『すらすら読める方丈記』のレビュー~鴨長明は達観していたのか問題~
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。鴨長明 方丈記より
※本エントリーは6,000字くらいなので、そこそこ長い。
もくじ
学校の古典の授業で一度くらいは見聞きしたことがあるだろう、鴨長明の『方丈記』の冒頭部分である。蛇足かもしれないが、いちおう現代語訳を載せておく。私なりの現代語訳だ。
川の流れは絶えることがなく、水はつねに移り変わっている。
そんな川のよどみに浮かんでいる水の泡もできたり弾けたりして、川の流れと同様、一定の状態にとどまっていることはない。
世の中で暮らしている人々や、そして住まいも、これと同じようなものである。
さて、鴨長明は実家を出てわずか四畳半(方丈)くらいの狭い家に一人で暮らし、晩年には近所の子どもらと遊びながら暮らした。都での出世争いから距離を置き、物質的な豊かさや名声にも気を取られず、精神的に豊かで、達観したような生活を送っていた……ようにみえる。
現代でいえばミニマリストの先駆けともいえるかもしれないが、しかししかし、本当に鴨長明がそうした暮らしに満足していたのかはわからない。鴨長明の人生を深堀りしていくと、もしかすると、彼は質素な生活を送ることで自分の本当の欲求を誤魔化して生涯を終えた、という捻くれた考え方もできるのだ。
今回はその可能性を探っていこう。
『すらすら読める方丈記』について
ちなみに読んだ本はこちら。
著者の中野孝次氏は作家でありドイツ文学者でもあった人で、かなりの著書があった(2004年に死没)。本書は『方丈記』の原文と現代語訳を対比させつつ、ところどころに中野氏の解説が加えられている形式。かなり原文の内容が読みやすくされているが、肝心の中野氏の解説がちょっと脱線したりするので、そこらへんは適当にスルーしながら読み進めていった方がいいかもしれない。
無常観の文学
鴨長明は平安時代末期から鎌倉時代を生きた人で、日本文学の世界では端役から「万物はつねに移り変わる」という無常観を持っていた。この無常観はおそらく現代に至っても多くの日本人が持っている観点だろう。
さて、無常観といったら多くの人の頭に思い浮かぶのは「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」で始まる『平家物語』かもしれないが、こちらが誕生したのは当然ながら平家が没落したあとの話であり、『方丈記』が完成した1212年から数十年後のことだとされている。余談だが、『平家物語』のなかには『方丈記』から引用したと思われる箇所がいくつかあるため、同作からかなりの影響を受けていると思われる。
(さらに余談だが、『方丈記』とならんで「日本三大随筆」のひとつに数えられる『徒然草』が成立したのはさらにのちの1330年頃とされている)
とはいえ、この無常観は別に日本独自のものでもなく、現在のインドで悟りを開いた釈迦がこれよりはるか昔に沙羅双樹の下で「諸行無常」を解いている。また、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「万物流転」という言葉を使い、「誰も同じ川に入ることはできない」といったとされる。
Heraclitus, Johannes Moreelse
まあとにかく、日本の文学作品の中ではっきりと無常観を主題に置いたのは鴨長明が初めてだったのだ。(と思う)
鴨長明が無常観を持った理由
では、なんで鴨長明はそんな無常観を持つようになったのか? その答えは当時の時代と、鴨長明の人生に深くかかわっている。順番に見ていこう
①災害ばっかり!
鴨長明は1155~1216年に生きた人物で、実家は京都の賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ。宮司の補佐官)をやっていたボンボンだった。しかし、結局長明は一度も禰宜を務めたことはなく(理由は後述)、歌人を目指していたようだ。まぁ、いまでいえば実家が神社にもかかわらず芸人をやってる狩野英孝をイメージしてもらえばいいんじゃないだろうか。
世界遺産(世界文化遺産) 賀茂御祖神社(下鴨神社)/京都府ホームページ
そんな長明は大変な時代を過ごした。とにかく家事や飢饉が次々と起こったのである。列挙していこう。
1177年 安元の大火
午後8時頃、都のある宿屋で火の不始末を原因とする火災が発生し、瞬く間に燃え広がった炎により都のおよそ3分の1が灰燼に帰した。
1180年 治承の竜巻
都の大きな交差点で巨大竜巻(辻風)が発生。竜巻は周囲の家々を破壊しながら都を突き進み、東本願寺の手前辺りで消滅したとされる。
1181年 養和の飢饉
1180年に干ばつが起きた影響で農作物の収穫量が激減し、京都を含めた西日本で大量の餓死者が発生。領主に租税を納められなくなった農民は畑を捨てて逃げ出し、飢饉は翌年にも続いた。4万人を越える人々の命が失われ、街中には死体があふれ、お坊さんの供養がまったく追いつかない状況だったという。
なお、源頼朝の従兄弟である木曽義仲が京都に入れたのはこの飢饉で平家軍が弱っていたことも影響したとされる。
1185年 元暦の地震(文治地震)
壇ノ浦の戦いの半年後に発生した大地震。震源は定かではないが、琵琶湖の西岸だとか、南海トラフだとかいわれている。琵琶湖が干上がったり、宇治橋が落下したり、多くの家屋や神社仏閣が倒壊したと記録されている。
とまぁ、生きている間にこれだけの災害に見舞われれて立派だと思っていた街並みが粉々になる様子を何回も見ていれば、そりゃ「世の中は無常だ」と思うのも無理からぬ話だなぁと感じるわけだ。
実際、鴨長明は『方丈記』のなかでこうした自然災害について詳細に描写していて、今日では当時の被害模様を類推するための貴重な資料にもなっている。
②平家が滅亡!
そして、この時期に巻き起こっていたのは決して自然災害だけではない。平家と源氏の争い、いわゆる治承・寿永の乱が発生している真っ最中だったのだ。平時忠が「平家にあらずんば人にあらず」と歌ったのは1174年のことだが、1181年に平清盛が病没し、1185年には壇ノ浦の戦いで平家はあっさり滅亡しちゃったのである。
『天子摂関御影』の平清盛。豪信3巻。
ついでにこの頃から、世間の権力が公家(つまり貴族)から武家(武士)に変わっていった。平清盛は源氏に勝ったあと武士から貴族にクラスチェンジしたが、源頼朝はあえて武士のまま、世を治めようとしたのである。つまり、大きなパラダイムシフトが発生したのだ。
………ただし、じつは『方丈記』のなかで、鴨長明はこの源平の争いについてはまったくといっていいほど触れていない。平清盛が平安京から福原京(現在の神戸辺り)にいきなり遷都しようとしたことについてグチグチ文句をいったりしているが、源平の争いについて辟易しているようなことは書かれていないのだ。
とはいえ、おそらくこの時代の趨勢の変化も、鴨長明の人生観に影響を与えているだろうとは考えられる。
③禰宜の家に生まれたのに、禰宜になれなかった
前述したとおり、鴨長明の父親は京都の立派な神社の禰宜の職についていて、いい家のお坊ちゃんだった。そのうえ長明は姝子内親王(鳥羽天皇の娘)にかわいがられ、わずか7歳で従五位を叙せられて貴族となったのである。ただし、この時期が長明の人生の絶頂だったことは、この時の彼は知る由もない。
さて父の死後、禰宜の職は長明のお兄さんである鴨祐季が引き継いだが、彼は延暦寺との間で起きた土地争いに敗れて退任。そのチャンスに長明は時期禰宜として立候補するが、鴨祐兼と争って敗北し、禰宜になる最初のチャンスを逃してしまうのだった。なお、このあとも鴨祐兼は長明にとって最大の壁となって立ちふさがることになるのだが、それはもうちょっとあとの話。
官職に就けなかった長明は和歌とか琵琶の勉強をしてそれなりに認められるようになる。そして46歳になってようやく「和歌所寄人」という役職をもらい、和歌の選定作業などを仕事にするようになった。なお、この時の仕事ぶりはマジメだったようで、源家長が『源家長日記』という書きもののなかで長明のことを褒めている。
そしてもう50歳になろうかという1204年に、2度目にして最後のチャンスが巡ってきた。河合社(ただすのやしろ)という神社で欠員が生じたため、そこの禰宜になるべく、長明は再び立候補したのだ。しっかり後鳥羽院からの推薦状ももらったので、今度はもう禰宜の職が手に入ると、長明も確信していただろう。
しかし、そこで長明の就任に強固に反対したのがあの鴨祐兼だった。あろうことか、祐兼は自分の息子である祐頼を推挙し、なんやかんやあって、結局、長明はまたしても禰宜になるチャンスを失ってしまったのだ。
おそらくここで長明なかで頑張る気持ちがプッツンしてしまったのだろう。なにしろ長明はもう50歳を過ぎているのだから、いまから禰宜の仕事につける可能性は限りなくゼロに等しい。さすがに後鳥羽院も悪いと思ったのか、長明のために別の官職を斡旋しようとしたのだが、長明はこれを断って出家し、隠遁生活を送るようになってしまったのである。ちなみに、上で長明の仕事ぶりを評価していた源家長はこのときの長明について「うつし心ならずさへおぼ(え)侍りし(気が狂ったんじゃないかと思った)」(源家長日記)と記している。
菅原道真のように怨霊となり、賀茂御祖神社にたたりを振りまいても納得するような経緯だ。しかし長明は怨霊になるつもりはなかったようで、その代わりのように1212年、『方丈記』を完成させた。
長明が持っていた3つの願望
『方丈記』を読む限り、鴨長明にとって人生の目標は大きく3つあったと思われる。それが以下だ。
欲求第1位:禰宜の職に就く
欲求第2位:歌人として大成する
欲求第3位:仏門で悟りを開く
「禰宜の職」と「歌人としての成功」では、おそらく前者のほうが願望としては強かっただろう。和歌所寄人として働いていても、やはり欠員の知らせを受けて禰宜に立候補したことからうかがい知れる。逆に「仏門での悟り」は、ほか2つに比べると唐突な感じが否めない。禰宜の職に就けないという事実にぶち当たったことで、仏門に逃げたようにも受け取れるのだ。
ちなみに、『すらすら読める方丈記』の著者である中野氏は本書の中で次のように述べている。
後鳥羽院がどう思おうが、和歌所の同僚をはじめ世間がどうみなそうが、自分の立場、地位、失職のおそれなどには一切考慮せず、おのが心一つを大事にし、心に忠実に生きる鴨長明の面目躍如といったところで、これあるがゆえにわたしは長明さんが好きなのだが、ともかく、「すなはち、五十の春を迎えて、家を出て、世を背けり」と、あっさり記している背後には、そんな劇場の一幕があったわけである。
読んでいる最中は「そうなのかなあ」とボンヤリ受け取ったが、このエントリーを書くために鴨長明についていろいろ調べてみると、果たして本当にこの時の鴨長明の心情が、中野氏が考察するように前向きな気持ちだったのかは疑問である。どうせ禰宜になれないんだったらもうこの世を捨ててしまおうという、捨て鉢な気持ちになっていたんじゃないかと私なんかは邪推してしまうのだ。
鴨長明は出家後も鎌倉幕府に職探しに出かけた
私がそう考える根拠は2つある。まずひとつ目は、すでに隠遁生活を送っていた58歳の時、鴨長明は飛鳥井雅経(あすかい・まさつね)に誘われ、鎌倉幕府の3代目将軍・源実朝の元へ向かい、和歌の師となろうとしたとされる点だ。
もちろん、この行動は『方丈記』を記すよりも前のことなので、この経験を以てすっぱり諦めがついたとも考えられるが、禰宜の道が閉ざされて一度は出家した後でやっぱり鎌倉幕府で歌人の職を見つけようとした行為には、彼の胸の中に市井の名声をあきらめきれなかった感情があったのではないかと考えられる。
仏道に至りきれない自己批判
もうひとつ。『方丈記』のラストはかなり謎めいた終わり方をしていて、本書によれば、その解釈は専門家の間でもいろいろな意見があるという。そこをちょっと抜き出しつつ、本書の現代語訳も引用しよう。(カッコ内は徒花が追加)
世をのがれて、山林ににまじはるは、心を修めて、道を行はんとなり。
世を逃れて、山中独居を選んだのは、心の修行をして、仏道を行おうとしてではなかったのか。
しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。
であるのに汝(長明のこと)は、姿を聖人に似せているのに、心は煩悩の濁りに染まっている。
栖(すみか)はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つところは、僅かに周利槃特が行ひにだに及ばず。
住居は、まさに浄名居士維摩詰の庵室そっくりであっても、その行うところを見れば、どう見ても、愚鈍といわれた周利槃特の行いにさえ及ばないではないか。
もしこれ、貧賤の報のみづから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。
もしかしてこれは、前世の業の報いとしての貧賤が、汝を悩ますのであるか。あるいはまた、邪念に乱れた心がきわまって、狂ったのか。
その時、心さらに答ふる事なし。
そう自問してみたが、その時、わたしの心は何一つ答えなかった。
ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、やみぬ。
そこでわたしは、何も答えぬ心のかたわらに舌をやとって、心はさほど請い望まぬまま、阿弥陀仏の名を両三篇となえて、終りとすることにした。
この部分について、中野氏は解釈をけっこう長々と書いている。まず、鴨長明がこうした文章にした意図について、著者は「あえて謎めいた、開き直ったようなふてぶてしさを演出したのではないか」と書いている。そして「中途半端に出家して自分を避難する世間の目を意識して自己を弁護するとともに、あえて自分で自分を批判するように見せかけた演技」と述べている。そして最終的には「仏道専一者になることなく、仏教の教えを重んじながらも琵琶や和歌を同時に愛する数寄の心をも許容する生き方」を提唱している、としているのである。
しかしこれ、どうだろうか???
中野氏は本書にも書いているが、鴨長明が遁世したのは決して本気で仏門に目覚めたからではなく、どうにもならない世間に嫌気がさして逃げ出した、というほうが正しいだろう。だからこそ長明は庵に琵琶も持ち込んだりした。
しかし、最後の最後になって長明が自己批判を始めたのは、むしろ仏教と数寄の意趣をまじりあわせるためではなく、まだ自分の中に残っている出世願望――禰宜の職だったり、歌人としての名声――を感じたからではないのか。そして、最後の最後になっても答えを出せず、念仏を唱えて誤魔化そうとする姿勢こそが、長明の生き方そのものを象徴しているように思えてならないのだ。
こうした感情が長明の中でごちゃ混ぜになり、自分でも整理されないまま、『方丈記』という随筆は終わりを迎えたのではないかと考えられるのである。
おわりに
というわけで、私が思う長明は、「とことん中途半端なダメ人間」というものになる。だが、これは決して悪口ではない。都では成功できず、遁世も中途半端で、仏教を極めるには邪念を捨てきれない。こうした心境はとても人間臭く、人々の共感を呼ぶものであるはずだ。
とりあえずひとつ言えるのは、「長明は諦めの早い人だったのだろう」ということだ。菅原道真のように、死してなお生前の恨みつらみを晴らすべく雷を降らせることもなかったという意味では、人畜無害ではある(一つのことに対する強い執着がなかったからこそ、怨霊にもなれなかった、ともいえる)。
しかしながら、そうして一般には成功できなかった人間が書きつづった文章が1000年もの時間を超えて、いまなお名作として読み続けられているというのは、なかなかおもしろい。『方丈記』をまだきちんと読んだことがないのであれば、一度読んでみるのもおおススメだ。
それでは、お粗末さまでした。