本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『あなたの大嫌いな人が100%考えていること』『ゆっくり、いそげ』のレビュー~あなたが「募金なんてバカらしい」と考えているなら~

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私は募金しない主義だ。たとえ地球の裏側でアフリカの子どもたちが飢餓で毎日死のうとも、東日本大震災でいまも苦しい生活を余儀なくされている人がいても、毎日引き取り手のないイヌやネコが何千、何万匹殺されようとも、「知らん」というスタンスである。

そもそも、会ったことも喋ったことも触れ合ったこともない人間や生き物に対して「可哀想だ」「助けたい」などという感情を抱くはずもない。そして、募金や慈善活動をしている人間というのはその仕組みでうまく金儲けをしているか、自己満足か、対外的に善人さをアピールしたい偽善者か、病的な想像力と共感性を持ったオカシナ人だと考えていた。

――が、しかし、自己啓発系などの本を読んでいると金持ちとして成功する人々はだいたいみんな慈善活動や募金活動をしていて、それが成功への黄金律となっているのは有名である。しかも、全員がどうなのかは知らないが、そうした人たちはたいてい、金持ちになる前からそのようにして慈善活動に取り組んでいたらしい。投資家として大成しているイグゼロという人が書いた著書『あなたの大嫌いな人が100%考えていること』によれば、「いま、あなたがお金を使わない事柄には、お金持ちになっても絶対に使わない」とある。

あなたの大嫌いな人が100%考えていること

あなたの大嫌いな人が100%考えていること

 

だからといって徒花は「よし、じゃあ今日から恵まれない人に募金しよう」と考えるほど素直な人間ではないが、こうした自己啓発書の著者たちの言わんとすることがわからないわけではない。

お金(報酬)は相手に満足を与えたことの対価であり、お金を儲けることを念頭に置いたビジネスはたいてい成功しない。世界一の億万長者とは、世界一多くの人々に満足(幸せ)をもたらしている人で、おそらく、彼らの仕事は金儲けよりも「自分の能力を使って何をすれば、他者や社会に一番大きな満足が与えられるだろうか」を第一に考えていると推察できる。となれば、まずは寄付行為によって「相手に幸せを与えることの喜び」を学び、その姿勢でビジネスに取り組むことが社会的な成功には必要不可欠だ、という理屈だ。なるほどである。

とはいえ、理屈っぽい私はこうも考える。

ここで大切なのは「相手に幸せを与えることの喜び」を学ぶことであり、寄付行為は手段でしかない。つまり、この姿勢を身につけることができるのであれば、寄付自体は必要不可欠ではないとも考えられるのである。寄付以外でもこの姿勢を身につけることができるのならば、代替手法はあるはずだ。

そう、それまで私はそのように考えていた……のだが、最近、なにが正しいのか、私はよくわからなくなってきた

そのきっかけとなったのは、たまたま読んだある記事だ。それが、ハフィントンポストに掲載されていた若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)氏の「博愛的な宇宙人の暴走 利己か利他か?という不毛な問い」。この記事では、かつて日本の総理大臣を務めた鳩山由紀夫氏の考え方を引き合いに出しながら、「利己」と「利他」という概念の区別がいかに意味のないものかと語られている。

この記事内では、人間は精神的に成熟していくに従って、「自己の範囲」を拡大させていくのではないかと語られている。

たとえば、赤ちゃんは父親や母親の都合・迷惑なんて一切考慮しない。自分が不快・不機嫌なら泣き喚き、親に何とかさせようとする。自分のことしか考えない、極めて自己中心的な存在だ。しかし、大きくなっていくと次第に「(自分だけではなく)家族も幸せか?」「友達も幸せか?」を考えるようになる。相手にも自分と同じような感情があることに気づき、自分の幸せだけを追求することは良くないことなんじゃないかと考えるようになるのだ。

これが自己の拡大であり、当然ながら、それは自分が所属する組織からだんだん広がっていく。やがて大人になって社会の一員になると、「自分の会社は幸せ(利益を上げている)か?」「自分の住んでいる地域(もしくは郷土)は幸せか?」「自分が暮らしている日本という国は幸せか?」と、どんどん自分の範囲を拡大させていくわけだ。こうなってくると、人は自然と自分個人の幸せと自分が属する集団の幸せを両立しようとするようになる。

おそらく、恋愛もこれと同じだろう。出会った男女は当初、他人である。だが、親交が深まると、「相手の幸せが自分の幸せ」という状態になってくる。すると、恋人は自分とは違う人格を持つ個人であるにもかかわらず、拡張した自分の一部のような存在になっていく。もし、男女が互いにこの状態になれば、それは理想的なカップルであるはずだ。

じつは、最近私が読んだ『ゆっくり、いそげ』(影山知明)という本にも同じようなことが書かれている。とくにこの著者の場合は、泣く子も黙るマッキンゼーから独立してベンチャーキャピタルを創業したというバリバリの資本主義者的経歴を持つ超エリートだが、現在は西国分寺駅周辺でクルミドコーヒーというカフェなどを運営している。そして、この著書では「お金だけが重要な価値観ではない」「まずは相手に与えることが大切」などというなんだかホンワカしたことを主張しているのだ

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

 

この影山氏は、東日本大震災のときにはとくに深く考えることもなくボランティアに向かったという。ちょっと長くなるが、その部分を引用しよう。(太字は徒花がつけた)

一九九五年の阪神・淡路大震災のときには「動かなきゃ」と頭で考えながらに、実際には動けず、悶々とした日々を送ったことを覚えている。なのに、このときばかりはフットワーク軽くスッと動けたことが、当時、自分自身不思議なくらいだった。

それはきっとクルミドコーヒーをやってきていたからだと思う。

不思議なことに、その瞬間、被災地のことが「自分の一部」と感じられたのだ。

東北地方と直接の取引先があったわけではない。仙台にこそ親類縁者はいるもののぼくにとってはそれほど近しい関係ではなかったし、ましてや三陸地方には何のゆかりもない。

ここで著者の影山氏は、自分には縁もゆかりもないはずの被災地が「自分の一部」に感じられたからこそ、考えることなく、被災地へボランティアへ行ったという。影山氏は「私たち(自己)の範囲は伸び縮みする」と述べている。つまり、震災という非常事態に対して瞬間的に影山氏の自己の範囲は大きく拡大したというのだ(とはいえ、普段から自分の店がある西国分寺周辺には自己が拡大していたようなので、元々影山氏の自己の範囲はそれなりに広かったようにも思う)

 

さて、ここで冒頭の私(徒花)の考えに戻ろう。

この文章を読む限り、徒花の自己の範囲はすんごく狭い。せいぜい、働いている会社や家族や恋人や友人など、自分が直接触れ合っている範囲に広がる程度で、その広さは子どものそれとなんら変わりがない。

つまり、徒花の精神成熟度はまだ大人の域に達していないと考えられるのである。もしかしたら将来的にはもっと精進が習熟して、当然のごとく募金や慈善活動に従事できる日がやってくるのかもしれないが、どの本を読んでも「自己を拡大させる方法」は書かれていない。ここらへんがなかなか、悩ましいところである。

 

結論に行こう。

もし、あなたが私と同じように募金という行為をバカバカしくてやりたくないと考えているのならば、それはあなたの精神的な成熟度が低いためかもしれない。自己の範囲が狭いから、募金先で助かる人々の幸せに喜びを感じないのかもしれないのだ。だから、よくよく考えてみてほしい。

あなたの自己は現在、どこまで広がっているか?

 

それでは、お粗末さまでした。