本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス著)のレビュー

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羊たちの沈黙(上)(新潮文庫)

羊たちの沈黙(上)(新潮文庫)

 
羊たちの沈黙(下)(新潮文庫)

羊たちの沈黙(下)(新潮文庫)

 

 

※ネタバレ含むので注意

 

今回紹介するのは歴史に名を残すサイコスリラーの傑作、『羊たちの沈黙』です。

映画も大ヒットしたので名前は知っている人は多いと思いますが、意外と原作小説を読んだことがない人も多いのではないでしょうか。

じつは私もそのクチで、小説は読むつもりはなかったのですが、平山夢明さんの『恐怖の構造』を読んでいたら、平山さんがこの『羊たちの沈黙』の小説が大のお気に入りで、数え切れないほど読んだと書かれていたので、それだけ絶賛するのであれば一度くらいは読んでみるべえなと思いたった次第であります。

 

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

 

  

さて、原作小説を読んでみた感想を端的にまとめると、「おもしろいし、見た目よりも読みやすい」といえす。

上下巻に分かれているのですが、文章がうまいのか、展開がスムーズなのか、それともキャラクターが魅力的なのか、サクサク読み進めていけます。

(あるいは、ざっくりとしたあらすじを映画で見て知っているから、というのも大きいかもしれませんが)

 

映画も小説も知らない人のために、あらすじを紹介します。

 

アメリカで女性を誘拐・殺害して皮をはぐ猟奇殺人鬼・通称「バッファロー・ビル」をFBIは捉えられずにいるなか、FBIの行動科学課の課長クロフォードは、訓練生の学生クラリスに白羽の矢を立て、超凶悪犯として収監されているハンニバル・レクター博士へ心理アンケート調査をやってくるように指示をする。

いざレクター博士と会ったクラリスはあっさりアンケートへの回答を断られるが、帰り道、隣の監獄に収監されていた囚人から精液をかけられてしまう。その非礼に怒ったレクターは、その償いとしてバッファロー・ビルの逮捕につながるようなヒントを彼女に出す。

レクター博士の助言に従うことで、少しずつ猟奇殺人鬼「バッファロー・ビル」の正体へと迫っていくクラリス。しかしその一方で、食人鬼として少なくとも9人の人間を食い殺してきたレクター博士も、長年温めていた計画を実行に移すことを考えていた……

 

いわゆる猟奇殺人鬼ものとしてこの作品が異色を放っていたポイントは、「猟奇殺人鬼が2人登場する」ということですね。

そして、悪のカリスマであり、スーパー知的な紳士であり、なに考えているかわからん度ブッチギリのレクター博士が、本来であればサイコサスペンスでもっとも恐れられる存在であるはずの、まだ捕まっていない猟奇殺人犯(バッファロー・ビル)を完全に食ってしまっているということが、また異色な作品である理由です。

 

ここ最近読んだ似た本では、『悪の猿』とか『プラ・バロック』なんかが、やっぱり猟奇殺人機による連続殺人事件が起きるので近いですが、明らかにおもしろさが段違いでした。

 

悪の猿 (ハーパーBOOKS)

悪の猿 (ハーパーBOOKS)

 

 

プラ・バロック (光文社文庫)

プラ・バロック (光文社文庫)

  • 作者:結城 充考
  • 発売日: 2011/03/10
  • メディア: 文庫
 

 

ちなみに、私も読むまで知らなかったのですが、そもそも『羊たちの沈黙』は『レッド・ドラゴン』の続編のような扱いであり、先に『レッド・ドラゴン』が世に出ています。

 

 

私はてっきり、『羊たちの沈黙』がヒットしたから、その前日譚である『レッド・ドラゴン』が作られたのかと思いましたが、そうではなかったみたいです。

映画は『羊たちの沈黙』が1991年公開、その続編の『ハンニバル』が2001年公開、そして『レッド・ドラゴン』が2002年公開となっています。

(2007年に『ハンニバル・ライジング 』というのも公開されていますが、これは黒歴史っぽい感じです)

ただ、よくよく調べてみると、1986年に『刑事グラハム/凍りついた欲望』というタイトルで映画化されており、ビデオ化するときに『レッド・ドラゴン』と改題されたみたいです。

 

刑事グラハム 凍りついた欲望 [VHS]

刑事グラハム 凍りついた欲望 [VHS]

  • 発売日: 1989/01/19
  • メディア: VHS
 

 

実際、『レッド・ドラゴン』はグラハム刑事が主人公の刑事モノっぽい性格が強く、レクター博士は単なる端役だったようでした。

そこから、レクター博士をキーキャラクターに起用し、さらに若くてきれいな女性刑事(候補生)のクラリスを主人公に据えて、女性刑事と猟奇殺人鬼との間に恋人とも敵ともとれるようなふしぎな関係性を構築したのがヒットの要因になったのでしょう。

 

さて、小説を読み終えたあと、どうしてもまた映画が見たくなった私はU-NEXTに一ヶ月だけ加入して、映画を見ました。

(なぜかアマゾンで『羊たちの沈黙』が見られなかった……)

 

羊たちの沈黙(字幕版)

羊たちの沈黙(字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 

映画は映画でおもしろいです。

なによりもアンソニー・ホプキンス演じるレクター博士が完璧すぎました。

でも、小説を読んでから映画を見て気になったのは、じつはもうひとりの超重要登場人物であるクロフォード課長の影の薄さです。

ネットで映画の感想を見ていると、「クロフォードがクラリスに下心ありそうでキモい」という声がありますが、それは言い得て妙というか、映画ではそうとしか受け取られないような描かれ方をしている側面があります。

 

でも、小説を読むとまったく逆です。

むしろ、主人公のクラリスがクロフォードのことを大好きで、なんとかしてクロフォードの役に立とうとがんばろうとするのが、じつは大きな動機になっています。

これは、クラリスが幼少時に大好きな父親を事件で亡くし、ファザコンを引きずっていることが大きく影響しています。

クラリスレクター博士に妙に惹かれるのも、おそらく父と娘の関係に近いようなものがあります。

その意味で、クロフォード課長とレクター博士は2人してクラリスの疑似父親みたいな役割を分担しているわけですね。

 

また、映画ではまるっとカットされていますが、クロフォード課長は病気の奥さんがいて、物語の途中で亡くなってしまいます。(奥さん自体はセリフはない)

クロフォード課長は完全に奥さんラブです。クラリスは眼中にありません。

ただ、クロフォード課長もそれはそれとして腹黒ではあるので、クラリスレクター博士を合わせればなんか起こるだろうということは考えて、仕組んだ張本にであることは間違いないでしょうが。

 

そしてタイトル『羊たちの沈黙』の意味について。

これは「羊たちが屠殺される声」というのがクラリスのトラウマになっていることから、彼女がこのトラウマから解放されたかどうかをチェックするのが「羊たちの声が聞こえなくなったか」になっているからです。

さて、猟奇殺人鬼バッファロー・ビル事件を解決したクラリスのもとに、最後にレクター博士から手紙が届きます。

その手紙を読む限り、

「事件解決で手柄を立てた彼女にはしばらく羊たちの声が聞こえなくなるだろうが、また聞こえてくるから、君はまた頑張ってそれを聞こえないようにしないといけないよ」

というめっちゃ優しい父性あふれるメッセージになっています。

そして最後の最後、おそらくクラリスは若い男とセックスして安らかな眠りに落ち、ファザコンからもちょっと脱却できたよ、というような物語です。

 

チルトンさんは、ご愁傷様です。

 

というわけで、映画は映画でけっこうおもしろいのですが、最終的にはレクター博士のダークヒーローっぷりというか、ピカレスクというか、そういうところが目立つようになっているのですが、小説を読んでみるとまた違う感想が持ててたいへんおもしろいです。

 

後記

 

とあるライターさんのツイートがバズっているのを目にしました。

 

これはすごく共感できることです。

私たちはついつい忙しさにかまけて、本を読むのを後回しにしたり、「もっとゆっくり時間ができてから本を読もう」と考えてしまいがちですが、多分そういうタイミングは訪れないのです。

本は読めるときに読んでおかないと、たぶん一生読みません。

 

そしてこれに私が付け加えるなら、「つまらない本を読むのをやめる勇気」を持つことの大切さです。

ちょっと考えてみたのですが、私の場合、せいぜいで年間に読める本は100冊くらいです(マンガを抜かすと)。

で、残りの人生で頭がはっきりして本が読める時間を40年と考えると、私は残りの人生で4000冊くらいの本しか読めない、ということになるんですよね。

(4000冊も、と考えるか、4000冊しか、と考えるかは主観の違い)

 

いま、日本では年間7万点以上の新刊が刊行されています。

毎年、7万点、です。

私が読める本は、日本に存在する本の0.00~数%でしかないわけです。

 

となると、

「つまらない本を読んでいる時間は1秒もない」

ということがわかります。

 

読書好きな人であるほど、「一度読み始めたら最後まで読みきらなくては」と考えがちですが、それは大きな間違いで、途中でつまらない、これは最後まで読まなくてもいいと感じたら、そこですっぱりと読むのをやめたほうが絶対にいいです。

 

といっても、読み始めて10ページ程度でその本が面白いかどうかを判断するのもあまり懸命とは言えません。

個人的には「3割」をひとつの目安にしています。

とりあえず全体の3割くらいまで読み進めれば、だいたいどういう本かわかるはず。

 

だいたい、おもしろい本というのは冒頭の10ページくらいでしっかり心をつかんでくれることが多いです。

しかしその一方で、最初は読むのが苦痛だけど、読んでいるうちに良くなってくる本もあります。

そういう本も、3割くらいまで読んで読むに耐えるかどうか判断しましょう。

 

ちなみに私は、とくにKidle Unlimitedなどの本では途中で読むのをやめてしまうことが多く、そういうのは読書メーターにも書かなかったりするのですが、今後はほかの人の参考にしてもらうためにも「3割本」と称して残しておこうと思った次第です。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『幸せになる明晰夢の見方』(ディラン・ドゥッチロほか著)のレビュー

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幸せになる明晰夢の見方

幸せになる明晰夢の見方

 

 

明晰夢というのをご存じでしょうか。

「これは夢だ」と、夢を見ている本人が自覚しながら見る夢です。

「明晰(めいせき)」というのは「はっきりしている」という意味ですね。

「頭脳明晰」などと使われます。

(ここでいう「夢」とは、将来の夢とかではなく、夜寝ているときに見る夢のことを指します)

 

ふつう、夢を見ている人は、「いま、自分は夢を見ている」とは気づけません。

起きて初めて「あ、夢だったのか」と気づくわけですね。

明晰夢はそんな当たり前を打ち砕き、「なんでも叶う夢の世界で好きなことやろうぜ」という欲深い人間が考え出した概念であります。

そして本書は、そんな欲深い人間のために書かれた本です。

これに比べると、「株式投資で億万長者」とか「愛され女になるコスメテク」なんて、まだまだかわいいというか、他愛のない欲望であるように感じられます。

 

明晰夢を見方を学ぶというのは、株式投資とか愛されメイクのやり方を学ぶよりもよほど不毛で、バカバカしいものです。

夢のなかでいくら自分の自由なことができたって、それは現実世界では毛ほどの役にも立たない、まったく影響を及ぼさないわけです。

こんな本を好き好んで読む人間の気がしれません。

 

さて、この本はアメリカの3人のライターさんがさまざまな文献をベースに、明晰夢の見方のメソッドをオリジナルに編み出したものをまとめた本です。

心理学の先生とか、脳科学の先生が書いたものではないので、科学的エビデンスがどれくらいあるのかは、よくわかりません。

ただ、私自身がこの本の内容をちょっとやてみたところ、変化がありました。

 

私はすごく寝付きがよい人間で、布団にはいると5分もかからずに寝てしまい、築くと朝になっている毎日です。

夢も、たぶん見ているのでしょうが、まったく覚えていないタイプです。

でも、本書の内容を実践したところ、残念ながらまだ明晰夢は見られていないのですが、夢の内容をすごく意識できるようになりました。

起きたあと、自分がどんな夢を見ていたか、それ以前よりもはるかに認識できるようになったのです。

もう少し続けていれば、明晰夢が見られるかもしれません。

 

この本では明晰夢を見るための方法として、夢日記をつけるとか、そういうテクニカルなことを教えてくれています。

でも、私がやったことはシンプルです。

「これは夢かな?」

と、起きている間にちょいちょい考える、ということです。

と同時に、自分の左の手のひらに指を押し付けるということをやってみました。

これは本書の中では「リアリティチェック」とよばれています。

 

マンガとかだと、信じられないことが起きたときにほっぺたをつねる行為をよくやりますよね。

夢だったらつねっても痛みを感じないから、痛みを感じるのであれば夢であると認識できるわけです。

左手のひらに指を押し付けるのもこれと同じで、夢だったら、指が突き抜けるそうです。

だから、起きているときからちょいちょいこの行為をやっていると、いざ夢を見たときにも同じ行為をして、夢かどうか確認しやすくなるということです。

 

これってけっこう、逆説的な話でおもしろいと思いました。

夢を夢であると認識するためには、現実の世界で「これは夢ではない」ということを認識する癖をつけることが大切なのです。

私たちがふだん夢を見て、それが夢であると認識できていないのであれば、私たちは現実生活をしているときに「これは現実である」と認識していないということでもあります。

 

現実すら認識できていないのに、夢を認識できるはずがありません。

たとえば、私は「いつか自分は死ぬ」ということをリアリティをもって考えることができません。

でも現実的には、生きている人間である以上、いつか必ず死んでしまうのです。

 

なお、本書で述べられていることですが、夢のことを「これは夢だ」と認識できても、その夢のなかで思うようなことを起こせるかどうかは、また別の問題です。

たとえば、空を飛ぶという行為を夢のなかでしようとしたとき、すごく大事になるのが「これは夢だから、私は空を飛べる」と"本気で”思うことです。

「夢とは言え、空を飛ぶなんてできるだろうか」という疑念があると、たとえ夢の中であっても空を飛ぶことはできません。

本当はなんでもできるのに、私たち自身の意識がそれをやめさせてしまうのです。

 

じつはこれは現実世界でも起きていることだと自己啓発の世界ではいわれていて、こういうのを「メンタルブロック」といいます。

仕事にしろ恋愛にしろ、現実は夢ほどなんでも思いどおりになるわけではないけれど、「自分はモテる」「自分はこの仕事を成功させられる」と信じ込まないと、その結果を手に入れることはできない、というロジックですね。

もしかすると、明晰夢を見て、明晰夢のなかで自由に行動できるようになるということは、こうした自分の意識を自在にコントロールするための訓練になりうるかもしれません。

もちろんそれが、現実世界でなにか役に立つかどうかは、私にはわかりませんが。

 

ただ、夢のなかの世界ですら、「自分にはできない」「どうせ無理だ」と思ってしまい、夢を楽しめないのはなんだか損な気もします。

明晰夢は脳が休まらなくて精神的に危険とか、そういうこともネットでは書かれていたりするので、のめり込み過ぎには注意ですが、試してみるのはおもしろいかもしれません。

 

 

幸せになる明晰夢の見方

幸せになる明晰夢の見方

 

 

後記

無能なナナ』を見ました。

第1話 無能力

第1話 無能力

  • 発売日: 2020/10/05
  • メディア: Prime Video
 

 

LINEマンガでも読んでいたのですが、けっこうおもしろいです。

舞台は、さまざまな特殊能力を持つ少年少女たちがあつめられた孤島です。

彼らは「人類の敵」とよばれる存在に対抗するため、共同生活をしながら日々鍛錬にいそしんでいます。

そんななか、「人の心が読める」という特殊能力を持った柊ナナという少女が新たに転向してくる、という物語です。

冒頭こそ、よくある異能力バトルマンガかと読者を錯覚させるように話が進んでいきますが、むしろこの作品は推理サスペンスです。

これ以上はネタバレになるので、気になる方はぜひ、とりあえずアニメの第1話を見てみてください。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『三行で撃つ』(近藤康太郎・著)のレビュー

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どこかの本で読んだのですが、

「クライアントに感謝されるようでは、カウンセラーとしては二流」

といわれるです。

一流のカウンセリングを受けると、クライアントは、

「お金を払ってカウンセリングを受けるほどの悩みでもなかったな」

と感じるそうです。

カウンセラーは相手の悩みを解消してあげるのが仕事ではなく、クライアントが自分で悩みを解決できるように陰ながら仕向けるのが仕事、ということですね。

 

この話、どの領域でも同じことが言えます。

「話がうまいなあ」と感じさせる噺家は二流だし、「絵がうまいなあ」と感じさせるマンガ家も二流。

受け手に技巧というか、「自分の存在」を感じさせてはいけないということですね。

 

文章もそうです。

読んだ人が「うまい文章だなあ」と、書き手の存在を強く感じさせてしまうのは二流。

一流の文章は、「文章のうまさ」をまったく読み手に感じさせずに、いつの間にか内容にのめり込ませてしまうものを指すのでしょう。

 

その意味で言えば、この本の文章は、まぎれもなく超一流です。

ただ、私がこの文章の超一流さに気づけたのは、ひとえにこの本が「文章術」をテーマにしたものであり、そのカラクリを著者本人が包み隠さず披露してくれているからにほかなりません。

たぶん、著者の近藤康太郎氏のほかの本を先に読んだら、とりたてて「文章がうまい!」とは感じなかったんじゃないかと思います。

 

私は仕事柄、いろいろなライターさんの文章を読みます。

ただ、私は自分で文章を書くのが好きなタイプの編集者なので(そうじゃない編集者もいます)、だいたいのライターさんの原稿を書き直してしまいます。

取材に同席して話を聞いているので、「ここは、この言葉じゃないだろ」「これは論理が飛躍しすぎ」「なんか鼻につくなあ」などと気になってしまうのです。

※本を読んでいても、たまに「なんでここで改行しないんだよ」「ここでこの語尾はないだろ」「一文が長すぎ」などと気になることがあります。

 

でも、ごく稀に、ほんとうに文章のうまいライターさんもいます。

そういう人の原稿は、サントリーウイスキーじゃないですが、「なにも足すところがないし、なにも引くところがない」のです。

こういう原稿が届くと、感動を覚えます。

そしてそういう人の原稿は、サラッと読むといたって平凡です。

でも、だから、いいんです。

 

本書の著者、近藤康太郎さんは朝日新聞編集委員で、7年前に「発狂」し、九州の山奥でライターをしながら猟師などをやりつつ(あるいは猟師をやりながらライターなどをやりつつ)、記者やライター志望の人を育てる教室のようなものも開催している人物です。

 

さすがに、この本のレベルまで文章力を高めるのは、簡単ではありません。

でも、本書の冒頭でも述べられているように、「あの人の文章は、ちょっといい」と言われるレベルには、この本を読み込んで実践すれば、たどりつけるでしょう。

装丁デザインを見ると、すごくスタイリッシュで人文書のような印象を受けますが、どっこい、中身は超実用的で、実践的なコンテンツが盛りだくさんになっています。

 

なお、あんまり比較するのはよくないのですが、私は『三行で撃つ』を読んだ直前に『稼ぐ人の「超速」文章術』を読んでいたので、「同じ文章術の本で、こうも違うものか」と感慨深くなりました。

 

 

べつに『稼ぐ人の「超速」文章術』が悪い本なわけではありません。

こっちの本はもっともっと実用性に特化しています。

「マネするだけでいい文章のテンプレート」とか「書くことをまとめるためのフレームワーク」とか。

とにかく、書かれている通りのことをすれば、サルでも売れる文章が書けるようになる工夫が凝らされています。

これはこれで、価値のある本です。

でも、そういった性質の本ですから、この本を読んで「おもしろさ」を感じたり、この本の文章にのめり込んでしまうような感覚は覚えません。

 

その点で言えば、この『三行で撃つ』という本は、読んでいておもしろいのです。

ここが、ほかの文章術のハウツー本とは決定的に違うところかもしれません。

文章を書く人間にとって大変ためになることが書いてあるのはもちろんのこと、ついつい読み進めてしまう魅力的な文章で書かれている。

ただ、わかりやすい文章を書くのではなく、「ちょっとうまい」文章を書きたい、あるいは文章そのもので金を稼ぎたい、飯を食いたいと考えている人のための本ですね。

 

本書ではそんな人のために、25のテクニックを伝授してくれます。

そのうちの1つを紹介しておきましょう。

 

わが家に集まる塾生たちに、いちばん最初に教えるのは、「常套句をなくせ」ということです。

(中略)

常套句とは、定型、クリシェ、決り文句です。

たとえば、飽きの青空を「抜けるように青い空」とは、だれもが一回くらいは書きそうになる表現です。「燃えるような紅葉」などと、ついやらかしてしまいますね。

新聞記者は一年目、二年目といった新人のころ、高校野球を担当させられるので、高校野球の記事は常套句の宝庫(?)です。

試合に負けた選手は「唇をかむ」し、全力を出し切って「胸を張り」、来年に向けて練習しようと「前を向く」ものです。一方、「目を輝かせた」勝利チームの選手は、「喜びを爆発」させ、その姿に「スタンドを埋めた」観客は「沸いた」。

 

最近テレビのバラエティ番組を見ていて、そこに登場する俳優さんや女優さんは当然ながら自分が出演するドラマやら舞台やらの告知のために出演しているわけですが、だれもかれも「笑いあり涙あり」というフレーズを連発しているのがやたら耳につきました。

これはつまり「エンターテイメントして頼める要素」もあるし、同時に「心を震わせて涙を誘う要素」もあるということですよね。

私なんかはもう「笑いあり涙あり」と言われた時点で安っぽいというか、古臭いなあと感じてしまいます。

常套句を使わないということについては、私も最初に働いた編集プロダクションの社長に自分の書いた原稿を読んでもらうときに散々「陳腐だ」ということを言われまくったので、陳腐にならないようには気をつけるようになりました。

 

よくある言い回しって、本当に文章が書けない人にとってはありがたいものなんですけど、そうした初級者からもう一歩上のステップに上がりたいときには、それを捨てていかなければいけないんですよね。

その意味でかんがえれば、本書は「文章を書くのは苦じゃない」ということが読む上での大前提になるかもしれません。

それを抜きにして、エッセーとして読んでも、おもしろい本だと思いますが。

 

後記

『ソーセージ・パーティ』を見ました。

 

ソーセージ・パーティー (吹替版)

ソーセージ・パーティー (吹替版)

  • 発売日: 2017/02/08
  • メディア: Prime Video
 

 

スーパーで売られているソーセージが主人公のファンタジーです。

スーパーで売られている食材たちは、みんなお客さんに買ってもらって、店の外に連れ出してもらえれば天国のような場所に連れて行ってもらえると信じています。

主人公のソーセージもそう考えていて、隣で売られているバンズの女の子に自分の体を挿入することを夢見ていました。

しかしある日、一度購入されてからスーパーに返品されたハニーマスタードの口から恐ろしい噂が広まります。

じつは、買われていった食材たちは天国に連れて行ってもらえるのではなく、自分のことを買った人間に無残にも食べられてしまう……とハニーマスタードは言うのです。

果たして真実はどちらなのか?

真相がわからないまま独立記念日になった日、いよいよ主人公のソーセージはとあるお客さんに選ばれてカートに運ばれていくのですが……。

 

という話です。

基本的に、下品です。

いえ、中盤くらいまではそんなに、すごく下品というわけでもありません。

ちょっと品のない台詞回しはありますが、そうはいっても大人向けのハリウッド映画で出てきてもべつに違和感はないくらいの下品さです。

ただ、最後の最後、とんでもなく下品な展開になります。

これは下品です。

ちょっと子どもには見せたくない感じの下品さです。

 

ただ、物語としてはけっこう高いクオリティでした。

それこそ、ハリウッドのヒットする脚本のルールに忠実に従い、流れるようにスムーズに物語が進んでいきます。

しっかりヴィランもいて、主人公内面的な成長もあるし、個性的かつ魅力的なサブキャラクターも脇を固めてくれます。

冒険シーンも盛り沢山です。

最後の最後、物語の締め方については賛否両論あると思いますが、私は嫌いじゃないです。

というより、「この物語、こんなことにしちゃって、いったいどうやって収束させるんだろう・・・?」と別の意味でハラハラドキドキしていたのですが、まあ、強引だけどなんとかまとめきったな、という感じでした。

よほど暇な人は、見てみたらおもしろいと思います。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『職業としての編集者』(吉野源三郎・著)のレビューになっていない

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職業としての編集者 (岩波新書)

職業としての編集者 (岩波新書)

 

 

私はこれまで「自分の人生を変えた本」というに出会ったことがありません。

いや、たぶん私の思考に多大なる影響を与えて、いまの私をかたちづくった本は無数にあるのでしょう。

ただ、改めて思い返してみると、なにか一冊の本がパッと思い浮かばないのです。

 

人に関しても、これは同じです。

「尊敬する人」とか「師匠」とか「メンター」のような存在が思いつきません。

もちろんこれも、たいへん学びになった人とか、お世話になった人はたくさんいるし、そういう人たちとの出会いがなければいまの私がなかったのは間違いないです。

でも、じゃあパッとすぐ思いつく人がいるかというと、いないわけです。

 

しかし、このたび読んだこの本は、読んだ瞬間に

「これは私の人生を変える本なのかもしれない」

という感覚がありました。

 

といっても、私は適当な人間なので、半年くらいたったら忘れているかもしれません。

しかし、とにかく読んだときにそれくらいの強い衝撃を受けたのは、薄弱な記憶を遡る限りほかにありませんので、すごい本だったということです。

 

さて、吉野源三郎といえば、『君たちはどう生きるか』の人です。

 

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 
君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか

  • 作者:吉野源三郎
  • 発売日: 2017/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

2017年にコミカライズされ、ベストセラーになったので、聞いたことがある人が多いと思います。

 

この人は何者かというと、もともと哲学をずっと勉強していたのですが、ひょんなことから出版社で編集者をすることになった人です。

本書の冒頭で述べられていますが、別に編集者という仕事に就きたかったわけでもなく、晩年になっても「しろうと」の感覚を持っていたといいます。

吉野氏は岩波書店の創業者・岩波茂雄に誘われて、岩波新書の創刊に携わったり、「世界」という雑誌の編集長もやったりしています。

 

さて、本書『職業としての編集者』は、こんなタイトルですが、編集者のノウハウやハウツーが書かれたものではありません。

また、本人はいつまでも「しろうと」の気持ちで述べられていたということですから、編集の哲学について熱く語られているわけでもありません。

 

そもそも本書は、1981年に亡くなられた8年後に刊行された本で、いずれもほかの本や雑誌などに書いたものをまとめたものです。

そのため、章によって文体がバラバラ。

ですます調だったり、だである調だったりします。

本書に収録されているのは、以下のとおりです。

 

Ⅰ 編集者として

 編集者の仕事――私の歩んだ道

 ジャーナリストとして

 一九三〇年代――岩波新書ペリカン・ブックス

 『世界』創刊まで

Ⅱ 思い出すこと

 原田文書をめぐって

 終戦直後の津田先生

Ⅲ 歴史と現代

 日の丸の話

 歴史としての戦後民主主義

 

私が非常に感銘を受けたのは、序盤の部分だけです。

ぶっちゃけ、それ以外のところは流し読みしました。

歴史的な資料という勝ちはあるかもしれませんが、少なくとも普通の人が読んで感銘を受けるとか、何かの役に立つという内容はないと思います。

 

最高にしびれたのは「編集者の仕事」のところでした。

長いけど、引用します。

 

元来、出版とは英語でパブリケーションといわれるように、パブリックなもの、公共のものです。私たちが社会生活をしてゆく上に必要なさまざまな知識や報道が、出版物を通して広く社会の人々に伝えられます。そして、今日では、どんな個人でも、団体でも、国家でも、その行動や方針や政策をきめるにあたっては、直接自分の経験したことばかりでなく、いわば間接に報道で得た知識を頼りに――むしろ主としてそのほうを頼りにして――決定を行っているのです。

 

編集という仕事については、中国の作家魯迅の詩の「眉を横たえて冷やかに対す千人の眼、首を附して甘んじて孺子の牛となる」という句を、いいことばだなと思い出すことがたびたびです。「千人、万人の人からなんと見られようが、そんなことには、冷然として心を動かされない。子どものためには、甘んじて首をたれ、それを背に乗せて黙々としていく」という意味で、この孺子(子ども)とは中国の民衆を指しているのだというのが毛沢東の解釈です。

たしかに民衆のためになることなら、牛のように首をたれて黙々とそれに仕え、人からなんと見られようが心にかけない、という心構えは、編集という仕事を――本当に意味のあるものとしての編集の仕事を――やってゆく上に、何よりも必要な心構えだと思います。自分というものを世間に認めさせたいと考えたり、著者やその他まわりの人々によく思われようとしたり、あるいは世間に媚びたりしたら、本当の仕事はできませんね。世の中に送り出した本や雑誌が、実際に社会に役立つこと、どんなに回り道を通ってではあっても、無名の民の仕合せに役立つこと、それだけ果たせればそれでよいのだという心持を、しっかりと持ちつづけることが必要です。それをどんなに堅く持ちつづけたって、思うほど役に立つ仕事ができるか、どうか、危ういのです。

編集者の資格として、『ロンドン・タイムス』の昔の編集長のウィッカム・スティードという人は、「広い知識と、解りの早いこと、青臭くない判断」をあげて、なお、いつも好奇心が生き生きと躍っていること、精神がものうくたるんでいてはいけないことを説いています。しかし、肝心なのは「公共の仕合せ」を心にかけることであって、公共の仕合せを思いながら、いつかはその人々に、伝えねばならない真実を伝えてやろうと考えつつ、現場の仕事を黙々とやり抜いていく辛抱がなければならない、とのべています。やはり、甘んじて孺子の牛になるという心がけの必要を認めているのでしょう。

 

若干上から目線感はありますが、これは得てして忘れてしまいがちな大切なことです。

というよりも、「売れる本を作ろう」ということばかりを考えていると、得てして、「公共の仕合せ」ということがすっぽり抜け落ちてしまうのです。

 

このことについて、とりわけ書籍編集者という仕事の領域で述べている人はほとんどいないんじゃないでしょうか。

新聞記者とかジャーナリストなら、報道という名目で、「公共の仕合せ」というものは意識するかもしれません。

でも、いわゆる本や雑誌の編集者は、そういうところに鈍感になりやすいのではないかと思うのです。

 

もちろん、本や雑誌の編集者は厳密にはジャーナリストではありません。

なので、正義かどうか、正しいかどうかを必ずしも最優先にしなければならないわけではないでしょう。

ただ、「邪悪」になってはいけないと思うのです。

それはダークサイド(暗黒面)ですね。

 いちばんわかりやすいのは、一時期、雨後の筍のようにたくさん刊行されていた嫌韓本のたぐいです。

ぶっちゃけ、ああいう本は、出たら必ず買う人がいるので売れます。

また、表現の自由も日本では保証されていますから、韓国をけなすような内容の本を出すことが悪いわけではありません。

でも私はやっぱり、嫌韓本のたぐいはつくりたくないですね。

あと、不安を煽るのも、あまりいい本とは言えないと思います。

 

ただ、ここはすごく難しいところなのですが、なにが邪悪で、なにが邪悪でないか、それはなかなか正解がわからないのです。

たとえば、嫌韓本を邪悪な本の代表格として例に上げたわけですが、これだって私の感性に従った結果でしかありません。

そうした嫌韓本を読むことで精神的な快楽を得られる人が世の中にはいます。

その意味で、嫌韓本はちゃんと世の中の役に立っているといえます。

 

これはスプラッター映画が好きな人と、嫌いな人がいるのに似ているかもしれません。

嫌韓本をエンタメ(精神的な快楽を手に入れる手段)として消費したがっている人がいるなら、そうしたニーズに応える商品を販売するのは、必ずしも間違いではないとも思うのです。

 

なにが邪悪かという観点でいうと、ウソを書くとか、デタラメを書いて人を騙すとか、そういう内容の本もよくないですね。

あるいは、内容がない本、出版しなくてもいい本を、ただ出版社の都合とか、著者の都合だけで世の中に出すのも、ダークサイドにつながっています。

ある意味、出版社以外、だれもよろこばない本を出すというのは、嫌韓本のような物を出すよりも罪深いかもしれません。

 

あとは、自分の会社やビジネスをPRする販促物のような役割で本を出すのも、私は大嫌いです。

私はそういう本は絶対につくりません。

それはもはや本ではなく、パンフレットであり、出版社ではなく広告会社の仕事です。

 

ここがブログなどと本の大きな違いでしょう。

ネット上で文章を書くのは、なにを書いても、自由です。

お好きにしてください、という感じです。

特定個人を名指しして誹謗中傷するのも自由だし、嘘八百を並べ立てるのも自由だし、他人の文章を丸パクリするのも自由だし、読んだ人を騙して自分の商品やサービスへ誘導するのも自由です(当然、そこには法的に訴えられるというリスクも内包されますが)。

 

でもやっぱり、本ではそれを許してはいけないのです。

本が「公共の仕合せ」の追求しなければならないというのは、そういう意味であると私は理解しています。

むしろ、インターネットによってだれでも自由に発信できるようになったからこそ、「なにを書かないか」が重要になっています。

編集者にとっては、「どんな本を作りたいか」ということを考えるのと同じか、あるいはそれ以上に「どんな本は絶対に作らないか」を明確にしておくのも、大事なことなのではないかと考えた次第でした。

 

後記

アニメ映画「きみと、波にのれたら」を見ました。

 

きみと、波にのれたら

きみと、波にのれたら

  • 発売日: 2019/12/04
  • メディア: Prime Video
 

 

事故で失った恋人が水の中だけに現れるというファンタジーラブストーリーです。

監督が湯浅政明さんだったので、さすが映像とか表現方法はよかったです。

ただ、ストーリーはイマイチ乗れませんでした。

登場人物たちがイケているというか、ウェーイ系というか、リア充な感じがして、ぜんぜん感情移入できないんですよね。

主人公とその彼氏がラブラブなのはいいんですが、あまり尊みを感じないというか、見守りたくなるようなラブラブっぷりではなく、最終的な別れもけっこうサバサバして切なさを感じられませんでした。

私が年寄りになっただけかもしれませんが。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『サードドア 精神的資産のふやし方』(アレックス・バナヤン著)のレビュー

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いい本というのは、毀誉褒貶が激しいことが多いです。

読んだ人が多ければ多いほど、批判的に受け取る人も多くなるのは仕方がないことです。

この本も、売れた本の宿命なのか、Amazonなどを見ても辛辣なレビューが多くありました。

 

タイトルだけだと、どんな内容の本かわかりにくいですが、ザックリ説明すると、

「クイズ番組で大金を手にした大学生が、さまざまな成功者たちがどうやって最初の一歩を踏み出したのかをインタビューするための試行錯誤をつづったエッセー」

です。

具体的に、著者はビル・ゲイツスピルバーグレディー・ガガなどと話をしています。

しかし残念ながら、本書を読んでもそうした超ビッグネームの人たちの成功した理由を知ることはできません。

というのも、著者のアレックス・バナヤンさんが本書で書いているのは、そうした人々に何度もインタビューしようと悪戦苦闘しては失敗し、それでも諦めずにやり続けた挑戦の軌跡だからです。

なのでこの本は、もっとゲスい言い方をすれば「すごい人との人脈の作り方」といったほうが適切でしょう。

 

ここの認識のズレが、低評価の人たちの要因になっていると思われます。

成功者たちの成功の秘訣を知りたくてこの本を買ったのに、読んでもそれが書かれていないからこれは詐欺だ!というわけです。

これは出版社のミスリードも少なからず影響しているでしょう。

そういうふうに読者を勘違いさせようとする意図も見え隠れしていますから、こうした批判が来ることは承知の上だったのではないかと考えられます。

でも、タイトルを読めばわかるように、本書は成功の秘訣を明らかにしたものではありません。

そもそもサブタイトルが「精神的資産のふやし方」で、「お金持ちになる方法」ではないですからね。

 

ただ、何者でもない一般ピープルが著名人の人たちとつながるにはどうすればいいのか、その秘訣を知ることはできます。

これは、普通の会社員の人には関係のない話かもしれませんが、私のような仕事をしている人間にとっては非常に価値のある情報でした。

 

編集者の仕事の素晴らしいところは、「相対人に会う口実がつくれる」というところです。

たとえば芸能人だったり、芸術家だったり、政治家だったり、大学の先生だったり、SNSのすごいインフルエンサーだったり、普通だったら出会うきっかけがない人でも、「あなたの本を出したいので、会ってください」とお願いすれば、会ってもらえるチャンスが編集者にはあるわけです。

とはいえ、これは言うほどカンタンなことではありません。

私もこれまでさんざん有名な人達に企画書を送ってオファーを出してみたりしましたが、たいていはお断りされるか、無視されます。

でも、なにかのきっかけで一度、著名人と懇意になれれば、そこから数珠つながりでさらに著名な人や、これからブレイクしそうな人に会えることもあるのです。

 

人脈という言葉は、なんだか人を道具のようにみなしているようで最近は忌避されるきらいもありますが、そうはいっても「どんな人とつながっているか」は仕事をする上でめちゃくちゃ重要な要素です。

とくに編集者の場合、企画力とかマネジメント能力とか日本語能力とかももちろん大事なのですが、それよりも「どんな著者とつながっているか」という人脈力がそのままキャリアや収入に直結することも多いです。

また編集者でなくても、いろいろなコネクションを持っていることは思わぬ人生のターニングポイントを生んだりします。

最近はリファラル採用といって、転職サイトなどではなく、知り合いを通じて採用を行うことも増えています。

転職サイトを使うと、どんな人が応募してくるかわからないからいちいち試験したりしなければいけないですが、信頼できる知り合いを通じて採用すれば、少なくとも地雷となるような変なやつが来る可能性はぐっと減るからです。

 

ということで、有力な人たちとコネクションを持つことが大事なんだと思うのですが、そこで意識しておきたいのが本書のタイトルとなっている「サードドア」という考え方ですね。

これはどういうことかというと、著名人と合うためには「3つのドア」が用意されているということです。

 

僕がインタビューした人たちはみんな、人生にも、ビジネスにも、成功にも、同じやり方で向き合っている。僕から見たら、それはナイトクラブに入るのと同じようなものだ。常に3つの入口があるんだ。

「まずファーストドアがある」と僕はマットに言った。

「正面入口のことさ。長い行列が弧を描いて続き、入れるかどうか気をもみながら99%の人がそこに並ぶんだ」

「次にセカンドドアがある。これはVIP専用入り口で、億万長者、セレブ、名家に生まれた人だけが利用できる」。マットはうなずいた。

「学校とか普通の社会にいると、人生にも、ビジネスにも、成功にも、この2つのドアしかないような気分になる。でも数年前から僕は、常に必ず……サードドアがあることに気づいたんだ。

その入り口は、行列から飛び出し、裏道を駆け抜けて、何百回もノックして窓を乗り越え、キッチンをこっそり通り抜けたその先に、必ずあるんだ。

ビル・ゲイツが初めてソフトウェアを販売できたのも、スティーブン・スピルバーグがハリウッドで史上最年少の監督になれたのも、みんな――」

「サードドアをこじ開けたからだろ」とマットは満面の笑みを浮かべて言った。

「俺もそうやってこれまで生きてきたよ」

 

このサードドアを通る上でキーになるのが「インサイドマン」の存在です。

インサイドマンというのは、著名人のそばにいて、自分をなかに引き込んでくれる協力者のことです。

つまり、ターゲットが信頼をおいている人物からの信頼を勝ち取ろうということですね。

いきなり面識のない著名人に「会ってください」などとアプローチするのは得策ではありません。

それよりも外堀を埋める……つまり、その周囲の人から仲良くなっていって、その人との距離を詰めることが大事なのです。

とはいえ、インサイドマンも忙しいことが多いので、無視されたり断られたりすることが多々あります。

ここで大事なのが粘り強さと、趣向を変えること。

何度断られても諦めない気持ちと、相手の出方に応じて柔軟に態度ややり方を変えていくことが必要になります。

 

あと、これは個人的な経験則からいえることですが、著名人と繋がれるかどうかは「タイミング」も大事だったりします。

たまたまその人がちょっと心理的に余裕のあるとき、大きな仕事が一段落ついているときなどにうまくオファーを出せれば、意外とOKがもらえたりします。

もちろん、面識がない相手の忙しさを把握することは難しいので、これもインサイドマンに頼りながら、タイミングを見計らう、あるいはたまたま相手のタイミングがいいときにマッチするように何度もオファーするなどの戦略が必要になります。

読み様によっては、営業職の人なんかも役に立つ本かもしれませんね。

 

後記

スマホゲームの「A.I.M.$(エイムズ)」をやってみました。

app.nhn-playart.com

渡辺直美さんがCMやってるやつです。

一昨年辺りから流行っている「荒野行動」とか「フォートナイト」とか「エイペックス」みたいなバトルロイヤルFPSゲームなのですが、おもしろいのは、プレイヤーはギャングになって現金輸送車を襲い、5分という制限時間の中でライバルたちとお金を奪い合うという点です。

もちろん、ほかのプレイヤーを倒すことでお金を奪えるのですが、とにかく5分間生き残っていればその時点での所持金を獲得できるので、無理に相手を倒しに行かなくても、コソコソしているだけでも経験値が稼げます。

あと、操作も直感的でやりやすく、キャラクターが個性豊かで、固有スキルでかなり差が出ます。

エイムの補正も強めなので、初心者でも狙いをつけやすいのがありがたいですね。

とはいえ、結局やることは単調なので、すでに飽き始めてはいます。

やっぱりスマホFPSは疲れますね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。