本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『絶歌』での争点まとめ~神戸連続児童殺傷事件のおさらいもかねて~

 

絶歌

絶歌

 

太田出版が2015年6月11日に出版した『絶歌』が大変な話題を呼んでいる。おそらく本エントリーを読んでいる人には不要な説明だとは思うが、本書は1997年に神戸連続児童殺傷事件を引き起こした「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」もしくは「少年A」が、「元少年A」という著者名で発表した自伝である。

 

この出版の是非に対し、いちおう出版業界の片隅で編集者として生きている徒花が個人的見解を述べてみようと思う。ちなみに徒花はこの本を購入していない。立ち読みでパラパラと読んで、「1,500円出して買うほどのものじゃないなぁ」と思ったからだ。

本書について語るために、そもそも1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件をしっかり理解しておく必要がある。まずはそこから始めていこう。(というか、私自身も事件発生当時は10歳だったので、騒いでいた記憶はあるものの、どんな事件だったのか詳細なところをちゃんと覚えていないのだ)

 

神戸連続児童殺傷事件のあらまし

1997年5月27日、兵庫県神戸市須磨区のある中学校の正門に、切断された男子児童の頭部が置かれていたのを通行人(もしくは用務員とも言われている)が発見。頭部は口の端から耳まで切り裂かれていて、その口の中には「酒鬼薔薇聖斗」という名前とともに犯行声明分が入れられていた。

警察の調査により、この頭部は同月24日から行方不明になっていた11歳の男児のものと判明し、胴体は頭部が発見された同日、当該中学校から500メートルほど離れたケーブルテレビのアンテナ基地局の建物周辺で胴体が発見された。須磨区では同年の2月10日に小学生の女児がショックレス・ハンマーで殴られた「第一の事件」と、3月16日に小学4年生の女児が金槌で頭部を殴られ死亡した「第二の事件」(第二の事件は同日に発生した小学3年女児の殺傷事件と合わせて表現されることが多い)が発生しており、一連の事件の関連性は疑われていたと思われる。男児の口にくわえさせられていた犯行声明分は以下のようなものだ。

さあゲームの始まりです。
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の裁きを
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOL KILLER
学校殺死の酒鬼薔薇
※声明文はここのページから

ちなみに当初、警察やマスコミは「酒鬼薔薇聖斗」というのが何を意味するのか、そもそもなんと読むのか良く分からなかった。だが、テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清氏が「サカキバラセイトという人物名なのではないか」という旨を発言したことから、この解釈が広まったとされている。
その後、6月4日に神戸新聞社に犯人からの声明文が届く。この声明文はけっこう長文で、まず自身の名前(サカキバラ)を報道機関の人間が間違えて「オニバラ」と読んでいることに対する文句から始まり(ここで、やっぱり酒鬼薔薇聖斗」が犯人の名前であり、「さかきばらせいと」と読むのが正しいことがわかった、自分がどういう人間で、なぜこうした殺人をしたのかということがつづられている。結局、この声明文で行われた筆跡鑑定が決め手となったようで、6月28日に少年Aは警察の事情聴取を受け、取調べの最中に自白。同時に、「第一の事件」「第二の事件」の犯行も認めたのである*1
この事件は犯人の残虐性の高さ、そして逮捕されたのが14歳の中学生であったことで、犯人逮捕後も大いに世間を騒がせた。犯人が未成年だったために審判は公開されず、少年Aは医療少年院送致の判決が下された。事件が社会に与えた影響は大きく、2000年には少年法が改正され、刑事責任を取れる年齢の下限が従来の16歳から14歳へと引き下げられるきっかけとなったのである。少年Aは2005年に関東医療少年院を本退院し、社会復帰している。

『絶歌』がこんなにもバッシングされている理由

さて、『絶歌』はこのように残酷極まりない殺人事件を起こした少年Aによる自伝だが、正直、凄惨な事件を起こした犯人が本を出版した例はいままでもある。2007年のリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件無期懲役となった市橋達也氏は『逮捕されるまで ―空白の2年7カ月の記録―』(幻冬舎/2011年)を上梓し、2008年の秋葉原連続通り魔事件で死刑判決が確定した加藤智大氏は『』(批評社/2012年)を出した。もうちょっと古いものだと、2004年に起きた大牟田4人殺害事件で死刑判決を受けた鈴木智彦の『我が一家全員死刑』(コアマガジン/2010年)もある*2

どれも出版に際しては賛否両論あったり、被害者遺族が不快感をあらわにしたていたが、それでも『絶歌』のような大激論にはならなかったように思う。今回、『絶歌』がいろいろ騒がれるのは、おそらく次のような原因があるだろう。

逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録

逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録

 

 

解 (Psycho Critique)

解 (Psycho Critique)

 

 

 

我が一家全員死刑

我が一家全員死刑

 

 ①犯人が社会復帰している

市橋達哉氏は無期懲役となり、加藤智大氏は死刑判決を受けている。一方、元少年Aは罪を犯したときの年齢が14歳だったため、少年法によって現在は社会復帰している。市橋氏や加藤氏はいくら印税収入を手に入れても自分で自由に使えないが、元少年Aの場合は手にした印税収入を自由に使えてしまうという立場の違いは一般の人々が受ける印象が大きく変わるだろう。本人は「被害者遺族に対して経済的責任を一生負っていきたい」と言っているようだが、その約束が果たされる保障はないし、一部が元少年Aの手元に残ることも考えられる。これが、人々を憤らせる原因のひとつだ*3

とくに、出版社側の「意向は聞いていないが、著者が考えるはず」という説明が、人々に「本来ならばペナルティを課されるはずの殺人行為によって大金を得ようとしている」と考えさせたことは想像に難くない。少年Aと太田出版がどのような契約を交わしたのかは分からないが、仮に10%の刷り契約だとすると、印税は15万部*4×1,300円×0.1=1,950万円。もちろん、契約内容によってもっと少ない可能性はあるが、おそらく1000万円はくだらないだろうと想像できる。

②著者名が匿名である

これも、犯人が犯行時に未成年だったことが原因のひとつだが、本書の著者名は「元少年A」となっていて、実名は明かされていない。私はこのことこそ、太田出版ここに書いているような社会的意義ではなく、自社の利益を優先させた証拠のように感じられる。当然ながら、世間での認知度は誰も知らない本名よりも「少年A」のほうが高く、読者がピンとくるため、売上につながりやすいからだ。

どういう経緯でこの著者名で出版することになったのかは不明だが、事件の犯人として本書を著して金銭を得ようとするならば、現在の生活が崩壊するリスクを負うべきだという人々の主張は大変納得できるものである。この意味で太田出版が非難されるのは理解できる。また、どうしても著者が「少年A」であることを強調したいなら、著者名は本名にしたまま帯分で強調するなり、いくらでも作り方はあるはずだ。もちろん、これが「元少年A」の意向によるものなのかはわからないが。

③内容が気持ち悪い

徒花はきちんと本書をすべて読んだわけではないが、パラパラと斜め読みしてみて、本書の内容がかなり気持ち悪いものに感じた。元少年Aの異常な性癖がどのような経験をへて形成されたのかが具体的に書かれているため、生理的に嫌悪感を抱く人が多いだろうことが予想される。

Amazonのレビューを見ると、我慢して最後まで読んだ人は後半の少年院部分も含めて評価する部分があるという感想を残しているようだが、前半でギブアップした人は「オナニー本」であるとして本書が世に存在することそのものを拒絶している。個人的には(書いてあることの内容は違えど)世の中の半数以上の本は少なからず著者の表現欲を満たす「オナニー本」だと思うが、それにしても本書のとくに前半部分の内容が人々の支持を得られないような内容であろうことは間違いなく、これも大きなバッシングを受ける要因のひとつとなっていると考えられる。

こんなところだろうか。ほかにも「被害者遺族の気持ちを踏みにじる」「被害者に無許可で出版するのはフェアではない」「青少年に悪影響を与える」「殺人がキャリアになりうる前例を作るのは問題だ」などの意見があるが、これらはほかの殺人事件の犯人が書いた著書でも同じであるはずなので、本書のみの批判には当てはまらない。

 

もしも私が本書を出版するかどうか決定する立場にあったら

さて、ここからが本題になるが、弱小出版社で書籍編集の仕事をしている私が、もしも元少年Aから本書の原稿を持ち寄られたらどうするか、を述べていきたい。(もちろん、私は下っ端編集者なのでこんな大事をどうするかという決定権はないが)

私は出版人であるからして、表現の自由は守りたい。いかに被害者遺族の気持ちが傷つけられようとも、そのことによって元少年Aの「自分の書いた文章を世に出したい」という思いをないがしろにするのはあってはならないことだ。そして、編集者の仕事は単に文章を整理するだけではなく、ステークホルダーに満足(または妥協)してもらうことである。

ベストな方法はもちろん被害者遺族の許可を取ることだが、それが叶わない場合、彼らの反対を押し切って出版するだろう。編集者はやっぱり、最終的には著者の味方でなければならない。だがいずれにしても、被害者遺族をまったく無視して出版するのはマナーとしてありえない。これは私のプライベートな考えである。

ただし、一方で私は出版社に所属するサラリーマンであり、会社の利益をつねに考えなければならない。本書を出版することが自社の利益になりうるかを判断しなければならないのだ。これはかなり難しい。実際、『絶歌』は太田出版に大きな利益をもたらしているだろう。その代わり、世間は元少年Aとともに太田出版への批判も強めている。Amazonのレビューなどを見ると、「今後一切、太田出版の本は買わない」と宣言している一般読者もいるほどだ*5これは長期的に見ると、会社の損失になりうる。経済的な観点から考えると、この出版の是非は判断しかねるところだ。

で、結論を言うと、私は出さない。

まず、「表現の自由」を守ることだけを目的とするのならば、商業出版である必要はない。ブログで発表してもいいし、同人誌でも書いていればいい。ただ、出版社はあくまで営利団体なので基本的にカネにならない仕事はしないから、もし少年Aがどうしても商業出版として世に出したいならば、自費出版を勧めるだろう。

また、経済的なことを考えてもリスクが高すぎる。出版不況だといわれているが、それでもこんなリスキーなものでなくても、それなりに売れれば利益は出せる。ただ、会社の財務状況が本当に厳しく、なんとかドカンと一発大きなものを出さないと倒産の危機に見舞われるという状況なら話は変わってくる。

さらに、これが決め手だが、単純に「自分だったら買わない」と思うからだ。私は高潔なジャーナリズム精神というものは持ち合わせていないので、この本を出版することによる社会的な意義とかはあんまり考えない。だが、極力自分が金を出して買いたいと思う本だけを作りたいと思っている。

ちなみに、この一件に関しては被害者遺族が訴訟を起こそうとしているという話が出ていて、そうなれば「元少年A」の本名や住所などが明らかにされるらしい。また、アメリカの一部などで施行されている、犯罪者が自分の犯罪歴を利用して利益を得ることを禁止する「サムの息子法」を導入すべきという意見も出ている。今後、このニュースがどういう流れを作っていくかは、注視していきたい。

 

というわけで、お粗末さまでした。

*1:ただし、本当に当時14歳だった少年Aが本当にこんな事件を実行可能だったのか、共犯者はいなかったかなど、都市伝説的なうわさも多い。

*2:ただしこの事件はちょっと特殊すぎる。くわしくはWikiを参照のこと。

*3:ちなみに、市橋達哉氏は印税全額を被害者家族に送ることにしているが、ポーカーさんの家族は「1ペニーも受け取らない」としており、受け取ってもらえなかった印税は公益に変えるようになっているらしい。

*4:初版が10万部で6月19日にはさらに5万部増刷が決定した。

*5:もちろん、どれだけの人が太田出版に嫌悪感を抱くのかは未知数だ。世の中のほとんどの人は、本を買う時に出版社の名前は見ない。