本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

編集者の生態~『編集者という病い』のレビュー~

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書店に行くと憂鬱になる徒花です。ビジネス書とか実用書の平台を見ていると、「世の中にはこんなに売れている本がたくさんある。なぜ自分が作った本はここに置かれていないのだろう……」などという考えが去来し、テンションがダダ下がりする。(今回は長いです。)

もくじ

そんなときは、この本を思い出す。

憂鬱でなければ、仕事じゃない

憂鬱でなければ、仕事じゃない

 

中身はともかく、タイトルがうますぎる。だけど、今回紹介するのはこっち。

編集者という病い

編集者という病い

 

タイトルはいいが、中身はイマイチ

Kindle Unlimitedに選ばれているので、とりあえず無料体験を申し込んで読んだ一冊。これも、編集者の胸には響くいいタイトルである。

ただ、肝心の中身はイマイチだった。所々に響く言葉はあるものの、いろいろな雑誌のインタビューなどを集めてまとめたような本なので、とにかく同じ事が繰り返されるのがうっとうしい。見城氏の本なら、こっちのほうが断然おススメだ。

たった一人の熱狂-仕事と人生に効く51の言葉-

たった一人の熱狂-仕事と人生に効く51の言葉-

 

最近、文庫化もした。

たった一人の熱狂 (幻冬舎文庫)

たった一人の熱狂 (幻冬舎文庫)

 

もう、この本はアツい! 編集者はもちろん、なんか仕事にやる気が出ない人が読むと、「喝!」が入る。これだけ仕事に命をかけている人がいるのに、それに比べて自分はいかにだらけた気持ちで仕事に取り組んでいることか……それを思い知らされる。

ともあれ、今回は『編集者という病い』から胸に響いた言葉の数々を紹介していく。

 

編集者の仕事はいかがわしい

そもそも編集者というのは「無から有を作り出す。人の精神と言いう無形の目に見えないものから本という商品を作りだし、そこから収益を上げる」という仕事をしています。マジシャンであればタネがあるわけですが、編集者はタネがないマジックをやっているようなもので、人の精神から商品を作るという、じつにいかがわしいことをやっているわけです。

編集者はたいてい天邪鬼である。口先では「自分の仕事は世の中に必要ない」「自分の仕事は役に立たない」などとほざいているが、その実、自分の仕事に対して人並み以上のプライドを持っている。見城氏のこの言い分も、それに近いものがある。

とはいえ、本を作るのが「いかがわしい仕事」であるのは確かである。モノがないだけに、いかに読者を気持ちよくだまくらかせるか、がカギになる。

 

「書きたくないこと」にこそ価値がある

たぶん表現者にとっては一番書きたくないものが、編集者には一番書かせたいことであり、それこそが黄金のコンテンツになると信じて、精神の格闘技をやってきたわけですから、(以下略)

著者が書きたいものは、たいてい読者が読みたいものとは違う。私の元に送られてくる一般の人からの原稿が即座にボツになるのは、そこに「著者が書きたいこと」しか書いてないからだ。本当は、著者が「書きたくないもの」こそ、じつは多くの人々が「読みたいこと」なのである(もちろん、そうではないケースも多々あるが)

 

売れるコンテンツが備えている4つの条件

僕はつねづね、売れるコンテンツ(本であれテレビであれ何であれ)は四つの要素を備えている、その必要条件を満たすものは必ずヒットすると思っています。

①オリジナリティがあること。

②明確であること。

③極端であること。

④癒着があること。

詳しくは本書を読めばわかる(ほかの著書にも書いてあった気がする)。個人的に重視しているのは、②だろうか。人は、「なんだかよくわからないもの」にお金を出さない。よほどの変人でない限り。

 

作家とは、書かずに生きられない人たちなのだ

この世界や社会に対して折り合いのつかない強烈な違和感を持ち、文字表現の世界を創ることによる自己救済への止み難い魂の衝動そのものというべき中上健次たちの姿に接して、自分にはとてもそんな強靭なパトスも違和感もない、だけど、本物の表現者たちと仕事をしてみたい、表現という魔物に触れていたいと思うようになりました。

世の中には「書かずにいられない人」がいて、作家はそういう人がなるものなのだ。そして編集者は「作家のなりそこない」であり、だからこそ作家に対して嫉妬と尊敬の入り混じった複雑な感情を持っている

その感情がなければ、作家と二人三脚で作品を作ることなどできない。編集者になる人々は、ほかの人よりも「あ、自分は『作家』になるのは無理だ」と早々に諦めてしまった人たちなのかもしれない。もちろん、編集者を経て作家になる人たちもたくさんいるけど。

 

編集者という病い

安全な港でなく、悲惨の港を目指す、その悲惨が黄金に変わる瞬間、その誕生の場に立ち会うことが僕にとって何ものにも代えられないエクスタシーなのです。それこそが僕が考える編集者の正しい病いというべきものです。

すごくわかるが、私はまだ実感を抱いていない。

編集者は狂人である。彼らはたいてい、「確実に売れる」コンテンツにはあまり胸をときめかせない(そもそも、モリモリ金儲けをしたい人は編集者になんかならない)。彼らが求めているのはベストセラーを売ることではなく、「ベストセラーの原石を見つけ出して磨き上げる行為」なのだ。売上は、その確認作業に近い。

ただし、世の中には「編集者モドキ」という生物もいる。肩書き上は編集者と名乗っているが、彼らはこうした病理に感染していない。そういう編集者モドキは企画を出せないし、上司や著者の要望をそのまま反映させた本を平気で作る。彼らは編集者のようでいて、じつは編集者ではない。

 

本が売れない理由

ブック・オフや図書館をきっかけに本に興味を持ち、書店に足を運び始める人もいるだろう。活字離れというならば、インターネットや携帯電話のメールがなぜあれほどマスの日常に溶け込むことができたのか。旧い流通制度に護られているからこそ出版界が生き延びていられるのではないのか。自分たちが文化を作り出しているという特権意識にあぐらをかき続けてきたことが、本が売れなくなった本当の理由ではないのか。「それ以上に面白い本」を作ればきっと売れるのに、その努力をしないだけではないのか。

「本が売れない」と表現するのは正しくない。正確には「売れる本と売れない本のさガ激しくなり、売れる本の割合(つまり打率)が下がってきているのだ」というのが真相だろう。

 

「これほどの努力を、他人は運という」

「これほどの努力を、他人は運という」

 

よい編集者、悪い編集者

相手を刺激できない編集者ぐらいつまらない存在はない。自分を刺激してくれる、成長させてくれると思わなければ、表現者は絶対についてきてくれません。

編集者と「人たらし」であらねばならない。著者を騙し、読者を騙し、それでお金を儲ける。まったくもって、詐欺師である。そしてそのときに何よりも大事なのは、「まず自分を騙す」ということだろう。

なお、編集者はモテるらしい。たぶん、「聞き上手である」「広く浅い知識を持っているからいろんな人と話を合わせられる」「相手をノセるのがうまい」あたりが原因ではないかと思う。ただ、編集者同士のカップルは少なくとも私は知らない。おそらく、お互いに相手をあまり信頼できないのではないかと思う。

 

 

伝説を目指す

自分でいうのは僭越ですけど、編集者でも伝説をつくれるかどうかの勝負だと思う。伝説さえできてしまえば、すべてがうまく回転していく。ただ伝説というのは自分がいったって広まらない。伝説をつくれるだけの内実がないと、人はやっぱり流布してくれない。

これは編集者に限らず、働くすべての人がもってもいい考え方ではないか。私は以下のマンガ、けっこう好きである。

 

感動できない人間は、編集者になるな

自分が感動したものに忠実に自分は動いていくだけなんです。自分が感動しなかったものに動いたって、情熱がないなら、六社飛び越えて自分のところで獲得するなんてことはできないですよ。

自分がテレビで観てて、魅力的だな! と思った女優と仕事したいと思うじゃないですか。そんなモチベーションがなけりゃ、情熱なんてわかないでしょう。この美しい女の写真集を作りたいとか、どうしてもこの人のエッセイをつくりたいとか思わなければ、この世界に来た理由なんて一つもない。

僕らが持ってる特権というのは、自分が感動したものに仕事と称して近づけることなんです。

私の上司はつねづね、「針は触れているか?」と私にたずねる。つまり、それだけ「首ったけ」になっているのか?ということだ。もし、編集者が夢中になっていないなら、その本は絶対に売れない。私は作りたくない本を作りたくはない。

 

編集者に必要な条件

酒飲めなきゃだめ、好奇心が旺盛じゃなきゃだめだと思います。

それから、本でも映画でも音楽でも何でもいいから、自分が感動したものを「とにかく観にいけ。とにかく読め」と、みんなにいえること。それは独断的でも、ほかの人が観て、「なんだ」といわれてもいい。五木(寛之)さんによくいわれるけど、「君が、すごい! といった映画でぼくがいいと思ったものはあんまりない」と。

でも五木さんは、ぼくがいいといったものには、「まただめかもしれないけど行ってやろう」という気になるといってくれます。それは利害も、損得も何もなくて、この感動を自分にも味わってもらいたいと思ってこんなに一生懸命すすめてるんだな、と思ってくれるからです。感動を一人占めにしないで他人に分け与えたいと思う情熱がない編集者はだめですね。

あとは、劣等感のないやつはだめですね。ぼくは劣等感のかたまりで、人間の暗黒の感情というか、負の心理にわりあい通暁しているしているんです(笑)。嫉妬のない人間が「元木さん、あなた嫉妬深いね」とはいえないわけでしょう。自分が知らない感情を他人に指摘することはできない。(中略)人に指摘する言葉はすべて自分の中にあるものです。

私は下戸で酒が飲めないので最初の一言はどうかと思うが、飲めたほうがいいのは確かだろう。

私がブログを書いている理由のひとつも、「こんなにいい作品があるんだよ!」ということをやっぱり人に教えたがっているのだ。しかし、自分が気に入った作品を自信を持って人に薦めるのは、勇気が必要かもしれない。人はたいてい他人に嫌われたくないと考えるものだし、押し付けがましい奴と思われたくもないからだ。

 

恋愛をしないやつはダメ

失恋を多くしていないやつはだめですよ。

(中略)

人間とは何かとか、人間の負の心理、暗黒の感情をずいぶんと学んできたし、恋愛からも学んできましたね。今は恋愛しかないでしょう。だから、編集者で恋愛しないやつはだめですよ。

私は仕事を始めるようになってから、恋愛のおもしろさに気づいた。恋愛は相手を観察し、ちょっとした言葉の端や言動から、「相手がどんな感情を抱いているか?」「どのくらい踏み込んでも大丈夫か?」「何を望んでいるか?」を推理して対処していくゲームである。

もちろん、恋愛をするかしないかは個人の自由だと思う。が、したほうが、洞察力が高まって、人の心の機微には敏感になると思う。

 

所詮、売れなければ読者にとって必要なかった商品なのである。

たとえば私が企画した本をつくるとする。四六判ハードカバーの単行本。初版は一万部。内容の自信はある。六カ月後、返品合計は四千八百部。

こんなことはしょっちゅうある。だが、その数字を前にして、どれだけの痛みを編集者たちは感じるだろうか。いや、その前に自分が担当した一点一点の返品数を確かめようとする編集者が何人いるだろうか。大手であればあるほどである。

返品四千八百部という数字は現実である。他に残っているのは支払われた印刷代、製本代、印税、装丁料、校正費、宣伝費、倉庫代、自分の給料……。赤字。

これが自分が企画した本のたった一つの現実である。理屈など何一つ入ってくる余地がない。

(中略)

所詮、売れなければ読者にとって必要なかった商品なのである。

(中略)

世の中の<出版社=編集者>幻想から糺さなければ、その内部の編集者たちの出版幻想を突き崩すことは決してできない。

紙とインクと数字だけが事実であって、あとは幻想領域の産物であることを、彼らは金輪際理解しないのだ。

この文は読んでいて「グエッ」と突き刺さる部分である。数百万円かけて本を作っても、売れなければその制作費はドブに捨てたも同然なのだ。ダメな編集者は、働けば働くほど、会社に赤字をもたらす。

もちろん、これは音楽や映画などに限らず、食品や衣料品など、あらゆる商品でも同じことがいえる。だが、本の場合、その責任は担当編集者にのしかかる(もちろん、企画を通したのは上司だろうけど)。編集者はそのことをつねに意識していなければならないのだ。今日も私は気分が重い。

 

『なぜこんなものが売れるのか?』と思っている人は、世の中のことをよくわかっていない。

僕は、売れたものはすべて正しいと思っている。売れたものはすべて、いい本なんです。『なぜこんなものが売れるのか?』と思っている人は、世の中のことをよくわかっていない。いい本が必ずしも売れるとは限らない。売れる本には、必ず白と黒の交じり合ったグレイが存在する。両極を激しく振幅させて初めて、人を無意識に刺激するものができるんです。読者はバカじゃない。それがフラットか豊かであるかは、一発で見抜かれる。

いいものが売れるとは限らない。だが、売れたものはいいものなのだ。

出版業界に限らず、このことが理解できていないと、まずこの社会で成功することはできない。もちろん、売れなかった本がすべて無価値なわけではない。が、それは突き詰めると「個人的な判断」になってしまう。

売れる本とは「たくさんの人がお金を払ってでも読みたいと思う本」であり、つまり「いまの社会に必要とされている本」だ。

 

小さいことにくよくよするな! なんてウソだ。

小さいことにくよくよするな! なんてウソだ。小さなことにくよくよせずに、大きなことをプロデュースできるわけがない。小さな約束も守れない奴に大きなことができるわけがない。例えばトイレ掃除のおばちゃんに『永遠の仔』が読みたいと言われ、その日に在庫がなければ、おばちゃんの当番の日を手帳に書き残し、次の機会にちゃんと渡せなければダメだと思う。

(中略)

プロデュースの第一歩は小さな約束を必ず守るということだ。自分一人だけでは全ては動かない。要求したものを受けいれてくれるのも人間なのだから、この人に頼まれたら断れない、この人にやれと言われたら懸命にやらざるを得ないと思われることが大切だと感じる。

全然関係ないかもしれないが、私がいる職場の人たちはB型率が高い。B型は「好きなことには超こだわるが、そうでないものは適当にやる」ヒトビトである(私もB型である)。ちなみに見城氏の血液型を調べてみたが、何型かはわからなかった。だが、12月29日の山羊座だった。ちなみに私も山羊座である。

 

その本に絶対的な自信を持てるか?

僕にとって売れる本はいい本なんです。じゃあいい本ってそれだけなのか、と言われると、いい本にも幅があるんです。作者も編集者も決定的な仕事ができたっていうぐらいに自分たちだけで幻想が持てる本、これは売れなくてもしょうがないと思ってる。いちばんいいのは決定的な作品であって売れる本ね。このどれにも該当しないのはやったっていやですよ。適当にやって適当にできたものというのは、やっぱり適当な結果しか出ない。決定的に売れるか、決定的にいいものか、またその両方か。それが著者と僕にとっての決定的な作品で、僕はそれ以外のものはやる気がない。

私自身、思い返せばこれまで作ってきた本すべてが「決定的にいい本か」と問われると、そうだと即答できない。「やっぱりこうすればよかった」という後悔が思い出されるものもあるし、売る前から「あまり爆発的なヒットをする予感がしないなぁ」というものもあった。

一冊の本を作るのに、どれだけ血を流せるのか。圧倒的な自信を持って世に送り出すために、自分という人間をどれだけ真剣に注ぎ込めるか。それだけの覚悟を持って仕事に取り組んでいるか。そのことが問われている。私はまだ、そこまでの強靭な意志を持てていない…………。だけど、持ちたい。

 

おわりに

編集という仕事は、ぶっちゃけ、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜くことができる。同じ人が書いた同じ原稿でも、編集者が違えば、たぶん、ぜんぜん違う本が出来上がる。

だから私は最近、「これでいっか」を自分の中から根絶しようと決意している。「これでいっか」と考えてしまったら、その時点で終わってしまうのだ。自分の中で妥協すると、絶対に発売した後、後悔が残る。私はそれをなくすために、「本当にこれでいいのか?」を問いかけ続けながら仕事をしている。

かなりしんどい。だけど、『憂鬱でなければ、仕事じゃない』のだ。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。