『本の逆襲』のレビュー~本を持つことがステイタスになる時代~
2XXX年、日本で最後に残っていた書店が、ついに閉店した。
もくじ
とはいえ、不人気で客足が遠のいたためではない。あまりの人気ぶりに、いよいよ売るものがなくなってしまったのだ。こうして日本から、書店は消滅した。
いまや、紙の本を持っているのは行政府か、よほど金をもてあました富裕層か、物好きの回顧主義者くらいである。彼らは保存や自己満足のために、わざわざ伝統工業となっている印刷会社に依頼する。刷る部数が少なく、貴重な輪転機を使用するため、必然的に紙の本の値段は1冊数百万~数千万になるわけだ。
お気に入りの一冊を紙の本にして所有すること。それは、すべての読書家がいつかかなえたいと考える夢のものとなっているのである……
図書館が戦争している相手は良化特務機関ではなく出版社
さて、本に関するディストピア小説といえば、有川浩氏が著した『図書館戦争』が思い浮かぶ。
この作品では「メディア良化法」に基づく公序良俗の監視組織「良化特務機関(メディア良化隊)」と、そうした弾圧に対抗して武装した公共図書館による防衛組織「図書隊」との戦いを描いている。
もちろんこれは「あったかもしれない世界(パラレルワールド)」を舞台にしたファンタジー(もしくはSF)だ。
しかし実際のところ、最近、図書館についてはこんなことが問題になっている。
「敵対関係」とまではいわないが、出版社側としては新刊であろうが無料で本をバシバシ貸し出す公立図書館を目の上のたんこぶだと思っているわけだ。
とはいえ、出版社と図書館が『図書館戦争』よろしく火花を散らして争うことはなさそうだ。
出版社側の会見を実際に聞いた人の感想を見ると、実際の主張は図書館側にも慮ったかなり抑え目なトーンで話がされていたらしい。
ここで、図書館が新刊をすぐに貸し出すことについて是々非々の論調を繰り広げるのも悪くはないが、徒花的に気になるのはもっと根本的なところで、「そもそも図書館の役割とは何か?」ということである。
納本制度は同人誌も対象なのです
さて、民間の出版社は新たに本を刊行した場合、国立国会図書館法第24条 - 第25条の2の規定に基づき、1部を国会図書館に収めなければならない決まりになっている。
そしてこのとき、出版社は「出版及び納入に通常要すべき費用」を国会図書館に請求できる。以下原文。
第一項の規定により出版物を納入した者に対しては、館長は、その定めるところにより、当該出版物の出版及び納入に通常要すべき費用に相当する金額を、その代償金として交付する。
この「出版及び納入に通常要すべき費用」というのがちと曲者で、これは本の定価ではない。
通常、「小売価格の5割+送料」が代償金として支払われるのである。
納本制度の概要|国立国会図書館―National Diet Library
ちなみに、これを破った場合は次のように書かれている。
発行者が正当の理由がなくて前条第一項の規定による出版物の納入をしなかつたときは、その出版物の小売価額(小売価額のないときはこれに相当する金額)の五倍に相当する金額以下の過料に処する。
余談だが、この制度を悪用した「納本詐欺」という言葉も生まれている。
ぜんぜん費用をかけずに作った中身のない本の定価をたとえば1冊100万円と設定すれば、国会図書館から出版社に50万円+送料相当が支払われるわけだ。
本の価格をいくらにするか決めるのは出版社の自由なので、この国会図書館からの支払いを目当てに、一般向けに売る気もない本を作るような悪いことを考える人も世の中にはいたりする。
そして知られていないことかもしれないが、この納本制度は個人が作った同人誌にも適用される。
つまり、同人誌も国会図書館に一部納めないと、罰則を受ける可能性があるのだ。
……とはいえ実際のところ、この罰則が適用された例はこれまでないらしい(このデータは見つけられなかった)。
図書館について研究している人が公開している調査データを見ると、出版社でも、とくに成人向けのものについては納本率が低いという結果が出ていたりする。
たとえば、フランス書院などではアダルト作品の納本率は79%だったようだ。
ほかの公共図書館は出版社から正規ルートで購入
ここまでは国会図書館の話。
では、区立とか市立とか、いわゆる街の図書館がそろえている本はどうやって集めているのかというと、これは単純、出版社からそれぞれの図書館が取次ぎなどを経由して購入しているのである。
もちろん、どの本を集めるかは、ここの図書館の判断にゆだねられる。
図書館はそれぞれの地域ごとに「資料収集方針」というものが定められている。
たとえば、東京都千代田区の資料収集方針は以下の通りだ。
(1) 区民および千代田図書館利用者の要求に基づいて資料を収集する。また潜在している要求や将来想定される区民の要求も考慮する。
(2) 千代田区に関する資料は、収集システムを構築して積極的に収集する。
(3) 図書・雑誌などの紙媒体の資料、録音・映像などの視聴覚資料のほか、電子図書などのデジタルコンテンツも積極的に収集する。
(4) 通常の図書資料では利用しにくい場合を考慮して、大活字本・録音資料などを収集する。
(5) 外国語資料についても幅広く収集する。
(6) 中高生が進路や職業選択や人生について思索する際に参考となる資料を収集する。
(7) ビジネスパーソンの支援となる資料を幅広い媒体で積極的に収集する。
(8) 従来の参考資料に加え、セルフレファレンスを促進するためのデータベース等を積極的に収集する。
(9) マンガの収集は、一定の方向性を示し、必要な収集を行う。
(10) 各千代田区立図書館の地域性を考慮して、分担収集も行う。
(11) すべての資料は、技術の進展に合わせ最適の媒体で収集する。
具体的な選び方はこちらのページに紹介されていた。
図書館には週に一度、取次ぎから本が搬入され、それらの本を一冊一冊チェックして購入するべきかどうかを検討するらしい。
この作業を「見計らい」と呼ぶ。もちろん、取次ぎが持ってくるのはメジャーな本がメインだが、図書館はマイナーな本も、必要そうであれば取り寄せる。
そのため、そういった担当の人は新聞や雑誌などの書評をすべてチェックし、中小出版社の本であっても取り寄せることがある。たいへんだ。
ちなみに、私が勤めている会社にも図書館から注文が来たりする。
その際、マンガで説明しているページをはさんだ実用書について「マンガページは全体の何割くらいですか?」という問い合わせがきたりする。
おそらく、あまりにもマンガページが多すぎる書籍は外されてしまうのだろう。ここらへんは、おそらく見計らう人のさじ加減によって変わってくると思うが。
いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利
いろいろわき道にそれていったが、徒花がそもそも知りたかったのは「図書館の存在意義」だった。
なので、そこのところを調べてみると、公益社団法人・日本図書館協会のWebサイトにこんなことが書いてあった。(太字は徒花)
日本図書館協会は,1979年の総会において採択した「図書館の自由に関する宣言 1979年改訂」において,「すべての国民は,いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」こと,そして「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関」が図書館であることを表明した。また,「すべての国民は,図書館利用に公平な権利をもっており,人種,信条,性別,年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない」とも述べており,われわれは,これらのことが確実に実現されるよう,図書館サービスの充実に努めなければならない。
なるほど。お金がないとか、田舎に住んでいるとか、そういう理由で「いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利」が守られない状況を作らないようにしているのが図書館の存在意義であるようだ。
となれば、お金がない人のために本来はお金を払わなければ読めない本であってもそれを無償で貸し出すのは、図書館的には絶対的正義なわけである。
営利団体でもある出版社としては困ったもんだが。
しかし、調べていくと「本来であれば無料で提供するべき本というもので一般市民から金を請求するのは不届き極まりない行為なのではないか」とも思えてくるから不思議だ。
もしかすると、原則的に本というものは営利目的で作るようなものではないのかもしれない・・・・・・。
国民が全員、「いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利」を持っているのならば、その資料を作っている人々はむしろ利用者個々人ではなく、その権利を認めている国からお金をもらうべきなのかもしれない。
となると、1冊の単価を上げて、図書館に納本した際にもらう代金で経営をやりくりする、つまり納本詐欺を行うのは、むしろいいことなのかもしれない!!!
――まぁ、実際に出版社の頼みの綱が図書館からの購入のみという状況になると、法改正によって納本制度の仕組みが変えられ、「図書館が『要らない』と言った本は世の中に出版されなくなる」という事実上の出版統制みたいな事態も起こりうるわけだが。
本で利益を求めるのはいいことなのか?
ちょこっと個人的な考えを述べると、やはり自由には責任がともなう。
日本では出版の自由が認められているから、どんな本を出しても基本的には罰せられることはない。
もちろん、それで金銭的な利益を得ようとするのも自由だ。
『絶歌』みたいな本の出版が認められるのも、自由が保証されているからである。
その一方で、自由に本が出せる出版社や著者は、「てめーの生活はてめーでなんとかしろ」という責任がともなう。
どんな本を出版するかは自由だが、その本が売れなきゃ飯が食えなくなるというリスクを負う。
思うに、いま本が売れなくなってきているのは、本の資本主義的な商品価値の付加に限界が来ていることの表れなのかもしれない。
「売れる/売れない」という基準で本を作ること自体が、前時代的な考えになりつつある時代の過渡期に自分たちは立っているのかもしれないのだ。
しかし、既存の出版社は資本主義的な商品価値を持つ本こそが売れるという前提に基づいて存在しているわけで、より本の本質的な面である文化的側面の価値を付加しても売上が伸びるわけではない。
出版業界は本の価値が変容することにより崩壊するかもしれないのだ。ううむ
内沼晋太郎について(こっからレビュー)
つらつらと書き連ねてきたが、要はなにがいいたいかというと、「やっぱり出版業界の未来は暗いね★」ということである。
ここから本題で、こんな本を読んだ。
著者の内沼晋太郎(うちぬま・しんたろう)氏は下北沢の書店B&Bを運営するnumabooksの代表を務めている人物。
本屋B&Bは以前にも自分のどこかのエントリーで紹介したが、お酒を飲みながら本を選ぶことができる、ちょっと変わった本屋である(B&Bはビール&ブックスの意味)。
またこの書店の特徴のもうひとつは、本の著者によるトークショーをほぼ毎日開催している点にある。もちろんこれは新たに刊行された書籍のPRの場としての役割を持っているが、おもしろいのは出版社からは一銭もお金を取らない。
その代わり、来場者には1,000円~2,000円くらいの参加費を徴収し、それでペイしている。つまり、イベントを開催しても集客に失敗すれば、その損はすべてB&Bがかぶるというシステムなのだ。
現在は出版社側からイベントを開催してほしいと頼まれることも多いようだが、こうした都合上、集客が見込めなさそうな本についてはお断りすることもあるそう。
本書はすべてのページが緑色で、ちょっと変わったつくりをしている。これは朝日出版社(朝日新聞とは関係ない)が2012年にスタートした「ideaink」というブランドで、本の作り方や表紙のデザインを統一させているもの。
いわゆるちょっとエッジの効いた本を出していて、なかなかおもしろい。
本書はその第10弾となるものである。
出版業界が滅びても、本は滅びない
さて内沼氏は本書で「本は滅びない」と述べている。とはいえ、既存の出版業界の構造がそのまま残るとは考えていないようだ。
つまり、単純にメディアとしての本の未来について語っているのである。とはいえ、だからといって本書が出版業界の将来憂い、ダメなところをあげつらっているわけではないところが私としては好感が持てた。
内沼氏自身も、大学生時代に佐野眞一氏の『だれが「本」を殺すのか』を読み、暗澹とした気持ちになったことが原動力の一つとなったようだ。
徒花もこの本を、高校生だか大学生のころに読んだ記憶がある。
内容はよく覚えていないが、とにかく既存の出版業界のダメなところと出版業界崩壊の未来がつづられていて、私もまた暗い気持ちになったような気がする(それでも出版業界を目指し、本当に入った私は阿呆である)。
「本」とはなんなのか?
インターネットが普及し、電子硝石も登場して、だれもが個人で情報を発信できる時代になった今、本は定義され直す必要がある。
紙で束ねられたものだけが本ではなく、サウンドノベルゲームやEvernote上のメモ、果てはデジカメの画像メモリですら、本と言って過言ではない。
内沼氏は本をこれまで以上に拡張して考えることが重要だとしているし、トーク・セッションも本かもしれないと内沼氏は述べているし、一部の三省堂書店では本棚にレトルトカレーを並べて本と一緒に販売しているところもあるという。
これは、本の定義を「本棚にさせるもの」と定義し直した結果ともいえるわけだ。
三省堂書店 公式ブログ 神保町本店 - カレーフェア『カレーなる本棚』開催中!
そして、やがて本はインターネットに溶け出すだろうと内沼氏は述べている。
紙の辞書が電子辞書になり、地図がグーグルマップになり、ゲームの攻略本が攻略サイトに変遷したように、やがて、本のスタンダードは変わっていくだろう。
なによりも、今の人々は生まれたときから神の本が身近にあったからこそ「文章は紙のほうが読みやすい」「紙のほうが落ち着く」などと考えるが、生まれたときから電子書籍で読むことに慣れ親しんだ世代が登場したとき、おそらく彼らはそうした感想を抱かないのだ。
結果として、冒頭で述べたように、本を紙で読むことはさながら音楽をレコードで聴くかのように、一部のマニアだけがすき好む、より嗜好品としての位置づけになっていくことは十分ありうるだろう。
ちょっと引用する。
一方、本の売り方も変わってきます。たとえばデータは200円で、普通の紙版は500円。革で装丁された豪華版とグッズのセットは、限定500部で1万円。さらに生原稿をリトグラフで複製し額装したものが付いているのは、限定10部で10万円。その作家のものにはできるだけたくさんお金を落としたいという、一部の熱心かつ金に余裕のあるファンには、その人たちが欲しがるような特別なものを用意する一方で、そのぶんお金のないファンにはできるだけ安く、データも紙も届ける。こういった、コンテンツの形態にしたがって値段をスライドさせ、1冊の本を複数のバリエーションに落とし込む売り方が一般的になっていくでしょう。
現在の音楽業界に近いやり方だろうか。また、本は果たして売り物なのか、ということにも言及している。
これは本書の中で『「本屋」は死なない』を引用した部分の引用になるが、勘弁してくれ。
たとえばもう少し広く、本を扱う場所というのを考えると、本を商品として扱っていない図書館のほうが、歴史が長いといえば長いんですよ。(中略)本を消費する商品として扱う、つまりなるべく多く売れたほうが良いという前提で扱ってきた歴史って、文化財として扱ってきた歴史より短い。書店という小売業の形式で存続することにこだわるのは矛盾があるんじゃないでしょうか?と思うことがあるわけです。これは、僕の中でも結論とは言えないんですが。
著者は本屋の経営をしているので、どちらかといえば書店における問題として捉えているが、出版社である私が捉えても、この言葉はなかなか示唆に富む。
というのも、なぜ人は本を出版したがるのか、という問いに対する答えのような気がするからだ。
一般的に「本を出版しましょう」と提案されて、嫌がる人はあまりいない。
自費出版で身銭を切ってでも本を出したいという人も世の中に入る。その理由を考えると、その人たちにとって本は権威の象徴であり、自分の書いた文章が国会図書館に収められるような文化的価値を持つものだと認められたように感じるからだ。
しかし実際のところ、現状を見て、徒花はそうした価値を持つ本ばかりとはとても思えない。
単純に自己主張だけを目的とした、オナニーのような本も多いように感じる。しかし、そうした意味での紙の本の役割はとっくに終わったのだ。
本当にデータだけでなく、紙で保存する必要性のあるものはそんなにたくさんない。自己承認欲求を満たすのであれば、それこそブログでも初めてアクセス集めに奔走すればいいだけの話だ。
これについては、まだ内沼氏も自分の中で結論を出せていない問題だとしている。
おわりに
本エントリーでは本書の中で特に私が気になった部分だけを抜粋して、自分の意見を交えながら書いたが、それ以外にも同書内には現状の出版業界の解説や問題提起、本屋がこれから求められるあり方などが分かりやすくまとめられている。
出版関係者はもちろん、本が好きな人、もしくは出版業界を目指している人は読んでも損はない本なのではないだろうか。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。