『世界屠畜紀行』のレビュー~日本人が屠殺場を忌避する理由~
ブログを初めてはや半年が経つ。はやい。
もくじ
知っているようで知らない屠殺
牛や豚、鶏などは人間がその肉を効率的に食らうために品種改良された「家畜」である。彼らは「人間に飼われる」という状況に適応した(させられた)体を持っていて、寿命を迎える前に打ち殺されてばらばらにされる運命を背負っている。
究極的なベジタリアンでもない限り、多くの人々は普段、彼らの肉の世話になっている。しかし、命を持っている彼らがいかにして「肉」になるのか、その行程を目の当たりにしている日本人は少ないはずだ。そんなところに目をつけて、自らの足と目で現場を回り、文章にしたためた一冊がこちら。
世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR (角川文庫)
- 作者: 内澤旬子
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2011/05/25
- メディア: 文庫
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そもそも、家畜動物の肉を得るために命を奪うことは「屠殺(とさつ)」などと呼ぶ(なぜか「とさつ」と入力しても変換できないが)。屠という字は「屠(ほふ)る」とも読み、手元にある岩波の国語辞典に拠れば「①敵を打ち負かす ②皆殺しにする、打ち滅ぼす ③鳥獣などの体を引き裂く」という意味を持っているらしい。意外なのは、「殺す」というワードが入っていないことだ。ちなみに、屠という字は常用漢字ではないため、新聞などでは「と殺」と表記されるのが普通である。
ただし、本書では「屠殺」という表現はしない。その理由として著者は冒頭部分でその理由を以下のように述べている。
生きた動物を肉にするには、当然殺すという行程が含まれるのだけど、殺すということばにつきまとうネガティブなイメージが個人的には好きではなかったことと、(中略)ただ殺しただけでは肉にならないのだということを、わかってもらいたくて「屠畜」ということばを使った。
要は、単純に著者の趣味なので、べつに屠殺という表現をしても問題ない。ということで、徒花はこのエントリーにおいては、比較的な地味があるだろうと思われる屠殺のほうで統一していくのであしからず。
内澤旬子について
内澤旬子氏は1967年、神奈川県出身のルポライターで、國學院大學の文学部を卒業後、編集者を志望したが叶わず、OLとして働いた後、独立している。内澤氏は文章と同時にイラストも描けるため、はじめはイラストレーターとして仕事をしていたそうだ。本書においても、文章のみならず随所に内澤氏の緻密なイラストが挿入されており、文章だけではわかりにくい(そして写真が載せづらい)屠殺行程を非常にわかりやすく説明している。
本作は内澤氏の代表作ではあるが、別に屠殺だけに興味を持っているわけではない。同氏のほかの著作には『身体のいいなり』というエッセイなどもある。
タイトルだけ読むとエロい想像が捗るかもしれないが、内容は乳がんの発症と治療をメインに、「自分のもののはずなのに自分の思い通りにならない身体」について綴ったものなので、赤裸々な性生活などではない。残念でした。また、『おやじがき-絶滅危惧種中年男性図鑑』というものもある。
こちらは、内澤氏が街中で見かけたりした中年のオヤジどもの、どこかコミカルで愛おしい(と、著者は感じたらしい)姿を集めてまとめたものだ。読んだことはないが、おそらく『おやじ図鑑』と似たようなものだと思われる。
さらに、2013年には昨今流行したミニマリストを先取りしたような内容の『捨てる女』という実用エッセイ書も書いている。
さて、内澤氏の文章は軽妙なテイストで読みやすいが、描写が非常に細かいので文章量は多い。また、ところどころに内澤氏本人の主観が多分に入ってくるため、よくいえば臨場感があるが、悪くいえばちとウザい。とりわけ、内澤氏の考えに同調できない場合、イラツキを覚える部分は多いかもしれない。徒花も本書を読んでいて、たまーに根拠のよくわからない思い込みじみた書き方を感じた。
『世界屠畜紀行』の概要とレビュー
本書は、著者の内澤氏が日本を始め、韓国、インドネシア、エジプト、チェコ、モンゴル、インド、アメリカなど世界各国の屠殺場をめぐり、各国がどのように家畜を殺して肉に加工しているのかをまとめた本である。
そもそも、なぜ内澤氏がこうしたことに興味を持ち始めたのかというと、日本ではたとえ食べるためであっても動物を殺すことを忌避する人が多く、食肉処理場で働く人は部落出身で差別されてきた人々が多い、ということに疑問を持ったからである。こうした意識を持ち、屠殺をする人々を下に見るのは日本独自の感性なのか、それとも世界共通なのか、それを知るべく、彼女は自腹を切って旅に出たわけだ。とはいえ、内澤氏自身があとがきにて語っている通り、彼女は個人的に屠殺の行程を知ることに純粋な興味を強く持っているため、思想研究云々よりも、本書の大部分は基本的に、各国がどのように動物たちの命を奪い、「肉」にしていくかという行程に大部分が割かれている。
いろいろ文化的な違いや風習の違いもおもしろいが、端的に結論だけ述べれば、やはり日本人は世界の人々と比較してもとくに屠殺にかかわる人々に対してネガティブな印象を強く持っている民族であるようだ。地理的に近い韓国や、同じく先進国であるアメリカの中流層以上でもそうした差別意識はあるみたいだが、中東やアジアでは現在でも一般家庭で屠殺が行われているため、そうした意識は薄いことがうかがい知れる。
日本人と「穢れ」の意識
おそらく、人々が屠殺についてネガティブなイメージを持つ理由のひとつには、屠殺が自分たちの日常にないことがあるだろう。スーパーには生前の姿からかけ離れたパック詰めの肉が並んでいるし、テレビなどでも屠殺の現場を扱うのは一種のタブーとされている。人々の多くが屠殺の現場から遠ざかることで、その屠殺を生業としている人々が下に見られてしまうのだろう。
それとは別に、個人的には日本人特有の「穢れ」の意識も影響しているような気がした。こちらは本の内容とは関係なく、徒花の個人的な推察である。
日本人は、「世界で一番厳しい目を持つ消費者」だと言われている。商品にちょっとした傷や不具合があるとすぐにクレームが発生するし、一度不具合や事故などが発生すると、さながら潮が引くように一斉にみんなが買わなくなってしまう。そのため、グローバルに商品を展開している企業も、まずは日本で先行販売して日本の消費者の厳しいチェックをあえて受ける戦略をとっているところも多いようだ。また、日本人は新しい物好きで、飽きっぽく、とにかくいろいろな選択肢を求める。これらの特徴ををまとめてあるのが以下の記事だ。
上のページでは、日本人のこうした特性は「清浄」と「穢れ」で判断する美的価値観が影響を及ぼしていると考察されている。ちょっと引用しよう。
哲学者の梅原猛氏は『固有神道覚え書き』という著作の中で、ヨーロッパの価値は真善美であり、その最高価値が聖だが、日本はそれらを「清浄」という美的価値観が包含していると言っています。日本人にとっては、真実や善であることよりも清浄であることのほうが大事なんですね。
「穢れ」は平安末期の律令制度の法令集『延喜式』に出てきますが、罪の概念と密接に結びついています。「水に流す」という言葉がありますが、悪いことをしても、それを水に流せばきれいになれるという考えは、そこから出てきているんですね。
この「清浄」を尊ぶという美的価値観が商品選択にも現れて、商品がちょっとでも汚れていたらダメ、服のステッチがちょっとずれていたらクレームをつけるという商品選択に厳しい消費者を生んでいるのだと思います。
「穢れ」という概念は、おそらく日本人であるならばなんとなく共通の認識を持てる言葉だと思う。日本人にとって「まっさらなものは良いもの」「一度キズやケチがついたものはダメな(罪深い)もの」という意識が根底に根付いているのだ。最近はそうでもないかもしれないが、私の両親など、年配の人ほど中古品を毛嫌いする傾向にあるのはこれも影響しているだろう。それから、「処女崇拝」もこれに類するもののように思う。
具体的にどういったものが「穢れ」なのかといえば「死」「病気」「近親相姦」「獣姦」「女性」などである。お葬式の後、自宅に入る前に塩をまくのも「穢れをはらう」行為なわけだ。つまり、屠殺場で働く人々は常日頃から「死体」に触れているから、生理的に「穢れ」を感じてしまうのではないだろうか。日本人にとって、たとえそれが動物であろうが、死体に触れることはほかの国の人と比べても格段に「嫌なこと」なのだろう。
部落差別と穢れと屠殺
もし、私の妄想どおり、日本人が屠殺に対して気悲観を抱く原因にこの「穢れ」の概念が影響しているのだとすれば、この意識を変えることは並大抵のことではない。内澤氏は食肉処理場で働く人々の多くが部落出身者であり、そこから部落差別と結び付けて考えているようだが、調べてみると、そもそも「部落」のルーツも穢れとつながりがありそうだ。
穢多。江戸職人歌合. 石原正明著 (片野東四郎, 1900)
日本では古くから「穢多(えた)」と呼ばれる被差別階級が存在したようだが、これは文字通り「穢れの多い人」という意味である。そもそも、古来、日本においては肉を食べることそのものが穢れだと言われていたのだ。
「穢れ」「部落」「屠殺」……これらのワードは密接に結びつき、現在の日本社会にも根深く残る差別意識を形成しているような気がしないでもないが、少なくとも本書では意図的に部落問題にかかわる部分を排除して、極力客観的に屠殺の現実を紹介する内容となっているため、私としてもこれ以上は踏み込まないことにしよう。
というのも、じつは徒花自身、あまり部落差別といってもピンとこないのである。本当にそんなものがあるのか、なにしろ身の回りで聞かないので実感が湧かない。ただ、過去に食肉処理場で働いたことがある知り合いの人に聞くと、その人もやはり「部落出身者」について語っていたので、事実としてありそうだ、というくらいのことしかいえないのだ。知らないことにあまり首を突っ込むと火傷する。部落というのは、日本社会におけるタブーのひとつなのだ。
おわりに
あまり気持ちのいいエントリーではなくなったが、読むことで新たな興味を湧かせてくれる本は良い本である。本書は私にとって、単に食肉処理の実情を学ぶのみならず、穢れや部落問題の一端を調べるきっかけを与えてくれた。
それでは、お粗末さまでした。