『ネガティブ・ケイパビリティ』(帚木蓬生・著)のレビュー
新型コロナで東京都などに3度めの緊急事態宣言が出て5/31までの延長が決定しましたが、まあたぶん大多数の市民の感覚としては「はいはい」という感じであまり気に留めていない感じかと思います。
そもそも「緊急事態」というのはなんなのでしょうか。
Wikipediaによると、日本で緊急事態宣言が出たのは
1941年:太平洋戦争
1948年:阪神教育事件(GHQの養成を受けた日本政府が朝鮮学校を閉鎖しようとしたら在日韓国・朝鮮人と共産党が暴動を起こした事件)
1982年:日本国有鉄道(いわゆる国鉄)の極度の経営悪化による強行民営化
となっています。
つまり緊急事態宣言というは
「マジ国家の存亡にかかわるやべえ状況だから、政府が一時的に法律を無視するようなことするけど許してね」
ということですね。
緊急事態宣言が出るというのはそれくらい「やべえ状況」であるということであって、法治国家にとっては最後の手段であるわけです。
そのため、2020年の4月に新型コロナで1回めの緊急事態宣言が出たときには国民も「これはやべえな」と思ってみんな外出を自粛したりしたわけですが、それからほとんど間を置かずに2回め、3回めをやったのは悪手で、自ら緊急事態宣言の威力を弱めてしまったといわざるをえません。
そんな感じで政府の対応もゴチャゴチャしてしまって、オリンピックもやるのかやらないのかわからず、いろいろなことの収束の兆しが見えない状況ですが、そういうときに役立ちそうなのがこのネガティブ・ケイパビリティなのかもしれないのです。
ネガティブ・ケイパビリティとはなにかというと、本書のサブタイトルの通りで、「答えの出ない事態に耐える力」です。
世の中にはみんなでがんばったり、すごいアイデアが出ることによって一気に解決する問題もあるのですが、現時点ではどうやっても解決できない問題もいろいろあります。
日本で言えば少子高齢化とか経済格差の拡大とか地方衰退とかもそうかもしれませんが、個人の生活レベルでも
・子どもが学校でいじめにあっている
・老親が認知症になった
・不治の病で余命を宣告された
などが該当するんじゃないでしょうか。
私たちはついつい「この世のあらゆる問題には解決策がある」「この世のすべてのことはいつか理解できる」と思ってしまいがちですが、たぶんそんなことはなくて、世の中には永遠に解決できない問題や、永遠に理解できないものもあるんじゃないかなと思います。
科学の世界もそうです。科学者の書いた本とかを読んでいると、いかに科学者がいろいろなことをいまだに解明できていないかがわかります。
私たちは自分の脳がどうやって思考しているのかわかっていないし、宇宙がどうやって始まったのかもわかっていないし、死ぬとどうなるのかもわかっていません。
宇宙なんてほとんどダークマターとダークエネルギーという厨二病かよという謎物質と謎エネルギーです。
ただ、かくいう私も、割と白黒ハッキリつけたがる人間で、もやもやした状態が好きじゃありません。
前の記事で紹介したミステリの1つのジャンルに「リドル・ストーリー」というものがあります。
これはあえて結末を書かず、読者の想像にまかせる物語ですが、私はこういうのが嫌いです。なにかしら書き手が結論づけてほしいなあと思ってしまいます。
ただこの傾向があるのは私だけではないようで、人間という生き物に生来備わっている能力によるようです。
<問題>を性急に措定せず、生半可な意味づけや知識でもって、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、宙ぶらりんの状態を持ちこたえるのがネガティブ・ケイパビリティだとしても、実践するのは容易ではありません。
なぜならヒトの脳には、後述するように、「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからです。さまざまな社会的状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちがいろいろな意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとするのも、そうした脳の傾向が下地になっています。
目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ちつかず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。世の中でノウハウもの、ハウツーものが歓迎されるのは、そのためです。
「分かる」ための窮極の形がマニュアル化です。マニュアルがあれば、その場に展開する事象は「分かった」ものとして片づけられ、対処法も定まります。ヒトの脳が悩まなくてもすむように、マニュアルは考案されていると言えます。
ところがあとで詳しく述べるように、ここに大きな落とし穴があります。「分かった」つもりの理解が、ごく低い次元にとどまってしまい、より高い次元まで発展しないのです。まして理解が誤っていれば、悲劇はさらに深刻になります。
私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。
ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。
なお、ここがすごく難しいところなのですが、ネガティブ・ケイパビリティは上で引用したようなものを指しているので、本書では「どうすればネガティブ・ケイパビリティが身につくのか」というハウツーや、「ネガティブ・ケイパビリティを利用することでなにがどうなるのか」という解決策は提示されません。
そもそも、ネガティブ・ケイパビリティはそういう次元で論じられるものではないからです。
なので、いわゆるメンタル系のハウツーもののように、現在進行系でなにか下の事態に困っている人の事態を解決したり、進展させるものではありません。
強いてメリットを上げるとすれば、世の中のさまざまな不条理や解決困難な問題に直面しても、それに対峙してメンタルを弱らせないようなレジリエンスが身につく……といえるかもしれませんが。
なかなかつかみにくくて、扱いが難しい力でもありますね。でも、知っておいて損はないと思います。
あともう1つ、ネガティブ・ケイパビリティのリスクみたいなものを挙げるとすれば、問題に直面したとき、なんでもかんでも耐えればいいというわけではないということでしょうか。
世の中には解決できない問題もありますが、本人の努力やちょっとしたアイデアで「解決できる問題」があるのもまた事実です。
厄介なのは、私たちはそういう「解決できる問題」と「解決できない問題」に矢継ぎ早に直面していて、その2つを判断しながら生きていかないといけないということですね。
解決できない問題を解決しようとして心身をすり減らすのもしんどいですが、解決できる問題に対してネガティブ・ケイパビリティを発揮してもなかなか幸福に離れないように思います。
要はバランスの問題ですね。
私たちは普段「がんばる」ほうに体重をかけがちで、がんばらないとか、耐え忍ぶとか、現状をそのままにするということに意識が向かいません。
でも、それだと疲れてしまうから、こういうネガティブ・ケイパビリティみたいな概念を知っておいて、どうしてもダメならあきらめましょう、受け入れましょうという「選択肢」を知っておくことが大事なんじゃないでしょうか。
それがまた、実践するのは難しいんですが。
後記
今季のアニメで「オッドタクシー」を観ています。
マンガ原作ではない、アニメオリジナル作品で、先が読めないからおもしろいですね。
オットセイのタクシードライバー小戸川を中心に、いろいろな人間模様を描くヒューマンドラマです。
中心になっているのは「女子高生失踪事件」で、それに小戸川がからんでいるようですが、いろいろ細かい謎が多いですね。
なお、この作品では『BEASTERS』みたいな感じで、登場人物たちがすべて動物で描かれています。
ただ、これは別の人も考察しているのですが、私がちょっと感じたのは「もしかしたら登場人物たちが動物に見えているのは主人公の小戸川だけなんじゃないかな」というものでした。
小戸川は精神科に通院していて、不眠症でもあるのですが、もしかしたらそういう精神病の一環なのかもしれないなあと。なんとなく、そう感じさせるシーンがたまにあります。
あとOPが雰囲気あって素敵です。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『書きたい人のためのミステリ入門』(新井久幸・著)のレビュー
- 「クローズド・サークル」のお手本になる3冊
- 「論理を重ねて真相にたどり着く」のお手本になる1冊
- 「奇想天外で美しい謎」のお手本になる3冊
- 「密室もの」のお手本になる3冊
- 「心理的に美しい謎」のお手本になる3冊
- 「地の文にひそむウソ」のお手本にある2冊
- 「フーダニットの変化球」のお手本になる3冊
- 「意外な動機」のお手本になる4冊
- 「ホワットダニット」のお手本になる5冊
- 「うますぎる伏線」でお手本になる2冊
- 「安楽椅子探偵」のお手本になる6冊
- 「アリバイトリック」のお手本になる2冊
- 「リドル・ストーリー」のお手本になる2冊
- 「群像劇」のお手本になる1冊
- 「ファンタジーミステリ」のお手本になる2冊
- 「SFミステリ」のお手本になる1冊
- 後記
小説のジャンルには「恋愛」「冒険活劇」「歴史」「SF」「サスペンス」「ホラー」「人情物」などいろいろあるわけですが、そうしたさまざまな物語の基本はミステリーなんじゃないかなとも思うわけです。
読者が物語にのめり込むのは、小説のなかで「解決されていない問題」が発生して、その結末がどうなるかが気になるからでしょう。
「この物語はどういう結末を迎えるんだろう?」という疑問をいだき、それが最後に解消されるはずだと期待して、人は物語を読むことが多いです。
その意味でいえば、推理小説、いわゆる「ミステリ」とよばれるジャンルはその構造がとても明快です。
なにかしらの事件が起きて、謎が提示され、最後に名探偵がそれを鮮やかに解決してカタルシスを読者に提供するます。
ある意味で、人が物語にのめり込む構造がフォーマット化された世界といえるんじゃないでしょうか。
ある意味で、最近流行りの異世界転生者のフォーマットと近いものがるかもしれませんね。
型が決められているなかで、どうやってバリエーションを出し、読者を驚かし続けられるかの勝負になってきます。
んで、型が定められているということは、そのなかでさまざまな「お約束」……暗黙のルールみたいなものがあって、それがわかっているとよりミステリを楽しむことができます。
そのお約束みたいなものを簡単にまとめつつ、ミステリを自分でも書きたいという人にいろいろなアドバイスを詰め込んでいるのがこの本です。
著者は新潮社で働く現役編集者(というか編集長)です。
自分が働いている会社で自分の著書を出すのはどういう気分なのか、印税条件とかはどうしているのかは個人的に気になるところですが、まあそれは置いておくとして、20年近くにわたってミステリーの新人賞などの事務局でしたよみをしてきたとのことです。
何百本という応募原稿を読んできて、「惜しいなあ、もっと面白くできたはずなのに」と思うことがよくあった。それは突き詰めれば、「ミステリ的な手続き」に不備があったり、いわゆる「お約束」を踏まえていないことに起因する。
ミステリは、「暗黙の了解」の多いジャンルである。それらは本来、読書経験の中で自然と身に付いてくるものではあるが、独力ではどうしても時間がかかるし、限界もある。
(中略)
下読み経験を基にしているから、小説家を志す人には、多少なりとも参考になるだろう。新人賞運営の事務局として、「これは知っておいて欲しい」と思っていることをもまとめておいた。
まあ、新書で文章もわかりやすく、サラッと読めるので、そのミステリのお約束は本書を読んでもらうことにして、ここでは本書で紹介されている魅力的なミステリの名著をピックアップしてまとめておきます。
結局のところ、ミステリを書きたいのであれば、これらの本は読んでおきたいよね、ということです。
個人的にもまだ読んでいない本があるので、備忘録代わりにまとめておきます。
「クローズド・サークル」のお手本になる3冊
「論理を重ねて真相にたどり着く」のお手本になる1冊
「奇想天外で美しい謎」のお手本になる3冊
刑事たちが見張るなか、電話ボックスから忽然と人間が消える謎が出ます。
収録作『神の灯』では家一軒がまるごと消失します。
「密室もの」のお手本になる3冊
「心理的に美しい謎」のお手本になる3冊
「ミッシング・リンク」のお手本になる3冊
「日常の謎」ミステリのお手本になる2冊
「地の文にひそむウソ」のお手本にある2冊
「読者への挑戦状」のお手本になる3冊
「フーダニットの変化球」のお手本になる3冊
「わたしはこの事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、犯人なのです。」
「私はこの事件の犯人であり、探偵であり、どうやら、被害者にもなりそうだ。」
「この推理小説中に伏在する真犯人は、きみなんです。」
「意外な動機」のお手本になる4冊
「ホワットダニット」のお手本になる5冊
「ミスディレクション」のお手本になる1冊
収録されている『幽霊妻』。
「うますぎる伏線」でお手本になる2冊
「安楽椅子探偵」のお手本になる6冊
「アリバイトリック」のお手本になる2冊
「リドル・ストーリー」のお手本になる2冊
収録されているF・R・ストックトンの『女か虎か』と、C・モフェットの『謎のカード』。
収録されている『決断の時』。
「群像劇」のお手本になる1冊
「ファンタジーミステリ」のお手本になる2冊
「SFミステリ」のお手本になる1冊
以上。
個人的にはもうちょっといろいろオススメしたいものもありますが、あくまで本書で取り上げられていたものでピックアップしてみました。
こういう本を読むとミステリが読みたくなるし、書きたくなるものですね。
後記
Amazonプライムでレンタル199円セールだったので、『2分1の魔法』を観ました。
実写版の『ムーラン』や『ソウルフル・ワールド』もそうですが、2020年くらいの公開予定だった映画は新型コロナのせいでスケジュールがメタメタにされて大変だったでしょうね。
本作も日本の興行収入的には失敗と言わざるを得ないような結果になってしまいました。
さて本作は、魔法と科学技術が両方存在する世界で、亡くなったお父さんを1日だけ復活させる魔法を完成させるために旅立つ兄弟の物語です。
魔法は便利だけど、習得が難しいし手間がかかる。それよりも誰でも簡単にできる科学のほうが便利じゃない?という世界です。
そのせいで、世間からはすっかり魔法を使う人がいなくなり、妖精やマンティコアなど翼を持っている種族たちも、空の飛び方を忘れてしまっていました。
テーマは「魔法の見直し」と「兄弟愛」でしょうか。
亡くなったお父さんとの再開は副次的なものであるように感じます。
「死者との再会」というテーマであれば『リメンバー・ミー』がありますしね。
ピクサーの作品で、たくさんの人とお金をかけて作られているので、ぜんぜんつまらなくはないですが、絶賛して人に勧められるほどおもしろかったわけでもなく、65点くらいの映画という感じでした。
この「65点くらい」ってものすごく厄介ですね。
この作品を観ていても、とくに「悪いところ」が見つからないのです。
明らかに悪いところが見つからないから、どこをどうすればもっとおもしろくなるか……そもそも、もっとおもしろくなる余地はあるのかなどがわかりません。
本づくり……というか原稿の作り方もこれと同じようなところがあるような気がします。
ちょっといい方は悪いですが、著者の先生なりライターさんなりから届いた原稿が65点くらいのおもしろさだと、もうちょっとどうしようもできなくなります。
もちろん、40点くらいのものを手直しすれば65点より上に行くのか……というとそんなことはなくて、結局40点のものにいろいろ修正を加えて65点になることもよくあるのですが、でもやっぱり65点くらいの原稿の本はあまり大きくは売れないです。
ただ、65点あれば十分というのもまた事実である側面もあって、これは投資信託における「インデックス運用」と「アクティブ運用」に近いものかもしれません。
インデックス運用というのは、市場平均に近い成果を出すように運用することで、大儲けはできないけれど、ヘタも踏むことが少ない投資手法です。
一方、アクティブ運用はもっとリスク(振れ幅)を大きくして大勝ちを狙いにいく投資の手法で、大儲けできることもあるけど、空振りして大損することもあります。
65点くらいの本を安定的に作ることも大事なんですが、やっぱりそれだとおもしろみに欠けるので、65点くらいの本をつくりつつ、ホームランを狙ってバットを大きくふるような本もつくっておくのが私の理想とする働き方だったりします。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『大人の教養として知りたい すごすぎる日本のアニメ』(岡田斗司夫・著)のレビュー
ここのところブログの更新が滞り気味なのは仕事がいろいろ忙しくてあまり本を読めなかったというのもあるのですが、同時に「これはおもしろい。紹介せざるを得ない」と感じるような本に出会えなかったことも理由の1つにあるような気がします。
おもしろい本に出会えない原因はいくつか考えられます。
1つは、単純に読んでいる本が少なすぎる、あるいは書店に行く時間が少なすぎるということです。
結局のところ、なにをおもしろいと感じるかなんて十人十色なので、自分がのめり込める本に出会うには有象無象の本を読みまくるしかないでしょう。
あとは、「つまらない本でも読まざるを得ない状況だった」というがあります。
これは私が編集者をしているからで、ふつうの人であまり当てはまることはないと思いますが、編集者という仕事をしているといまつくっている本(あるいは企画している本)の資料としていろいろな本を読まなければいけないことが多く、そういう本を読んでも大概はあまりおもしろいとは感じられないもんです。
あとは、「とりあえず売れているから目を通しておかなきゃかなー」というスタンスで読んだりするケースもあります。
そういう場合は「おもしろい/つまらない」という視点は脇においておいて、「なるほど、いまはこういう内容の本が売れているのね」という分析になってしまうことが多く、その場合もあまりのめり込めないもんです。
というよりも、そういう本は「読む」という行為をあまりしていないかもしれません。ページに目を落としながらいまの自分に必要な情報を取捨選択する作業をしている……というのが近いかもしれません。
あとは「Kindle Unlimitedの弊害」もあるように思います。
Kindle UnlimitedはAmazonの電子書籍の読み放題サービスで、月額980円を支払うことで対応している作品を10冊までレンタルしながら読むことができます。
このサービス、コスパはぜんぜん悪くないんですけれども、ついつい「そんなに読みたいと感じない本も読んでしまう」という側面があるように感じます。
そんなに読みたくないし、実際に読み始めてみてもそんなにおもしろくは感じないんだけど、せっかくKindle Unlimitedで読み放題になっているし、来月になるとまた新しいラインナップが出たり、いま読んでいる本がKindle Unlimitedの対象外になっちゃうこともあるだろうからいまのうちに読んでおいたほうがいいかなーという意識が働いたりして、ついついそっちを優先的に読んでしまうんですね。
あと、スマホで読めるから電車のなかで本を取り出すより楽だったりするというのもあります。
ただ、ときどきやっぱりそうやって読んだ本のなかにも「おもしろー!」と感じるものがあったりするのです。
この本はまさにそうでした。
岡田斗司夫さんは一定年齢以上のオタクの人であれば知っていると思いますが、知らない人もいるだろうから、簡単に説明しておきます。
岡田さんはガイナックスというアニメ制作会社を立ち上げ、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』などを手掛けたプロデューサーさんです。
ガイナックスはいまをときめく庵野秀明監督が所属していて、『新世紀エヴァンゲリオン』はもともとガイナックスから生まれたのですが、これは岡田氏がガイナックスを代謝したあとの出来事で、ガイナックス退社後はアニメを始めとするサブカル領域の評論家・文筆家みたいな立ち位置になっています。
ちなみにその後、いろいろなゴタゴタがあったみたいで庵野秀明氏はガイナックスと袂を分かち、カラーというアニメ制作会社を立ち上げて、ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズを制作しました。
さて本書は岡田氏がニコニコ動画などで語ったアニメ論をまとめた一冊で、『シン・ゴジラ』『君の名は。』『風の谷のナウシカ』『機動戦士ガンダム』『この世界の片隅に』と、それぞれの監督の作品についての持論が展開されます。
いずれの解説も岡田氏の深い知見と洞察で織りなされていて興味深いのですが、もちろん本書の内容は岡田氏の持論であり、実際どうなのかはわかりませんが、おもしろいからそれはあまり考えすぎなくてもOKでしょう。
どの話題もおもしろいのですが、やはり特筆するべきは『シン・ゴジラ』です。
アニメを解説するといっておきながら、いきなり特撮映画です。
「『シン・ゴジラ』は、特撮だし、CGも使っているけど、実写映画じゃないの?」
そう思われたことでしょう。
では、アニメと実写作品の違いとは何でしょうか?
『エヴァンゲリオン』が実写だという人はいないでしょう。アメリカの映像制作会社、ピクサー・アニメーション・スタジオの3DCGアニメ『カーズ』も実写ではありませんよね。
でも、ハリウッドのド派手なアメコミ映画も、アクションシーンを中心にほとんどがCGを使うようになってきています。
実写とアニメの本質的な違うというのは、画面を絵やCGで描いているかどうかではありません。最大の違いは「画面に対する支配欲求」にあります。
いきなりすごいことをいいはじめますよね。
岡田氏いわく、画面のあらゆる動きや表現を監督の思い通りにつくるものは「アニメ」であるということです。
たとえば割れたガラスの破片が飛び散るシーンを考えてみます。
アニメやCGを使えば、それら飛び散るすべてのガラスの破片の大きさや飛ぶ軌道、スピードを1枚1枚コントロールすることができます。実写でそれを再現しようとするのは不可能です。
『シン・ゴジラ』の家屋破壊シーンは瓦の崩れ方がやたらカッコいい。おそらく庵野は、特定の瓦だけ極端な動きで飛ばすよな指示をしているのでしょう。
『シン・ゴジラ』のビルや街の破壊シーンの出来がなぜ、あんなにいいのかといえば、いい具合の「けれんみ」があるからです。
専門のCG業者に発注すれば、たしかに制度の高い物理演算を行ってリアルなシーンをつくるでしょう。しかしそれはリアルですが、けれんみが足りません。それでは、けれんみを重視して手描きアニメで表現するとどうなるのかといえば、特定の瓦だけはパッと吹っ飛ぶけれど、それ以外の瓦は単調な動きになってしまいます。
『シン・ゴジラ』の屋根が破壊されて瓦が滑り落ちるシーンは、物理演算に手描きアニメ特有のデフォルメを加えた、庵野だからこそできる動きです。
これがディズニー映画なら、物理演算を使ってデフォルメも表現しようとするでしょう。たとえば『モアナと伝説の海』は、波や髪の毛の表現が素晴らしい。主人公モアナが振り向くときの、チリチリした髪の毛の動きがものすごくいいんです。
モアナの髪は、動きはじめはやや極端に広がり、振り向いたところですばやく静まります。物理演算で髪の毛を本物そっくりに表現するなら、広がった髪の毛はもっとゆっくり戻るはずですが、そうすると演技の邪魔になってしまう。振り向いたところでキャラクターはセリフをしゃべらないといけないから、その時点で髪の毛は静まっていてほしい。ですから、その部分に関しては髪の毛の動きを速くする処理を入れているわけです。もし庵野がモアナをつくるなら、特定の髪の毛だけ動かすのではないでしょうか。
『シン・ゴジラ』では、登場人物たちがやたら早口で専門用語をまくし立てますが、あれも監督のイメージ通りに作品を仕上げるために「俳優たちに演技をさせない」という目的があるためだと岡田氏は述べます。
私はふだん、あまりテレビドラマは見ないし、あんまり邦画も好きじゃありません。
それはなぜかというと、すっごくわざとらしい感じがするからです。もしテレビドラマでしゃべっているような感じで職場の人がしゃべってきたら、「頭どこかにぶつけたりしたのかな?」と心配になりますよね。
これは俳優さんたちがしっかり「演技」をしてしまっているからです。
いってみれば、舞台で劇を演じているようなものですね。
本書のなかでも述べられていますが、日本人はふだんの日常会話ではものすごく表情の変化が乏しいです。テレビドラマのなかみたいに喜怒哀楽をハッキリ表現しません。そこに違和感を抱いてしまうのでしょう。
一方、アメリカのドラマとか映画とかは、そういうのが気になりません。それはたぶん「アメリカ人が普段、リアルでどういうふうにしゃべっているのかを私が知らない」のと「実際にアメリカ人たちは日本人よりも身振り手振りや表情が豊か」というのがあるんだと思います。
『シン・ゴジラ』でそういう演技臭さがあまりないのは、ものすごく大量のセリフを短時間で喋らないといけない状況を作り、そんなふうに演技をする余裕を俳優さんたちにもたせていないからです。俳優さんたちに「演技しないでください」といっても難しいから、物理的にそれができないようにしたということですね。
これもある意味、庵野監督による画面操作の一環であるということです。
あともう1つ、岡田斗司夫さんが喝破しているのは「庵野の真髄は破壊と爆発にあり」というところです。
庵野の描く「爆発」は、メカにとどまらず、繰り返しモチーフとして登場します。彼の作品の恋愛や情愛は、すべて壊れる瞬間でしか描かれていません。何かの関係が壊れる瞬間を描くことで、初めてその存在を実感する。
彼は物語をハッピーエンドにもっていくことが不得意です。きっとそれは彼にとって、嘘になってしまうから。彼は物事が爆発したり、壊れたりするときに初めて、存在を実感するという監督だと思います。
この発言、先日も再放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』の庵野秀明スペシャルと見ると、なかなか説得力があるように感じます。
庵野監督はとにかくちゃぶ台をひっくり返しまくるのです。
いったん「この方向性で行こうか」とまとまりかけたものを「やっぱりシナリオがダメだということがわかったから、シナリオから練り直す」ということを平気でやって、スタッフさんたちを右往左往させます。
これはたぶん、庵野監督のこだわりが強いとか、庵野監督が天の邪鬼だからということではなく、このようなプロセスを経ないと作品が作れない人なんだということだと思います。
これは私個人の予想ですが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から『シン・エヴァンゲリオン』までおそろしく長い時間がかかってしまった理由の一つは、「もう壊すものがなくなってしまった」ためなのかもしれません。
主人公のシンジくんはすっかり壊れてしまったわけですが、もう壊れてしまっているものをそれ以上壊すことはできないわけで、それをどうすりゃいいねん、というところがあったんじゃないでしょうか。
いろいろ書き出すときりがないのでこのくらいにしておきますが、とにかく本書はこんな感じの内容が延々と続きますので、こういうのが好きな人は楽しく、あっという間に読めると思います。
後記
映画『ゴーン・ガール』を観ました。
いい意味で、すっごく「後味の悪い映画」でしたね。
あらすじを簡単に説明すると、アメリカで暮らすとある夫婦の奥さんが突然行方不明になってしまうという物語です。
旦那さんはメディアの力も借りて奥さんの行方を追うのですが、自宅のキッチンから血液反応が出たり、じつは旦那さんが浮気していたことが明らかになるなど、「じつは夫が奥さんを殺したんじゃないの?」という疑惑が噴出するけど、実際にはどうなんだ?という感じのサイコスリラーとなっています。
書きすぎるとネタバレになるのですが、後半になると物語の毛色がどんどん変わってきて、旦那さんとか奥さんに対する印象がコロコロと変わっていきます。
そして最終的には、ある意味ではハッピーエンドなのですが、どうしようもなく救いのない結末になるのです。
この映画のテーマはずばり「結婚」ですね。
「結婚は人生の墓場」などとよくいわれますが、その言葉を体現したような作品に仕上がっているので、夫婦で見るのはちょっとオススメできません。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『ブルシット・ジョブ』(デヴィッド・グレーバー著)のレビュー
アルベール・カミュの随筆『シーシュポスの神話』には、神々の怒りを買ったシーシュポスが、ひたすら山の山頂に岩を運び続ける罰を与えられるという話があります。
でもシーシュポスが苦労して山頂に岩を運んだ瞬間、岩は絶対に山のふもとまで転がり落ちてしまいます。何度やっても、この結果は変わりません。
私たちが日々やっていることも、このシーシュポスとなんら変わらないのかもしれません。
自分がやっている仕事に意味があるのか……という思いを抱いたことがある人は少なくないのではないでしょうか。
少なくとも私はけっこう頻繁に感じます。
そもそも本なんて生活になくても死なない嗜好品みたいなもんですし、古今東西の名著が古びることはありませんから、商品は増え続けるばかりです。
すでに世の中にありとあらゆるコンテンツは出尽くしている感がありますから、あえて無理くり新しい本をつくる必然性は高くないでしょう。
とくに、「そろそろ新しい企画を考えて会社に提案しないとなあ」と考えながら書店をぶらついていると、山のように積まれた新刊書籍を前にして「すでにこんなに本が出ているのに新しい本を作ることに意味なんてあるんだろうか」などという思いが去来して虚しくなってきたりします。
といっても、その一方で新しい企画を思いついて本を作りはじめると楽しくなってきてしまうのも事実で、虚無感と一時的な熱狂を行き来しつつ、そんな自分の感情に折り合いをつけながら働いている毎日です。
ほかの業界のことはよくわかりませんが、おそらく、多くの業界で働く人が私と同じように「別に自分の仕事がなくなっても社会(とか会社)は回るよね」と考えている人は少なくないんじゃないかと思います。
そういうあまり表面に現れてこないモヤモヤを言語化してまとめたのが、たぶんこの本なのでしょう。
ブルシット・ジョブというのは、サブタイトルにもなっていますが、「クソどうでもいい仕事」という意味です。
ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。
ブルシット・ジョブのもっとも厄介なポイントは、上の説明文の最後の一文に尽きるでしょう。
みんな薄々、自分の仕事の無意味さに気づいているけれど、その無意味な仕事によってこの資本主義社会が回っているし、それによって自分は生活するためのお金を得ることができているのだから、口に出すことができない状況なのです。
さて本書誕生のきっかけは、文化人類学者の著者が思いつきでウェブマガジンに投稿したブルシット・ジョブの考察からでした。
この投稿をしたところ、サーバーがダウンするほどの大量のアクセスが集まり、多くの人々が「自分の仕事もブルシット・ジョブだ」ということコメントを寄せまくったのです。
ある意味、この本はパンドラの匣を開けてしまったのかもしれません。
さて本書は以下のような内容で構成されています。
・ブルシット・ジョブとはなにか
・ブルシット・ジョブにはどんな種類があるか
・ブルシット・ジョブは人間の精神にどのような悪影響を及ぼすか
・なぜブルシット・ジョブは増え続けるのか
・ブルシット・ジョブの増大は社会にどのような影響をもたらすのか
ぶっちゃけ、かなりボリューミーで読むのはなかなかしんどい本です。
著者のもとに寄せられた具体的なメッセージを多数紹介しつつ持論を展開していきますが、なんとなく論理がまとまりきれていないような印象も受けます。
たぶん、私たちの仕事の多くが「ブルシット・ジョブ」なのは間違いないだろうけれど、じゃあ私たちはどうすればいいのか、ということはわかりません。
もしかすると今後、AIとか人工知能がさらに進歩して、もっともっと人間が働かなく慣れば、それにともなってブルシット・ジョブは減少していくかもしれないし、逆に、そういったAIなどが人間からさらにエッセンシャルな仕事を奪い、それでも働くことを共用される人々が増えることでブルシット・ジョブの増加につながる未来もありえます。
そういえば、新型コロナの感染拡大で、小池百合子都知事が「エッセンシャルワーカー以外は東京に来るな」的な発言をしたことがニュースになっていました。
新型コロナによって私も打ち合わせとか飲み会がかなり減りましたが、じゃあそれによって仕事にどうしようもなく差し支えがあるかとか、なにかすごく困った事態になっているかというと、そんなことはありません。
できなきゃできないで、なきゃないで、大概のものはなんとかなるもんです。
その意味では、新型コロナという災害はこの社会における「必要」と「不必要」をふるいにかける装置みたいな役割を担っているのかもしれませんね。
この本を読んでなにかがスッキリ解決するとか、そういう類のものではないし、読むのもなかなかしんどい本なのですが、どうせゴールデンウェークもあまり遠出できなさそうなので、この機会に読んでみるのはアリかもしれません。
後記
ここ最近は「ココロインサイド」というゲームをやってました。
ファミコンを彷彿とさせる2Dドット絵のアクションアドベンチャーゲームで、ガチャ要素もありますが、無課金のまんま最後のシナリオまで到達できました。
ココロインサイドという、他人の心のなかに入り込めるスマホアプリを手に入れた主人公が、街で起きているさまざまな問題を解決するという物語です。
シナリオのボリュームがちょうどいい感じですね。
ちょっとしたアクションを必要とするバトルも、シンプルながらほどよい難しさで楽しめます。おもしろかったです。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『センスは知識からはじまる』(水野学・著)のレビュー
編集者はある程度のセンスが求められる職業であります。
たとえば本の表紙(厳密にはカバー)。
つくるのはもちろんデザイナーさんですが、デザイナーさんが出してくれた案にいろいろ注文をつけたり、いくつかデザイン案があるなかで最終的にどれにするかを決めるのは編集者に委ねられます。
また、それ以前の「企画コンセプト」や「タイトル」「帯コピー」「章タイトル」から文章の細かい表現に至るまで、書籍の編集者は自分が担当する書籍のさまざまなところで大きな裁量を任されます。(このあたりが雑誌の編集者と書籍の編集者のおおきな違いですね)
さて私は現役の書籍編集者をしていますが、基本的に、自分のことをセンスがない人間だと思っています。つまり、自分の感覚をあまり信用していません。
とくに、タイトルを決めるセンスは壊滅的にダメです。
そもそも、私は「自分のセンスは一般人とズレているかもしれない」という思いを抱いていました。だいたい、私が好きになる作品とか雑誌とかはあまり人気が出ないことが多いからです。
単純に、人気のあるものがあまり好きになれないという天の邪鬼な性格のせいもありますが、純粋に自分が気に入ったものはどうも世間では高く評価されないらしい……という経験を何度かしてきました。
ので、自分が編集する本のタイトルを決めるときも、自分が「これだ!これしかない!」と思ったタイトルを上司に提案すると、「え、まじで?」みたいな反応をされることも多いので、私はあまり自分の感覚を信用せずに、上司とか営業部からの「もっとこういうタイトルのほうがいいんじゃないか」という意見を割とすんなり受け入れてしまうタイプであります。
なので、こういう本のタイトルを見ると、ついグサッと刺さってしまうわけですね。
センスが技術であり、それを身につける方法があるのであれば、それはぜひとも学びたい、と考えてしまうわけです。
さて、本書の著者、水野学さんはクリエイティブディレクターという仕事をしている人で、具体的には熊本県のご当地キャラクター「くまモン」の企画立案など、企業の広告や各種キャンペーン、あるいは企業価値を高めたりするためのプロジェクトなどを統括するような仕事をしています。そもそも「クリエイティブ」を「ディレクション」するなんて、すごいことです。
センスとは、誰にでも備わった身体能力と同じです。
健康な人であれば、誰もが生まれつき走れるし、ジャンプもできる。ただ、そのジャンプがいかなるものになるかは、日々の筋トレや助走のスピードで変わってきます。どれだけセンスを磨き、使いこなせるか――その違いが、センスがいい/悪いということです。
本書では、センスを鍛えるトレーニング方法をお伝えするつもりです。
さて、具体的なトレーニング方法についてはぜひ本書を読んでみてほしいのですが、ここでは「センスがいい」とはなにか、そしてセンスの良さを身につけるための基本的なこと……について、水野さんの考え方を紹介していこうと思います。
センスがいい商品をつくるには、「普通」という感覚がこのとほか大切です。それどころか、普通こそ、「センスのいい/悪い」を測ることができる唯一の道具なのです。
(中略)
普通とは「いいもの」がわかるということ。
普通とは「悪いもの」がわかるということ。
その両方を知った上で、「一番真ん中」がわかるということ。
「センスがよくなりたいのなら、まず普通を知るほうがいい」と僕は思います。
私も編集者をやり始めてそろそろ10年くらいになりますが、この年齢だからこそ、この言葉が持つ意味をよく理解できるようになっている気がします。
本書の冒頭でも書かれているのですが、「センスがいい」といわれる人は、「斬新なものが思いつく」「奇抜なものを思いつく」ような人ではないんですよね。
一見すると凡庸な、パッとしないものなんですが、「王道感」があるんです。
まるで以前からそれがあったような、スルッと人の感覚に馴染む。
これは、くまモンを見てもわかると思います。
くまモンはなにか、すごくインパクトのある見た目があるわけじゃありません。
スゴイ一芸があるわけでもない。飛び道具なんて何も持っていないのです。
しかし、キャラクターとして圧倒的な安心感というか、王道感があって、どんな商品やサービスと組み合わせても馴染む。老若男女に親しまれやすい、覚えてもらいやすい。
当たり前なのですが、ほかのものと差別化しようとするあまり商品やサービスのエッジを立たせようとすると、それは「わかりにくいもの」「玄人好みのもの」「変態的なもの」になってしまって、いわゆる「普通の人」には受け入れてもらえなくなります。
とくに20代くらいの駆け出しのクリエイターとか編集者だと、どうしても新しいものをつくりたくって、「新しさ」をアピールしたがるものなのですが(そしてそういう磁気は絶対に必要だとも思う)、そういうことをしているとヒットするような商品サービス、あるいは本はつくれないものなのです。
これは文章でも同じですね。
文章を書き慣れていない人は、やたら難しい言葉を使ったり、気取った書き方が多くなります。プロフェッショナルは「普通の人」が読みやすい文章をしっかり書いてきてくれます。
これらの根底にあるのは、「視線の方向」にあるともいえるでしょう。結局、斬新で新しいものを生み出したいという考え方は「こんなに新しい、斬新なことを思いついた自分を認めてほしい」「こんなに難しい、気取った書き方ができる自分を褒めてほしい」という感情が背景にあります。でも、こういう気持ちを持っていては、いつまでたってもその道のプロにはなれないですね。視線が自分に向かっていますから。
そうではなくて、視線を自分が作り出したものを最終的に受け取る人に向けて、その人たちが満足するようなものはなにかを考えると、自然とそういうものは「普通」に近づいていくはずなのです。
といっても、とにかく平凡で当たり障りのないものを作ればいいというわけでもないのが、やっぱり難しいところです。
それだと最悪、ただ売れているもののパクリになってしまう恐れもありますから、なにかオリジナリティというか、ちょっとだけエッジを立たせなければいけません。
そこのところの塩梅がいまだに私が会得できないところでもありますし、そういう部分は改めて本書で学んでみてほしいのですが、とにかく「普通」の感覚がめっちゃくちゃ大事であるということは、クリエイター系の仕事をしている人であれば覚えておいておきたいところですね。
ちなみに、ヒット作を出すような編集者は流行りものにとりあえず乗っかる人が多いです。ミーハーです。
それは、普通の感覚を身につけるためであるかもしれません。なので私も、相変わらず天の邪鬼なので心から好きにはなれないのですが、とりあえずいま人気の音楽やサービス、マンガ、作品、本などには触れるようにして、コモンセンスを磨くようにしています。
後記
コモンセンスつながりで、話題になっている「PUI PUI モルカー」を見ました。
モルモットが車になっている世界をシュールに描く、ストップモーションフェルトアニメで、1話3分程度で完結するのでサクッと見られます。
基本的にセリフはなくて、ストーリー性みたいなものもありません。ネタは満載ですが、基本的には可愛いモルカーを愛でるアニメですね。
まあ、短くてすぐチェックできるからいいけど、個人的にはそんなにハマる要素がなく、なるほどなあという思いで見ています。
ちなみに、『呪術廻戦』もいちおう見ているのですが、どうもギャグテイストのあのノリがあんまり肌に合わないけれど、あれもなるほどなあという思いでなんだかんだ見ています。シリアスパートとバトルシーンの描き方はカッコいいですね。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。