『議論のレッスン』を読んで日本人の口癖「やっぱり」の正体を考える
最近、家の帰り道でみかける猫に子どもが生まれているのを発見してひそかにほっこりしている徒花です。
もくじ
いよいよ参院選が始まり、さらに東京では都知事選挙も実施されることになったので、街がにわかにあわただしくなってきた。
今回から18歳以上の人が対象として広げられたわけだが、「投票には行くべきか」「どの党に入れるべきか」などは、個人的にはどうでもいい。
ただ、今後、テレビやネットなどで討論とか各政党の主張を目にすることが多くなるだろう。
そして、彼らのいっていることはいかんせん、わかりにくい(というか、意味がなさ過ぎる)。
そこで、政治のことを勉強する前に、まずは「論理」について勉強したほうがいいのではないか、というのが私の提案だ。
『議論のレッスン』について
今回、本エントリーのベースにするのはこちらの本。
2002年なのでけっこう古い本だが、議論などの構造をわかりやすく理解するのにタメになる。
とくに、実際に政治の場でお披露目された質疑応答を例に出しながら、「いかに政治家は議論のやり方がわかっていないか」を伝えている。
今回はその一部をいろいろ引用して、政治家の質疑応答の妙を追っていこう。
政治家の答弁のグダグダ感
引用されているのは2001年に開かれた第151回国会予算委員会第14号の議事録で、「医療改革」について話し合われているものだ。
著者の福澤一吉(「吉」は正しくは上が短い字)氏によれば、議論を見る場合、次の5つのスキルが満たされているかが肝になるという。
①発言者の主張が明示されているか
②主張の根拠・証拠を提示しているか
③隠された根拠に関する言及があるか
④論理の飛躍はないか
⑤質疑応答で、聞かれたことに答えているか
個人的には、ここに「その発言はファクト(事実)を述べているのか、感想・推測を述べているのか」を識別することも大事ではないかと思う。
では、見てみよう。(薄い字はあまりにも読む必要性がないと徒花が判断した部分である)
今井議員(質疑1)
(前略)読売新聞でこの一週間連載がありました、研修医の連載が。研修医哀歌とも言うべきものです。私の同級生も、卒業後1年目に、朝病院にこないから行ってみたら死んでいた、そういう大変なことがあるんですね。私なども52時間当直なんというのをやったことがあります。もちろんそれは先輩がいるから安心してできたんですが。
大変な悲惨な中でやっているんですけれども、その研修制度の改革が全然できない。若手の医師が無給に近い形でこき使われている医者になるものですから、今度は医者になったら取り返さなきゃ損だとばかりになるわけです。この悪循環を断ち切らなきゃならないんですよ。ところが全然変わっていないんですね。
そこで、なぜ変わらないかということについてお尋ねしたいんです。
1997年、先ほども申し上げましたこの予算委員会で、ちょうどそこには橋本総理、やっぱり厚生部門お得意な総理がお座りになり、小泉総理は厚生大臣としてお座りになっていた中でやったときに、全く意気投合したと私は思っているわけですが、改革はやらなきゃならないと。ちょうどあの年は、患者さんに自己負担を強いるかわりに、そのかわり、2000年までには抜本改革をすると、こういう約束をしたわけですね。当時の小泉厚生大臣の意気込みも私は大きかったというふうに思っています。
ところが、この2000年度抜本改革は失敗したわけですね。そして、先送りして来年ということになっているわけです。どうしてそうなったとお考えですか、総理は。
要約すると「研修医の労働環境は劣悪で、医療業界の改革が必要なのに、なぜいまだにそれが果たされないのか?」ということを主張している。
口頭なので仕方ない部分もあるとは思うが、とにかく必要ない部分が多すぎる。
質問ではなく、この議員の主張の構造をまとめると、以下のようになる。
研修医は無給に近い形でこき使われている
↓
だから研修医は医者になると、その分を取り返すために研修医をこき使うようになる
↓
これは悪循環であり、改革すべきだ
↓
小泉首相は厚生大臣のとき、こうした医療業界の改革の必要性を認識していた(と感じた)
↓
しかし、現状は変わっていない
↓
なぜなのか?
これだけのことを聞くのによくまぁベラベラと枝葉末節を語れるものだ。
じつはここで、先に述べた「③隠された根拠に関する言及があるか」が厳密にはクリアされていない。
この議論における「隠された論拠」というのは、「『医は仁術』だから、研修医をこき使うのは本来の医療が目指す態度とは異なっている(つまり良くないこと=悪循環だ)」というものであると福澤氏は説明する。
さて、この質問に対する小泉首相の答弁が以下。カッコ書きは福澤氏がつけたもの。
小泉首相(応答1)
(前略)例えて言えば、医療の問題で出来高払い制度と定額制度があります。出来高というのは、もう治療した行為については全部診療報酬等費用は見ますよと。だから最善の治療ができる。ところがそれも、何でもかんでも(不必要な)薬をたくさん上げる場合があるんじゃないか(という問題がある)。(中略)じゃ出来払い制度から定額制度にしましょうというとなると、今度はまた別の医者が出てきたわけですよ。これは本当は、全体が抑えられているから、必要な治療も行い、悪い医者が出てきたらどうするんだと(この部分は日本語として意味不明ですが、解釈するに定額払い制度だと、どんな医療行為に対しても同じ額しか払えないため、必要最小限の医療しかしなくなるおそれがある、ということでしょう)。なるほどな、一長一短、どんな制度をやっても一長一短あるんだなということで、なかなか進んでいかない面がある、これは本当に改革というのは難しいなと。(後略)
まず、これでも前略と後略しているので、実際の返答はもっと長かった、ということは留意しておきたい。
その上で文章を読むと、じつは「なぜ医療改革が進まないのか」という質問に対して返答していないこともわかる。
ただ、深読みすれば、この返答の論旨は「どのような制度に変えても一長一短があって難しいから、なかなか改革が進まない」とは考えられる。
さて、この返答を受けて、今井議員は次のように続ける。
今井議員(質疑2)
第百四十国会、1997年の3月19日、たびたび申し上げているこの予算委員会で、その辺でもうとにかくメニューはでそろっている、あとはどれをとるか決断だけだと。そのときも、今難しいと言われましたけれども、小泉総理はできれば包括払いを基本とする方向に抜本改革すべきだと、そういう御意見だったと思うし、今も同じだと思うんです。
(中略)ところが、なぜ抜本改革ができなかったのか。まさに、これが自民党なんですよ。小泉総理、自民党にいる限りできないんですよ。「医療保険がつぶれる」という本が出ています。つい最近、毎日新聞の論説委員が出しました。それで、この人は、2000年4月からスタートするはずだった医療の抜本改革が政府与党によって2年先送りされた、その理由は日本医師会など医療を提供する診療側と、保険料を集め、医療費を支払う健保連など保険者との利害が調整できなかったということになろうが、この3年間の議論、現実の動きを見ると、医療関係者は余りにも世間の常識からかけ離れた議論に終始し、これが残念なことにまかり通ってきたと。
総理、実感としてどうですか。医師会が一番の大きな障害だったと書いてあるんです。いかがですか。
まずびっくりするのは、今井議員は小泉首相が自分の質問に対して明確に答えてくれなかったことについてまったくなにもコメントしてない点だ。
この質疑2をすんごく要約すると「抜本改革ができないのは医師会などの医療関係者を慮る自民党がやっているからだ」と主張している。
一応、最後に問いかけてはいるものの、これはもはや質問というよりも、単に小泉首相に自分の考えの感想を求めているに過ぎない。
しかも、②主張の根拠もないし、④論理も飛躍している。『医療保険がつぶれる』という本のタイトルを出しているが、今井氏の主張を聞く限り、この本が主張しているのは「医師会が悪い」ということだけであり、医師会と自民党および小泉首相がどうつながるのかが不明瞭だ。
この2人の会話を端的にして、並べてみよう。
今井議員「なぜ医療改革が進まないのですか?」
小泉首相「どの制度も一長一短がある」
今井議員「小泉首相が自民党にいるから、改革は進まない」
これを読むとわかるが、まったく会話になっていない。
小泉首相は質問に答えようとしていないし、今井議員もそれでいいと思いながら会話してる(ように読める)。
はっきりいって、ふたりとも相手の言っていることをろくすっぽ聞いてないまま話をしているんじゃないかと感じるくらいだ。
シチュエーションを変えれば、この会話のおかしさがさらに引き立つかもしれない。
たとえば、上司が部下に業務改善を命令したのに、それが進んでないような状況だ。
上司「なんで業務改善が進んでないの?」
部下「どの制度も一長一短があります。難しいものですねぇ」
たぶん、この部下は上司にぶっ飛ばされると思う。
「やはり」「やっぱり」という日本独特のマジックワード
本書の著者である福澤氏は、テレビの報道番組を見ていて、あることに気づいたという。
街頭インタビューに答える一般の人々が、やたらと「やはり」「やっぱり」というワードを使うのだ。
たとえば、「やっぱり、自民というというのは……」といった具合に。
この「やはり」「やっぱり」という言葉はなかなか英語では対応する言葉がないようだが、日本における議論の中でどのように使われているのか、福澤氏の持論が述べられている。
引用しよう。
すなわちそれは、「議論における論拠について自分自身も気づいていないし、論拠を形成している仮定についてもよく分からないときに、自分と相手がともに『論証の必要性がない』と認め合える基本原理を暗黙の了解のうちに用意し、自分の主張と根拠の組み合わせの整合性はその暗黙に了解された原理(諸仮定を含む)に立脚すれば了解可能だろう」と発話者が考える場合に「やはり」が用いられる、という解釈です。
難しいが、つまり、「やはり」というのは、「自分のなかにはそう主張するだけの論拠があるんだけど、それを自分でも理解できてないし、うまくあなたに説明できないから、なんとなくでわかってね」というような意味合いを持っている。
たぶんこれだと意味ぷーだと思うので、補足すべく、別のところも引用しよう。
議論における「やはり」の使用は、私たちがある事象をうまく説明できないときに「偶然」、「無意識」、「直感」といった便利な概念を持ち出し、それによって事象を説明した気になるのと似ています。これらの言葉は「もうこれ以上分析は不能なんだ」というときに登場します。英語ではこれらの語を waste baset term(ごみ箱語)といい、なにかわけの分からないものはすべてこれらの用語を使用することにより、(ちょうど紙くずをごみ箱に放り投げてしまうように)解決してしまおうというわけです。
ここで注意しなければならないのは、「やはり」の裏にあるのは「偶然」「無意識」「直感」で片付けられるものではないということだ。
本人は論拠が「直感」だと思っている場合でも、じつは丁寧に主張内容を紐解いていけばきちんとした論拠・根拠に基づいたロジカルな思考があるはずなのだ。
ただ、本人がそれに気づいていないし、うまく説明できないだけに過ぎない。
おわりに
本エントリーの最初のほうでは、いかに政治家の発言が「わかりにくい」ものであるかを説明した。
だが、「わかりやすければOK」というものではない。
たとえば、アメリカの大統領選でドナルド・トランプ氏が人気を集めている理由のひとつは、彼の主張が単純明快だからだ。
「イスラム教徒を入国禁止にする」「メキシコとの間に壁を作る」など、とにかく、「自分が大統領になったらコレをする」というのが明確かつ具体的だ。
「その人がなにをいっているのかわかる」というのは、まず第一審査である。
その関門をくぐりぬけたら、次は「論拠・根拠」の検証を行わなければならない。
もし政治に「正しさ」を求めるのであれば、まずは論理学を学んで「相手の言っていることがもっともなのか?」を判断する力を身につけるのも、ひとつの武器になるのではないだろうか。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。