『モンスターの歴史』のレビュー~時代によって変わる「怪物」~
『空の境界』のなかで登場人物のひとり、蒼崎橙子さんは「怪物の条件」というものを3つ挙げている。(マメ知識:徒花は好きなキャラクターは「さん」付けで呼ぶ)
もくじ
曰く
人を恐怖させる物の条件は三つ必要だって知っているか? 一つ、怪物は言葉を喋ってはならない。二つ、怪物は正体不明でなければいけない。三つ、怪物は、不死身でなければ意味がない。
とのこと。
モンスターという言葉について
日本語で「怪物」というとおどろおどろしい感じがするが、英語で「モンスター」というと途端に印象は軽くなる。『ポケットモンスター』とか『モンスターハンター』とか『モンスターストライク』とか、ゲームの印象が強いからだろう。
そもそも「モンスター」という言葉の語源はラテン語の「monstrum」に由来するようだ。その意味は「正体は分からないけれども、存在を感じることができる出来事やもの」だとか。さらにこれは「monere」という動詞を語源としていて、「思い出させる、気づかせる、警告する、忠告する」という意味を持っていたらしい。
橙子さんのおっしゃる通り、その要素の一つとして欠かせないのは「正体不明であること」であるようだ。さらに、これは拡大解釈すると「理解の及ばないもの、理解できないくらいすごいもの」という使われ方もされていることがわかる。「モンスター級のマシン」とか、「モンスターペアレント」などの言葉がそうした意味だろう。スポーツでも、高校野球などで超高校生級の能力を持った選手がいたりすると、「怪物」と称されたりする。
『モンスターの歴史』のレビュー
さて、今回読んだのはこの本だ。
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これは「『知の再発見』双書」というなんだか仰々しい名前がついたシリーズの一冊で、ほかには『魔女狩り』とか『吸血鬼伝説』とか『フリーメーソン』とか『錬金術』をテーマにした本が出ている、厨二病患者御用達の本だ。
- 作者: アンドレーアアロマティコ,種村季弘,Andrea Aromatico,後藤淳一
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あと、個人的には新紀元社の本もお気に入りである。
ティーガーI 中期/後期型 (ミリタリー ディテール イラストレーション)
- 作者: 遠藤慧,塩飽昌嗣
- 出版社/メーカー: 新紀元社
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こういう、世の中になくてもあまり影響を与えない本が好きだ。
さて、本書はかなりイラストや写真資料などをふんだんに使い、「モンスター」の歴史とその正体に迫っている。決して、世界のモンスター図鑑ではない。どちらかというと学術的な内容だ。そこで、今回は本書の内容をかいつまんで私なりにまとめて伝えてみよう。
モンスターと障碍者
古来から古今東西で、もっとも人々にとって身近なモンスターだったのは障碍者の人々である(もちろん差別的な意図はない)。自分たちと同じ種族でありながら、マジョリティと異なる姿形を持って生まれてくる人々は、強い関心が向けられた。
とはいっても、彼らに向けられた感情は忌避とか嫌悪だけではない。地域によっては、むしろ彼らは「神に選ばれた特別な存在」として尊ばれることもあった。とくに、本書によればエジプトなどではそのきらいがあったようだ。これはおそらく、古代の人々が多神教を進行していたことと関係があるだろう。たとえば、生まれつき脳がない状態で生まれてきた赤ん坊のミイラが発見されたことがあるらしいが、それはエジプトの人々が「動物を起源に持つ聖なる存在」と捉えたからとされている。
エジプトの壁画を見ればわかるように、エジプトの神々は人間と動物が組み合わさった亜人のような姿で描かれている。たとえばジャッカルの頭を持つアヌビス神などがその代表である。ほかにも、インドや南米では同様に人間と動物が組み合わさった神々がいた。
その後、キリスト教などの一神教が趨勢を占めるようになると、次第に障碍者たちへの視線は厳しくなる。なぜなら、神は人間を完璧な姿に作ったはずなのに、それと異なる形で生まれてくるのはおかしい、と考えられたからだ。だから、「悪魔とイチャコラしたんじゃねえか」と因縁をつけられ、魔女裁判などが行われたのである。
『サバトに赴く魔女たち』(ルイス・リカルド・ファレロ)
その後、科学技術の発達によってこうした障碍者が生まれるメカニズムが明らかにされ、彼らがモンスターではないということはだんだん認知されるようになる。たとえば『ノートル=ダム・ド・パリ』に登場する「せむし男」や『エレファント・マン』などの作品が登場する身体障碍者たちは、すでにモンスターではなく人間として描かれている。身体障碍者の人々の世間の認識が変わったことを象徴だろう。
近年・現代の怪物
いくら科学技術が発達しても、人々はある意味で「モンスター」を求め続けた。たとえば、その象徴的なもののひとつが「モスマン(ハエ男)」である。
こちら、物理学者が行った物質電送機の実験中にハエが入り込んでしまい、ハエと人間が合成されてしまったというストーリーだが、1958年版のものはその描写が「頭と片腕がハエで頭と足の一本が人間の体」という、古臭いものだった。これは結局、キマイラ(キメラ)と同じ発想である。
『キメラ』(ギュスターヴ・モロー)
だが、アメリカで1986年に公開された同作のリメイク『ザ・フライ』だと、設定は同じままで描写がガラリと変わる。こちらは遺伝子レベルでハエと結合してしまったと言うより専門的な説明がされて、ハエでも人間でもないまさしくモンスターとなってしまうのだ。
これに類するものとしては、いわゆる「モンスター」ではないが、『スパイダーマン』や『ミュータント・タートルズ』などのミュータントたち。2つの生物が融合したりすることで、新たな生命となった存在だ。
日本だと、やはり『ゴジラ』が欠かせない。
ご承知の通り、ゴジラは(作品によっていろいろな理由付けがされているが、基本的には)核実験の放射線により変異したものとされている。これに近いものは、『ファンタスティック・フォー』だろう。彼らは未知の宇宙線を浴びたことにより超能力を持つようになったミュータントだからだ。
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これらのことからわかることは2つある。「古来からのモンスターは恐怖の対象からエンターテイメントになった」ということと「モンスターの誕生過程に注意が注がれるようになった」ということである。もちろん、『エイリアン』や『グレムリン』のように、まったく新たな生物も数多くいるが、その存在自体にはなにかしら説明がつけられている。
最強のモンスター・人間
ここまではモンスターの「姿形の異色さ」だけにフィーチャーしていたが、既に述べたようにモンスターの核心的な部分は「理解できないこと」にある。最初の3つの条件のひとつとして橙子さんは「言葉を喋ってはならない」と断じたが、これはすなわち「意志の疎通ができない → 何を考えているか分からない → なにをするか分からない → 怖い」という恐怖を呼び起こすために必要な条件だからである。
その意味で考えれば、見た目がおどろおどろしいことよりも、物事の考え方や価値観、行動原理が自分とまったく異なる存在にこそ、人は恐怖を抱くのだ。となれば、見た目が自分と同じ人間であっても、その思考回路がまったく異なる存在であれば、その人物はモンスター足りうる。
たとえばそれは切り裂きジャックを始めとする連続殺人犯。他にも本書では、フランスの連続殺人鬼、アンリ・デジレ・ランドリュも紹介している。『羊たちの沈黙』シリーズに登場するハンニバル・レクター博士もそうだ。いわゆる、サイコキラーと呼ばれる人々である。ちなみに、サイコパスとサイコキラーは違う。サイコパスは単なる精神病質のことだが、サイコキラーはサイコパスなどであるために殺人に快楽を見出す人々のことである。
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手口が猟奇的であればあるほど、人々はその犯人に対して恐怖を抱く。そして、「なぜこんなことをしているんだ!」という、くだらなくて不毛な問いを議論しあったりするのである。
人間は集団になるとモンスターになりやすい
本書では人間がモンスターとなるパターンがもうひとつ紹介されている。それは、「人間の集団」だ。個々人は善良で、マジメな人々であっても、一度ひとつの集団となって同じ目的を持つと、ときとしてとんでもないことをしでかすことがある。ナチス・ドイツのユダヤ人迫害や、カンボジアのポル・ポト大虐殺、アメリカに戦争を吹っかけた旧日本軍、ツチ族とフツ族が争ったルワンダ大虐殺、などなど。(『ホテル・ルワンダ』はいい映画だった)
これはきっと、リンゲルマン効果も影響しているのだろう。知らない人のために説明すると、「集団で同じ作業をすると、みんな手を抜くようになる」ということだ。重い荷物を10人くらいで持ち上げるとき、だいたい1人くらいはぜんぜん力を込めてないやつがいるというアレである。私は率先して力を抜くタイプだ。
思うに、集団が結成されると各個人の思考力も低下するのではないだろうか。会議でも、10人くらいが集まる会議よりも、本当に必要な3人くらいで会議をしたほうがいいアイディアが出たりするような気がする。大勢の人間が集まると、個々人の人間は自分で考えるのが面倒くさくなり、誰かが決めたことに簡単に従うようになるに違いない。
ちなみに、人間が集団化することによって発生するモンスターが持つのは「強大な力」という側面である。その意味では、もちろん「政府」や「国家」もモンスター足りうる。哲学者トマス・ホッブズが著書『リヴァイアサン』で述べたことはある意味で正しいのだろう。人々は国家という巨大な怪物(リヴァイアサン)に支配されることで、安全を手にしているのだ。
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おわりに
散文的な内容になってしまったが、徒花的に「モンスターの条件」をまとめなおしてみよう。
一つ、モンスターは自身と異なる身体的特徴・習性・能力を持った存在である。
二つ、モンスターはその考えが理解不能な存在で、人に恐怖を抱かせる存在である。
三つ、モンスターは個人ではどうしようもない強大な力を持った存在である。
そして最後に、本書に書かれていた啓蒙思想家・ディドロの印象的な言葉でこのエントリーを締めくくりたいと思う。
「男性は女性から見ればモンスターで、女性は男性から見ればモンスターだといえないだろうか」
それでは、お粗末さまでした。