのを目的とする。
「空の巻」
兵法を学びつくし、すべて身につけたものがたどりつける究極的な心の持ちよう、すなわち無我の境地にありながら、無意識のうちに敵と対峙するさまを説明している。
なんで二刀流?
宮本武蔵といえば二刀流である。
絵を見ても、たしかに右手に一本、左手に一本、構えている。
なぜか?
その答えは単純明快だ。
「みんな、剣を二本持っているから」
である。
時代劇などを見ればわかるように、少なくとも江戸時代の侍たちは、腰に二本、刀を指している。厳密に言うと、刀と脇差だ。これは武家諸法度にも定められていた。
引用しよう。
武士たる者が一命を賭して勝負しなければならないときは、身に佩びた武具を一つ残らず役立てたいものだ。武具を使うことなく、ただ腰に差したまま死んでしまうことは、何とも不本意である。
エコだね。
有構無構の教え
宮本武蔵は剣の構え方を「上段」「中段」「下段」「右の脇」「左の脇」の5つに分類している。
が、彼は同時にこうも説いている。
「構えとはあってないようなものである」
これはたとえば、最初は上段で構えていても、相手の構えによっては上段から中段に移したり、打ち合いの途中で「右の脇」の構えに移行したりすることだ。
最終的な目的は「相手を斬る」ことであり、構えはそのための手段でしかない。そのため、どの構えにするかにこだわることに意味はない、と述べているのである。
大きな合戦における軍勢の布陣も、構えである。合戦で勝利するための手だてなのだ。
心すべきは「居つくな(一つの形式に固執するな)」ということである。このことを熟慮せよ。
先手必勝!
宮本武蔵のスタイルは、一言で表すと「先手必勝」である。
「火の巻」のなかで、武蔵は「三つの先」というものを説明している。
・懸の先:こちらか攻撃していく先手
・待の先:敵から攻撃してくるときの先手
・対々(体々)の先:敵も自分も攻撃してくるときの先手
驚くべきことだが、たとえ先に敵が攻撃してきたとしても先手というのだ。引用しよう。
どんな戦いの始まりも、この三つの先以外はないのである。
先手がものの見事に決まれば、もはや勝ったも同然であるから、「先手は兵法の第一」とされているのである。
相手を斬るときに一番大事なこと
他の流派では、ここぞというときに太刀を早く振るとか、緩急をつけるとか、そういう小手先のことを教えたりするが、武蔵に言わせれば、そんなものは必要ない。そもそも、人と戦っているときに「強く斬ろう」とか「弱く斬ろう」などと考えていること自体が大きな間違いなのだ。
では、相手を斬るときには何を考えればいいのだろうか?
引用しよう。
ただ、人を斬り殺そうとするときは、強く斬ろうとは考えず、むろん、弱く斬ろうとも考えないことだ。考えることはただ一つ。
敵が死ぬように! それだけである。
死ぬように!
こだわりが弱さを生む
「水の巻」のなかで、武蔵は世の中にあるほかの剣術流派を痛烈に批判している。世の中でさまざまな流派があったが、それらは「長い刀を使いなさい」「こういう型で構えなさい」などと教えるが、そういう考え方をしているから、奴らは弱いのだと武蔵は喝破する。
昔から「大は小を兼ねる」というが、わたしは、太刀が長いことをむやみに嫌っているのではない。長い太刀にのみ固執する偏った考え方を忌み嫌うのである。
合戦では、長い太刀は大人数での戦いに向いており、短い太刀は小人数(ママ)での戦いに向いている。
(中略)わが二天一流の兵法では、そうした偏頗で狭小な料簡を最も嫌うのである。このことをよく理解するように。
最近、ニュースでよく最年少プロ棋士の藤井聡太四段が出てくる。彼は「角換わり」が得意なようだ。
将棋というのは大きく「居飛車」と「振り飛車」に別れる。また、先方がいくつも確立されていて、プロ棋士でも得意戦法がそれぞれあったりする。また、序盤が得意とか、終盤が得意とかもあって、「棋風」とも呼ばれたりする。
ただし、こうした得意戦法を持たない棋士がいる。それが、いまも日本将棋界に君臨している羽生善治だ。彼は得意戦法というものがない。どんな場面でも得意なのだ。
「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男」(勝又清和)
とも評される。
私としては、武蔵の言うところはこういうのを言っているのではないかと理解している。
別に剣術を習っていたり、どうしても人を殺さなければならない上京にある人でなくても、何か物事を突き詰めたいと考えている人にとっては参考になる本ではないかと思う。
ただし、やはりこういう心理というのを言葉で表そうとするのは難しいのか、ところどころ、明らかに言葉足らずなところもある。そもそも、武蔵は文筆家ではないし、五輪書自体、いろいろなバージョンがあって、どのくらい武蔵の意思が汲み取られているのかは判然としないので、そこらへんは自己責任で。
今日の一首
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もろともに あはれと思へ 山櫻
花より外に 知る人もなし
前大僧正行尊
現代語訳:
私と一緒にしみじみと親しみを感じておくれよ、山桜。なにしろ、ここにはおまえ(山桜)以外に自分のことを理解してくれる人がいないんだから。
解説:
このお坊さんは山にこもって修行する、いわゆる山伏の流派。なので、山で孤独に修行している最中、ふと見つけた桜に親しみを感じ、まるで人間のように扱っているわけだ。
参考:
後記
吉川英治の小説版『宮本武蔵』全8巻がkindle版で99円とメチャクチャ安いので、最近は通勤の電車内でこれをひたすら読んでいる。
のだが、さすがに8巻分がまとまっているので、いつまでたっても終わらない……まだ、鎖鎌の名手・宍戸梅軒と戦いつつあるところだ。
先は長い……。
なにはともあれ、今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。