『職業としての編集者』(吉野源三郎・著)のレビューになっていない
私はこれまで「自分の人生を変えた本」というに出会ったことがありません。
いや、たぶん私の思考に多大なる影響を与えて、いまの私をかたちづくった本は無数にあるのでしょう。
ただ、改めて思い返してみると、なにか一冊の本がパッと思い浮かばないのです。
人に関しても、これは同じです。
「尊敬する人」とか「師匠」とか「メンター」のような存在が思いつきません。
もちろんこれも、たいへん学びになった人とか、お世話になった人はたくさんいるし、そういう人たちとの出会いがなければいまの私がなかったのは間違いないです。
でも、じゃあパッとすぐ思いつく人がいるかというと、いないわけです。
しかし、このたび読んだこの本は、読んだ瞬間に
「これは私の人生を変える本なのかもしれない」
という感覚がありました。
といっても、私は適当な人間なので、半年くらいたったら忘れているかもしれません。
しかし、とにかく読んだときにそれくらいの強い衝撃を受けたのは、薄弱な記憶を遡る限りほかにありませんので、すごい本だったということです。
さて、吉野源三郎といえば、『君たちはどう生きるか』の人です。
2017年にコミカライズされ、ベストセラーになったので、聞いたことがある人が多いと思います。
この人は何者かというと、もともと哲学をずっと勉強していたのですが、ひょんなことから出版社で編集者をすることになった人です。
本書の冒頭で述べられていますが、別に編集者という仕事に就きたかったわけでもなく、晩年になっても「しろうと」の感覚を持っていたといいます。
吉野氏は岩波書店の創業者・岩波茂雄に誘われて、岩波新書の創刊に携わったり、「世界」という雑誌の編集長もやったりしています。
さて、本書『職業としての編集者』は、こんなタイトルですが、編集者のノウハウやハウツーが書かれたものではありません。
また、本人はいつまでも「しろうと」の気持ちで述べられていたということですから、編集の哲学について熱く語られているわけでもありません。
そもそも本書は、1981年に亡くなられた8年後に刊行された本で、いずれもほかの本や雑誌などに書いたものをまとめたものです。
そのため、章によって文体がバラバラ。
ですます調だったり、だである調だったりします。
本書に収録されているのは、以下のとおりです。
Ⅰ 編集者として
編集者の仕事――私の歩んだ道
ジャーナリストとして
『世界』創刊まで
Ⅱ 思い出すこと
原田文書をめぐって
終戦直後の津田先生
Ⅲ 歴史と現代
日の丸の話
歴史としての戦後民主主義
私が非常に感銘を受けたのは、序盤の部分だけです。
ぶっちゃけ、それ以外のところは流し読みしました。
歴史的な資料という勝ちはあるかもしれませんが、少なくとも普通の人が読んで感銘を受けるとか、何かの役に立つという内容はないと思います。
最高にしびれたのは「編集者の仕事」のところでした。
長いけど、引用します。
元来、出版とは英語でパブリケーションといわれるように、パブリックなもの、公共のものです。私たちが社会生活をしてゆく上に必要なさまざまな知識や報道が、出版物を通して広く社会の人々に伝えられます。そして、今日では、どんな個人でも、団体でも、国家でも、その行動や方針や政策をきめるにあたっては、直接自分の経験したことばかりでなく、いわば間接に報道で得た知識を頼りに――むしろ主としてそのほうを頼りにして――決定を行っているのです。
編集という仕事については、中国の作家魯迅の詩の「眉を横たえて冷やかに対す千人の眼、首を附して甘んじて孺子の牛となる」という句を、いいことばだなと思い出すことがたびたびです。「千人、万人の人からなんと見られようが、そんなことには、冷然として心を動かされない。子どものためには、甘んじて首をたれ、それを背に乗せて黙々としていく」という意味で、この孺子(子ども)とは中国の民衆を指しているのだというのが毛沢東の解釈です。
たしかに民衆のためになることなら、牛のように首をたれて黙々とそれに仕え、人からなんと見られようが心にかけない、という心構えは、編集という仕事を――本当に意味のあるものとしての編集の仕事を――やってゆく上に、何よりも必要な心構えだと思います。自分というものを世間に認めさせたいと考えたり、著者やその他まわりの人々によく思われようとしたり、あるいは世間に媚びたりしたら、本当の仕事はできませんね。世の中に送り出した本や雑誌が、実際に社会に役立つこと、どんなに回り道を通ってではあっても、無名の民の仕合せに役立つこと、それだけ果たせればそれでよいのだという心持を、しっかりと持ちつづけることが必要です。それをどんなに堅く持ちつづけたって、思うほど役に立つ仕事ができるか、どうか、危ういのです。
編集者の資格として、『ロンドン・タイムス』の昔の編集長のウィッカム・スティードという人は、「広い知識と、解りの早いこと、青臭くない判断」をあげて、なお、いつも好奇心が生き生きと躍っていること、精神がものうくたるんでいてはいけないことを説いています。しかし、肝心なのは「公共の仕合せ」を心にかけることであって、公共の仕合せを思いながら、いつかはその人々に、伝えねばならない真実を伝えてやろうと考えつつ、現場の仕事を黙々とやり抜いていく辛抱がなければならない、とのべています。やはり、甘んじて孺子の牛になるという心がけの必要を認めているのでしょう。
若干上から目線感はありますが、これは得てして忘れてしまいがちな大切なことです。
というよりも、「売れる本を作ろう」ということばかりを考えていると、得てして、「公共の仕合せ」ということがすっぽり抜け落ちてしまうのです。
このことについて、とりわけ書籍編集者という仕事の領域で述べている人はほとんどいないんじゃないでしょうか。
新聞記者とかジャーナリストなら、報道という名目で、「公共の仕合せ」というものは意識するかもしれません。
でも、いわゆる本や雑誌の編集者は、そういうところに鈍感になりやすいのではないかと思うのです。
もちろん、本や雑誌の編集者は厳密にはジャーナリストではありません。
なので、正義かどうか、正しいかどうかを必ずしも最優先にしなければならないわけではないでしょう。
ただ、「邪悪」になってはいけないと思うのです。
それはダークサイド(暗黒面)ですね。
いちばんわかりやすいのは、一時期、雨後の筍のようにたくさん刊行されていた嫌韓本のたぐいです。
ぶっちゃけ、ああいう本は、出たら必ず買う人がいるので売れます。
また、表現の自由も日本では保証されていますから、韓国をけなすような内容の本を出すことが悪いわけではありません。
でも私はやっぱり、嫌韓本のたぐいはつくりたくないですね。
あと、不安を煽るのも、あまりいい本とは言えないと思います。
ただ、ここはすごく難しいところなのですが、なにが邪悪で、なにが邪悪でないか、それはなかなか正解がわからないのです。
たとえば、嫌韓本を邪悪な本の代表格として例に上げたわけですが、これだって私の感性に従った結果でしかありません。
そうした嫌韓本を読むことで精神的な快楽を得られる人が世の中にはいます。
その意味で、嫌韓本はちゃんと世の中の役に立っているといえます。
これはスプラッター映画が好きな人と、嫌いな人がいるのに似ているかもしれません。
嫌韓本をエンタメ(精神的な快楽を手に入れる手段)として消費したがっている人がいるなら、そうしたニーズに応える商品を販売するのは、必ずしも間違いではないとも思うのです。
なにが邪悪かという観点でいうと、ウソを書くとか、デタラメを書いて人を騙すとか、そういう内容の本もよくないですね。
あるいは、内容がない本、出版しなくてもいい本を、ただ出版社の都合とか、著者の都合だけで世の中に出すのも、ダークサイドにつながっています。
ある意味、出版社以外、だれもよろこばない本を出すというのは、嫌韓本のような物を出すよりも罪深いかもしれません。
あとは、自分の会社やビジネスをPRする販促物のような役割で本を出すのも、私は大嫌いです。
私はそういう本は絶対につくりません。
それはもはや本ではなく、パンフレットであり、出版社ではなく広告会社の仕事です。
ここがブログなどと本の大きな違いでしょう。
ネット上で文章を書くのは、なにを書いても、自由です。
お好きにしてください、という感じです。
特定個人を名指しして誹謗中傷するのも自由だし、嘘八百を並べ立てるのも自由だし、他人の文章を丸パクリするのも自由だし、読んだ人を騙して自分の商品やサービスへ誘導するのも自由です(当然、そこには法的に訴えられるというリスクも内包されますが)。
でもやっぱり、本ではそれを許してはいけないのです。
本が「公共の仕合せ」の追求しなければならないというのは、そういう意味であると私は理解しています。
むしろ、インターネットによってだれでも自由に発信できるようになったからこそ、「なにを書かないか」が重要になっています。
編集者にとっては、「どんな本を作りたいか」ということを考えるのと同じか、あるいはそれ以上に「どんな本は絶対に作らないか」を明確にしておくのも、大事なことなのではないかと考えた次第でした。
後記
アニメ映画「きみと、波にのれたら」を見ました。
事故で失った恋人が水の中だけに現れるというファンタジーラブストーリーです。
監督が湯浅政明さんだったので、さすが映像とか表現方法はよかったです。
ただ、ストーリーはイマイチ乗れませんでした。
登場人物たちがイケているというか、ウェーイ系というか、リア充な感じがして、ぜんぜん感情移入できないんですよね。
主人公とその彼氏がラブラブなのはいいんですが、あまり尊みを感じないというか、見守りたくなるようなラブラブっぷりではなく、最終的な別れもけっこうサバサバして切なさを感じられませんでした。
私が年寄りになっただけかもしれませんが。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『サードドア 精神的資産のふやし方』(アレックス・バナヤン著)のレビュー
いい本というのは、毀誉褒貶が激しいことが多いです。
読んだ人が多ければ多いほど、批判的に受け取る人も多くなるのは仕方がないことです。
この本も、売れた本の宿命なのか、Amazonなどを見ても辛辣なレビューが多くありました。
タイトルだけだと、どんな内容の本かわかりにくいですが、ザックリ説明すると、
「クイズ番組で大金を手にした大学生が、さまざまな成功者たちがどうやって最初の一歩を踏み出したのかをインタビューするための試行錯誤をつづったエッセー」
です。
具体的に、著者はビル・ゲイツやスピルバーグ、レディー・ガガなどと話をしています。
しかし残念ながら、本書を読んでもそうした超ビッグネームの人たちの成功した理由を知ることはできません。
というのも、著者のアレックス・バナヤンさんが本書で書いているのは、そうした人々に何度もインタビューしようと悪戦苦闘しては失敗し、それでも諦めずにやり続けた挑戦の軌跡だからです。
なのでこの本は、もっとゲスい言い方をすれば「すごい人との人脈の作り方」といったほうが適切でしょう。
ここの認識のズレが、低評価の人たちの要因になっていると思われます。
成功者たちの成功の秘訣を知りたくてこの本を買ったのに、読んでもそれが書かれていないからこれは詐欺だ!というわけです。
これは出版社のミスリードも少なからず影響しているでしょう。
そういうふうに読者を勘違いさせようとする意図も見え隠れしていますから、こうした批判が来ることは承知の上だったのではないかと考えられます。
でも、タイトルを読めばわかるように、本書は成功の秘訣を明らかにしたものではありません。
そもそもサブタイトルが「精神的資産のふやし方」で、「お金持ちになる方法」ではないですからね。
ただ、何者でもない一般ピープルが著名人の人たちとつながるにはどうすればいいのか、その秘訣を知ることはできます。
これは、普通の会社員の人には関係のない話かもしれませんが、私のような仕事をしている人間にとっては非常に価値のある情報でした。
編集者の仕事の素晴らしいところは、「相対人に会う口実がつくれる」というところです。
たとえば芸能人だったり、芸術家だったり、政治家だったり、大学の先生だったり、SNSのすごいインフルエンサーだったり、普通だったら出会うきっかけがない人でも、「あなたの本を出したいので、会ってください」とお願いすれば、会ってもらえるチャンスが編集者にはあるわけです。
とはいえ、これは言うほどカンタンなことではありません。
私もこれまでさんざん有名な人達に企画書を送ってオファーを出してみたりしましたが、たいていはお断りされるか、無視されます。
でも、なにかのきっかけで一度、著名人と懇意になれれば、そこから数珠つながりでさらに著名な人や、これからブレイクしそうな人に会えることもあるのです。
人脈という言葉は、なんだか人を道具のようにみなしているようで最近は忌避されるきらいもありますが、そうはいっても「どんな人とつながっているか」は仕事をする上でめちゃくちゃ重要な要素です。
とくに編集者の場合、企画力とかマネジメント能力とか日本語能力とかももちろん大事なのですが、それよりも「どんな著者とつながっているか」という人脈力がそのままキャリアや収入に直結することも多いです。
また編集者でなくても、いろいろなコネクションを持っていることは思わぬ人生のターニングポイントを生んだりします。
最近はリファラル採用といって、転職サイトなどではなく、知り合いを通じて採用を行うことも増えています。
転職サイトを使うと、どんな人が応募してくるかわからないからいちいち試験したりしなければいけないですが、信頼できる知り合いを通じて採用すれば、少なくとも地雷となるような変なやつが来る可能性はぐっと減るからです。
ということで、有力な人たちとコネクションを持つことが大事なんだと思うのですが、そこで意識しておきたいのが本書のタイトルとなっている「サードドア」という考え方ですね。
これはどういうことかというと、著名人と合うためには「3つのドア」が用意されているということです。
僕がインタビューした人たちはみんな、人生にも、ビジネスにも、成功にも、同じやり方で向き合っている。僕から見たら、それはナイトクラブに入るのと同じようなものだ。常に3つの入口があるんだ。
「まずファーストドアがある」と僕はマットに言った。
「正面入口のことさ。長い行列が弧を描いて続き、入れるかどうか気をもみながら99%の人がそこに並ぶんだ」
「次にセカンドドアがある。これはVIP専用入り口で、億万長者、セレブ、名家に生まれた人だけが利用できる」。マットはうなずいた。
「学校とか普通の社会にいると、人生にも、ビジネスにも、成功にも、この2つのドアしかないような気分になる。でも数年前から僕は、常に必ず……サードドアがあることに気づいたんだ。
その入り口は、行列から飛び出し、裏道を駆け抜けて、何百回もノックして窓を乗り越え、キッチンをこっそり通り抜けたその先に、必ずあるんだ。
ビル・ゲイツが初めてソフトウェアを販売できたのも、スティーブン・スピルバーグがハリウッドで史上最年少の監督になれたのも、みんな――」
「サードドアをこじ開けたからだろ」とマットは満面の笑みを浮かべて言った。
「俺もそうやってこれまで生きてきたよ」
このサードドアを通る上でキーになるのが「インサイドマン」の存在です。
インサイドマンというのは、著名人のそばにいて、自分をなかに引き込んでくれる協力者のことです。
つまり、ターゲットが信頼をおいている人物からの信頼を勝ち取ろうということですね。
いきなり面識のない著名人に「会ってください」などとアプローチするのは得策ではありません。
それよりも外堀を埋める……つまり、その周囲の人から仲良くなっていって、その人との距離を詰めることが大事なのです。
とはいえ、インサイドマンも忙しいことが多いので、無視されたり断られたりすることが多々あります。
ここで大事なのが粘り強さと、趣向を変えること。
何度断られても諦めない気持ちと、相手の出方に応じて柔軟に態度ややり方を変えていくことが必要になります。
あと、これは個人的な経験則からいえることですが、著名人と繋がれるかどうかは「タイミング」も大事だったりします。
たまたまその人がちょっと心理的に余裕のあるとき、大きな仕事が一段落ついているときなどにうまくオファーを出せれば、意外とOKがもらえたりします。
もちろん、面識がない相手の忙しさを把握することは難しいので、これもインサイドマンに頼りながら、タイミングを見計らう、あるいはたまたま相手のタイミングがいいときにマッチするように何度もオファーするなどの戦略が必要になります。
読み様によっては、営業職の人なんかも役に立つ本かもしれませんね。
後記
スマホゲームの「A.I.M.$(エイムズ)」をやってみました。
渡辺直美さんがCMやってるやつです。
一昨年辺りから流行っている「荒野行動」とか「フォートナイト」とか「エイペックス」みたいなバトルロイヤルFPSゲームなのですが、おもしろいのは、プレイヤーはギャングになって現金輸送車を襲い、5分という制限時間の中でライバルたちとお金を奪い合うという点です。
もちろん、ほかのプレイヤーを倒すことでお金を奪えるのですが、とにかく5分間生き残っていればその時点での所持金を獲得できるので、無理に相手を倒しに行かなくても、コソコソしているだけでも経験値が稼げます。
あと、操作も直感的でやりやすく、キャラクターが個性豊かで、固有スキルでかなり差が出ます。
エイムの補正も強めなので、初心者でも狙いをつけやすいのがありがたいですね。
とはいえ、結局やることは単調なので、すでに飽き始めてはいます。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『読書について』(ショーペンハウアー著)のレビュー
「読書術」をテーマにした本は実用書の鉄板ジャンルの1つで、その多くは「読書はいいものだ」と読書を全肯定しています。
読書術の本を手に取る人は普段から読書習慣があるわけですから、「読書する人はそうじゃない人よりすごい人なんだよ」と言ってもらえれば、それだけでちょっとだけ自己肯定感を高めてもらえるわけですね。
とくに現代はスマホの普及により、ちょっとした空き時間があれば大抵の人はスマホをいじってSNSを見たり、ゲームに興じたりしています。
暇な時間の過ごし方の選択肢が増えたことで、以前よりも「本を読む習慣がある人」と「本を読む習慣がない人」が明確に区別されるようになってきたのです。
そうした前提から「収入が高い人はたくさん本を読む」だの「頭がいい子どもは本をたくさん読む」だのといった主張がされ、読書を肯定する本が次々に生まれるわけです。
さて、1851年にドイツで出版されたこの本は、タイトルだけを見るとそうした現代の日本の読書本と同じように読書を全肯定し、読書の技法を教えてくれる本に見えます。
しかし、じつはこの本、むしろ「本を読みすぎることの危険性」について主張しているのです。
読書は、読み手の精神に、その瞬間の傾向や気分にまったくなじまない異質な思想を押しつける。ちょうど印章が封蝋に刻印されるように。読み手の精神は徹底的に外からの圧迫をこうむり、あれやこれやを考えねばならない――いまのところ、まったくその気がなく、そんなムードでもないのに。(中略)
重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると、生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識が仇となってますます精神のひらめきを失い、またあれこれ書き散らすと、ことごとく失敗するはめになる。
ショーペンハウアーは哲学者ですが、哲学者らしく、大切なのは「自分で考えることである」という主張が繰り返しされています。
読書というのは他者の思考をなぞるだけのものであり、それはあまり自分の頭を働かせる行為ではない。
だから、本を読んでばっかりいると、自分で考える力が損なわれてしまうというのが、彼の主張なのです。
読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ。おまけに多くの書物は、いかに多くの誤った道があり、道に迷うと、いかにひどい目にあうか教えてくれるだけだ。けれども創造的精神に導かれる者、すなわちみずから自発的に考える者は、正しき道を見出す羅針盤をもっている。だから読書は、自分の思索の泉がこんこんと湧き出てこない場合のみ行うべきで、これはきわめてすぐれた頭脳の持ち主にも、しばしば見受けられる。これに対して根源的な力となる自分の思想を追い払って本を手にするのは、神聖なる精神への冒瀆にひとしい。そういう人は広々とした大自然から逃げ出して、植物標本に見入ったり、銅版画の美しい風景をながめたりする人に似ている。
このような引用文を読んでもらえればわかると思いますが、ショーペンハウアーはけっこう辛辣に読書ばっかりしている人間を批判しているので、「読書は無条件に善!」と考えていると、フライパンで頭を殴られるような衝撃があるかもしれません。
そしてもう一つ、本書では「良書と悪書」についても述べられています。
これは編集者として現在の日本の出版に携わっている私にとってはなかなか心苦しさを感じるところでもあります。
まず物書きには二種類ある。テーマがあるから書くタイプと、書くために書くタイプだ。第一のタイプは思想や経験があり、それらは伝えるに値するものだと考えている。
第二のタイプはお金が要るので、お金のために書く。できるかぎり長々と考えをつむぎだし、裏づけのない、ピントはずれの、わざとらしい、ふらふら不安定な考えをくだくだしく書き、またたいてい、ありもしないものをあるように見せかけるために、ぼかしを好み、文章にきっぱりした明快さが欠けることから、それがわかる。ただ紙を埋めるために書いているのが、すぐばれる。(中略)
それに気づいたら、ただちにその本を投げ捨てなさい。なにしろ時間は貴重だ。要するに、書き手が紙を埋めるために書くなら、その時点でただちに、その書き手は読者をあざむいていることになる。つまり、書くのは伝えることがあるからだと偽っている。
この部分なんかを読むと、まさに現代の日本の出版業界のことを言っているのではないか……と思ってしまいます。
残念ながらショーペンハウアー先生のいうように、世の中には「そんなに出す必要のない本」「そんなに読む必要のない本」であふれています。
そして著者も編集者も、そのことを理解していながらも、お金を稼ぐためにせっせとそうした本を作り続けているのが現状です。
私も、そうした行為に加担している人間のひとりなのです。
本は何でもいいからたくさん読めばいいというものではありません。
そういうクソみたいな本を100冊読むよりも、いい本を一冊読んだほうがよほどためになりますし、時間が有用に使えます。
しかし問題は、そうした「いい本」を見分けるのは、至難の業であるということです。
売れている本がいい本とは限りません。
Amazonで高評価がついていて、たくさん売れていても、中身が薄っぺらいクソみたいな本もあります。
(そういう本を「なぜいま、この本が売れているのか」を分析するために読むのは有用かもしれません。私はそのような視点で読んでいます)
また、分厚くて難しそうな本だからといって「いい本」とは限りません。
回りくどくて難解な文章はなんだか高尚な感じもしますが、じつは内容が紆余曲折していたりしていて、あまり内容がないこともあります。
たとえば今回紹介しているショーペンハウアーの『読書について』は間違いなく良書ですが、本文は160ページ程度で終わっていて、たいへん簡潔に書かれています。
……と、ここまで書いていてなんですが、このショーペンハウアー先生の主張も、鵜呑みにしてはいけません。
これは私がたびたび主張していることですし、ショーペンハウアー先生もいっていることですが、本の内容を「なるほど!」とまるごと信じて鵜呑みにしてしまうことほど危険なことはないのです。
いかなる本でも、「ホンマかいな」と心の片隅に疑う姿勢を持ち続けなければなりません。
さて、古典を読む場合、著者がその本を書くに至った経緯のようなものを把握しておくと、なぜその著者がその本を書いたのか、その動機がわかることがあります。
本書の場合、解説によってショーペンハウアーの生涯がカンタンに説明されています。
そこに、なぜ彼が『読書』というテーマについて本を書いたかの動機が伺い知れる事実があるので、説明していきましょう。
ショーペンハウアーは商人の父と小説家で旅行記なども執筆しベストセラー作家であった母親の間に生まれます。
最初は父の意向にしたがって商人になったショーペンハウアーですが、やはり哲学の道を志して哲学書を刊行するも、まったく売れませんでした。
ここであったのが、母親との確執です。
流行作家だった母は自分の息子をライバル視するようになっていた。本になったばかりの博士論文『充足理由律の四根について』を息子から手渡された母は、「薬屋さん向けの本じゃないの?」とからかう。当時、薬屋では主として薬草を扱っていたので、薬草の根っこの話かとあてこすったのである。息子がカッとなって「お母さんの本がこの世から消え去っても、ぼくの本は読み継がれます」と言い返すと、母は「お前の本は初版がそっくりそのまま売れ残るのよ」と負けずに切り返したという。こうして母と息子の関係は決定的破局をむかえ、一八一四年ショーペンハウアーはヴァイマールを去り、ドレスデンへ向かう。以後、母と息子は生涯二度と顔を合わせなかった。この母にして、この息子ありというべきか、ショーペンハウアーの才気や激しい気性は母親ゆずりとも言われている。
良書と悪書の部分についてなどは、おそらくは流行作家で軽薄な内容の本を出していた母親の本を意識した部分もあるかもしれませんし、母親のような人が書いた本をいくら読んでもタメにならない……という意図もあったかもしれません。
ちなみに、実際にその後、ショーペンハウアーが出した力作『意志と表象としての世界』は100冊くらいしか売れなかったらしいので、母親の予言は当たったわけですが、一方でショーペンハウアーが言った「自分の本は読み継がれます」という言葉も当たったわけですね。
ただし、ショーペンハウアーの作品がいまも読みつがれているのは、哲学書よりも、本書のようなエッセーで、これは晩年になってから出版されてベストセラーになり、これにより、彼は有名人になったのです。
もうひとつ、知っておきたいのは当時のドイツ社会の文化の様子です。
一九世紀半ば、長く保たれてきた真・美・善の統一的美的価値観は危殆に瀕していた。都市化や工業化の波、プロレタリアートの台頭とともに、貧困や犯罪などの社会問題が発生し、通俗犯罪小説、ホラー作品が愛好され、大衆の刺激的快感を求める嗜好はどんどんエスカレートしてゆく。大衆はより強烈なもの、よりグロテスクなものを求め、そのために大衆の感覚はますます鈍磨してゆく。浮薄なもの、どぎついものが幅をきかせ、大衆文化の全面に「卑俗なもの」「醜悪なもの」が押し出され、こうして美と崇高の概念はかつてないほど凋落する。
いまもたまに「日本語の乱れ」という言い方がされますが、ショーペンハウアーも当時のドイツ語が乱れ、文法がメチャクチャな本が増えていることを痛烈に批判しています(このあたりのことにもけっこう紙面が割かれていますが、日本人は読み飛ばしてもいいでしょう)。
なので、本を読みすぎることの害については、現代でも果たして当てはまるのか、あるいは文芸と実用書で変わるものなのかは、それこそ個々人が考えて判断する必要があるでしょう。
後記
『十三機兵防衛圏』をようやくプレイ&クリアしました。
発売されたのは2019年で、『オーディンスフィア』『朧村正』をつくったアトラス&ヴァニラウェアだったので期待していたのですが「そうはいっても半年くらいたてばメルカリで中古品が安く手に入るやろ」と思っていた私が浅はかでした。
このゲーム、半年たっても1年たってもまったく値崩れを起こさず、恐るべきことにメルカリでも定価と同じくらいの値段で取引されていたのです。
いい加減にやりたくなってきたので、結局新品で買いました。
このゲームは架空の街に暮らす13人の少年少女を操作しながら、何処からともなく襲来する謎の怪獣を倒し、街を防衛するもの。
1940年代から1980年代、さらに2020年代など、いくつかの時代区分に分かれて、13人の主人公たちが交錯していくのですが、いかんせん物語設定や時系列がバラバラに進むので、かなりプレイヤーは混乱します。
私もたぶん、なにがどうなってそうなったのか、おそらく半分くらいしか理解できないままクリアしましたが、問題ありません。
すべてを理解する必要はないのです。
なぜなら、じつはそこにあまり意味などないからです。
捉えようによっては「なんじゃそら!」という壮大なモニョモニョラストですが、これはこれでアリだと思います。
それより私としては、アクションシーンが物足りなく感じました。
せっかく機兵のデザインがかっこいいのに、怪獣とのバトルフェイズではドット絵のようなものだけで表現されていて、めちゃくちゃ味気ないのです。
もちろん、すべてのグラフィックをリアルにする必要はないと思うし、バトルシステム自体はおもしろかったのですが、せめて技を出すときは搭乗者あるいは機兵のカットインイラストを入れるとか、そういう演出はあってもよかったんじゃないかなと……。
総じて判断すると、いいゲームだけど、絶賛できるほどではないかなという感じでした。
いま、Amazonの初売りで安くなっているみたいです。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
年末年始はコレを読んどけアワード2020 ~小説・人文・ビジネス・実用~
今年は新型コロナの影響で私の仕事も在宅になったりして、わりと本を読む時間が増えました。
2020年12月7日時点で、今年読んだ本は259冊。最多は5月で、41冊も読んでいました。
なかにはマンガも含まれるのですが、今年も年末年始のお休みのときにぜひ読んでいただきたい本を10冊ご紹介していきます。
では始めましょう。
もくじ
- 1.『書くことについて』(スティーブン・キング/小学館)
- 2.『PIXAR 世界一のアニメション企業の今まで語られなかったお金の話』(ローレンス・レビー/文響社)
- 3.『ぼぎわんが、来る』(澤村伊智/KADOKAWA)
- 4.『13歳からのアート思考』(末永幸歩/ダイヤモンド社)
- 5.『三体』(劉 慈欣/早川書房)
- 6.『13歳からの世界征服』(中田考/百万年書房)
- 7.『メインテーマは殺人』(アンソニー・ホロヴィッツ/早川書房)
- 8.『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』(山下泰平/柏書房)
- 9.『壱人両名:江戸の知られざる二重身分』(尾脇秀和/NHK出版)
- 10.『高校生からわかる「資本論」』(池上彰/ホーム社)
- ベスト・オブ・ベストは……
1.『書くことについて』(スティーブン・キング/小学館)
現代を代表するベストセラー作家のひとり、スティーブン・キングが「小説家になる方法」をあけすけに語った自伝的な一冊です。
もしも小説家になりたい、という方がいれば、この本は一度は読んでおくべきでしょう。
そもそも小説とはなんなのか、人々から支持される小説とはどんなものかということがすっごくわかりやすく語られています。
大事なのは「わかりやすさ」です。難しい言葉を使わない。文章は短くする。そういう基本的なルールを守りましょう。
今回はあえて選びませんでしたが、こちらの『ベストセラーコード』もたいへん参考になります。
こちらはアルゴリズムを駆使して、売れている小説によく使われているテーマや単語などを分析した一冊です。アメリカの小説ばかりなので直接的な参考にはならないかもしれませんが、じつは結論はキングの『書くことについて』と似ています。
また、小説家を目指すということであれば、森博嗣さんの新書もなかなか刺激的でおもしろいので一読の価値があります。小説家になるに当たって、「役に立つか」どうかはわかりませんが。
2.『PIXAR 世界一のアニメション企業の今まで語られなかったお金の話』(ローレンス・レビー/文響社)
世界を代表するアニメーション制作会社「PIXAR(ピクサー)」の元財務責任者が、どんな紆余曲折を経て現在のピクサーが誕生したのかを語るビジネス書です。
とにかくレビーさんがいろいろたいへんな目にあうので、読んでいると否が応でも著者に感情移入してしまいます。基本的に自分勝手でわがままなスティーブ・ジョブズと、クリエイター陣との軋轢に悩まされ、最後の最後まで裏方に徹してがんばります。
あの『トイ・ストーリー』がどれだけの苦労を経て、世に生み出されてたのか。へたなフィクションよりぜんぜんおもしろい物語です。
こうしたビジネス系の物語はちょこちょこおもしろいものがあります。今年読んだものののなかでは、『コンテナ物語』や『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』もまあまあおもしろかったですね。
3.『ぼぎわんが、来る』(澤村伊智/KADOKAWA)
ド直球のホラー小説です。死ぬほど怖いです。一人暮らしの人は読まないほうがいいでしょう。マジで怖いので。ひたすら怖いです。それ以上の説明は不要でしょう。
「怖い」について知りたい人は、こちらも読んでみましょう。
4.『13歳からのアート思考』(末永幸歩/ダイヤモンド社)
美術には興味がない人でも、これはぜひ一度は読んでほしい一冊です。
世間評価されている「名画」には、名画と言われるだけの理由があります。それを子どもでもわかるように、非常に論理的に、明快に解説してくれる本です。
ピカソはなにがすごいといわれているのか、なぜ現代芸術は絵の具を塗りたくっただけのようなものが評価されたりするのか、その意味がよくわかります。
もう一冊、どちらを選ぼうかすっごく悩んだのが、こちらの『絵を見る技術』です。
この本もめちゃくちゃおもしろいです。
名画が名画たる所以を説明してくれるのは『13歳からのアート思考』と同じなのですが、 これはどちらかというと古典的名画の美しさを理路整然と解説している本なので、ちょっととっつきにくいかもしれません。しかしこちらも最高におもしろいです。
5.『三体』(劉 慈欣/早川書房)
これはもう、文句なくおもしろい超傑作SFです。なかなかのボリュームなのですが、読み始めると止まらなくなります。これこそ正月に読むべき本かもしれません。
中国の歴史や宇宙物理学などの知識が求められる部分が出てきますが、けっこう丁寧に説明してくれますし、物語全体の進み方がとてもうまいのでグイグイ惹きつけられていきます。
6.『13歳からの世界征服』(中田考/百万年書房)
今年読んだなかでブッチギリの、ぶっ飛んだ怪作です。私はこういう本が大好きです。
自らムスリムになったイスラム教法学者が、中学生くらいが悩みそうなことの解決策を提示していくいわゆる人生相談的な本なのですが、イスラムの教えに基づいて導かれるロジックは、日本人には奇々怪々、理解を超越したところにあります。
ただ、よくよく読んでみると、実は唯一神だけを大事にしてそれ以外のものを軽視するという考え方は、ある意味で日本人にとってすごく生きやすくなる指針となりうるのかもしれません。読むとムスリムになりたくなるかもしれませんが、そのあたりは自己責任で。
7.『メインテーマは殺人』(アンソニー・ホロヴィッツ/早川書房)
今年読んだなかで一番おもしろかったミステリーです。
特筆するべきは、探偵役であるホーソーンの嫌な奴っぷりです。名探偵は奇人変人の宝庫ですが、ホーソーンの場合は「まじでこんなやつと仕事で付き合わなくなったら嫌だな」と感じさせるような、リアリティのある嫌な奴なのです。でもそれがいい。
肝心のトリックとストーリーラインはミステリーの黄金律に従い、キッチリカッチリ最後に落としてくれます。不完全燃焼感はなし! すべての伏線を回収し、謎をスッキリ解いてくれる爽快な一冊でした。
8.『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』(山下泰平/柏書房)
タイトルだけでインパクト抜群ですが、タイトルに負けないくらい中身もギュギュッと凝縮された濃い~一冊です。私はこういう、日常生活でとくに役に立たないけれどムダに凝った本が好きです。
著者自身のスタンスがふざけたりしているわけではないのですが、とかく明治時代のエンタメ小説の主人公たちが何でもかんでも暴力と勢いだけで解決しようとしてしまうので、読んでておかしみが出てきます。
ちなみに、著者の山下さんははてなブロガーであり、新書も一冊出しています。
こちらは実用書に寄せていますが、やはり明治の人たちのぶっ飛びぶりがいかんなく表現されていて趣のある一冊となっています。
9.『壱人両名:江戸の知られざる二重身分』(尾脇秀和/NHK出版)
江戸時代というと士農工商と身分がはっきりと別れていて、窮屈な世の中だったように感じられるかもしれないけれど、じつは身分というのは現代の私たちがカンガよりも柔軟で、いい加減なものだったんだよということを伝える一冊です。
この本でおもしろいのは、日本は昔から「本音と建前」をうまく使いわけて社会を形成していたというところです。いちおうルールは決めるけれど、それは場合によっては守らなくても良かったりする。
そして、彼らは時と場合に応じてさまざまな名前と身分を使い分けていました。副業が解禁され、働き方が多様化して、ネットとリアルの2つの社会を生きている私たちにはなんだか馴染みがあるルールに思えます。
10.『高校生からわかる「資本論」』(池上彰/ホーム社)
今更ながらちゃんと資本論の内容を理解しようといくつか解説本を読んだなかで、抜群にわかりやすくてなるほどなあと思ったのがこちらの一冊でした。さすが池上先生。
なぜ、格差は縮まらないのか。それは資本主義が構造上、そうなるべくしてそうなるようなシステムになっているからなのです。
いわゆる労働者、サラリーマンこそ、資本論の内容は理解しておくべきなんじゃないでしょうか。
ベスト・オブ・ベストは……
これでしょう。
これは本当にいい本でした。
そして、この本が売れるのはなんだか嬉しい気持ちもあります。
それでは、良いお年を。
『トコトンやさしいエントロピーの本』(石原顕光・著)のレビュー
世の中には聞いたことがあるけれど、じつはなんのことだかよくわかっていない言葉ってたくさんありますよね。
「エントロピー」というのはそんな言葉の1つじゃないでしょうか。
図書館をフラフラしていて、たまたま目についてこの本を読んでみました。
結果、エントロピーについてわかったのか?
わかったような、わからないような感じです。
エントロピーを私なりに解釈してまとめると「世界全体の不可逆的な出来事の発生度合い」を示すもの……でしょうか。
ブラックコーヒーにミルクを垂らすと、混じっていきますよね。
そして、そのミルクコーヒーは、なにをどうやってもブラックコーヒーに戻すことはできません。
もしかしたら、ものすごい性能を持った遠心分離機とかを使えば、もとのブラックコーヒーに戻すこともできるのかもしれません。
しかし、そのためには遠心分離機を動かすための電力を消費し、遠心分離機自体も摩耗します。
もし、ミルクコーヒーを「ブラックコーヒー」と「ミルク」という状態に戻せたとしても、「世界全体」で見ると、やっぱり元の状態には戻らないのです。
ほかにも、以下のような出来事でエントロピーは増大すると表現できます。
・まわりより温かいものは自然に冷める
・床に転がっているボールは摩擦で止まる
・高いところから落とした物体は低いところで止まる
・鉄はだんだん錆びていく
・潮に水を入れてかき混ぜると、溶ける
・芳香剤の香りが広がっていく
・携帯用カイロは開封すると暖かくなる
エントロピーを知るために理解しておきたいのは、「質量保存の法則」と「エネルギー保存の法則」です。
質量保存の法則というのは、ようするに、どんな状態になっても、その物質がこの世から消えてしまうことは絶対にない、ということです。
水の入ったコップを放置しておくと空になりますが、水がこの世から消滅したわけではなく、水蒸気という形で目に見えなくなってしまっただけ。
どんな化学変化が起きても、物質はただ状態が変化するだけにすぎません(核分裂や核融合は別みたいですが)。
次に「エネルギー保存の法則」。
エネルギーというのは、端的に言うと「ものを動かす力」と表現できます。
私たちがふだん、いちばん使っているのは「電気エネルギー」ですね。
ただ、火力発電や水力発電などは、「熱エネルギー」「位置エネルギー」を「電気エネルギー」に変換しているだけで、電気エネルギーを無からつくりだしているわけではありません。
また、電気を使ってコタツや扇風機を動かすときも、最終的には電気エネルギーをふたたび熱エネルギーに変えたり、運動エネルギーに変えたりしているだけなので、電気エネルギーは単に媒介エネルギーとして役に立つから使われているということです。
このエネルギーも、物質と同じように、ただ状態が変わり続けるだけで、消滅することはありません。
たとえば扇風機をつけると、電気エネルギーが羽を回転させるモーターの運動エネルギーに変換されます。
その運動エネルギーは、羽が動かすことで発生した熱エネルギーに変換されて、拡散してしまったのです。
基本的に、エネルギーは最終的に「熱エネルギー」に変化していきます。
じつはこの熱エネルギーがエントロピーの鍵を握っています。
たとえば、摩擦も空気抵抗もない世界で振り子を降ると、これは永久に触れ続けます。
このときに起こっているのは、振り子の持っているポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)が「運動エネルギー」に変換されたり、「運動エネルギー」が「ポテンシャルエネルギー」に変換されるのを繰り返すだけだからです。
この2つの状態からエネルギーが変換され続けるだけなので、永久に続きます。
しかし実際にやってみると、振り子はそのうち止まります。
これはなぜかというと、振り子が空気に触れることで空気抵抗が生じたり、振り子の根本のところで摩擦が生じたりして、少しずつ「熱エネルギー」に変換されるからです。
熱は空気中に分散されていきますから、振り子が持っていたエネルギーはどんどん拡散されてしまい、最終的には振り子の動きが止まってしまうということです。
しかし、エネルギー保存の法則だけでは説明できない事柄もあります。
それはエネルギー変化の方向性についてです。
たとえば、水を置いておいたら勝手に回りの空気の熱を奪って動き出すことはありません。
もし、そのようなことが起こったら、そのコップの水が周囲の「熱エネルギー」を「運動エネルギー」に変換しているということです。
しかし、エネルギー保存の法則に従えば、別に「運動エネルギー」が「熱エネルギー」になるのも、「熱エネルギー」が「運動エネルギー」になるのも変わらないはず。
どうして、「運動エネルギー」はどんどん「熱エネルギー」に変換されるのに、「熱エネルギー」が勝手にほかのエネルギーに変換されることはないのか……という疑問が残ります。
ここで知っておきたいのが、エネルギーの質についてです。
エネルギーはできる仕事の量によって質が決まっていて、熱エネルギーはもっとも質の低いエネルギーなのです。
エントロピーが増大するのには2つの道があります。
(1)エネルギーの質が低下する
(2)物質の存在空間の拡大する
たとえばミルクがコーヒーに混じっていくことでもエントロピーは増大していくのですが、この場合、別にエネルギーの変換は起こっていません。
にもかかわらずエントロピーの増大が起こるのは、エントロピーという概念がそういうもんだと決められているからです。
ここがまさに、私がよくわかっていない点です。
エネルギーの質と物質の存在空間の広さは、根本的に、まったく関係のないことですね。そしてエネルギーの質が低下するとエントロピーが増大し、また、物質の存在空間が拡大するとエントロピーが増大します。それらもまた、根本的に、お互いに関係ありません。しかしながら、それらが同時に起こるような変化、たとえば化学変化などの場合には、それらの変化に伴うエントロピー変化の総和、すなわち全体のエントロピーが必ず増加する方向にのみ、エネルギーの質と、物質の存在空間の広さとの兼ね合いで、どちらに変化できるかということを知っているのです。
エネルギーの質と物質の存在空間の広さという、まったく関係のない現象が、エントロピーという1つの物理概念でまとめて取り扱えることはすごいことです。そこにこそ、エントロピーの真骨頂があるといっていいでしょう。
自然の変化の方向性をエントロピーでまとめてみましょう。まず、全体のエントロピーが増大する方向にのみ変化は進みます。全体のエントロピーが減少する方向には、絶対に進みません。そして、エントロピーを増大させる要因は2つあります。1つは、「エネルギーの質の低下」で、もう1つは、「物質の存在空間の拡大」です。したがって、すべての変化の方向性は、このエネルギーの質の変化と物質の存在空間の広さの変化の兼ね合いで決まることになります。
ちなみに、このブログ記事を書くためにエントロピーのことについて検索をしていたら、めちゃくちゃわかりやすい記事を見つけました。
引用します。
エネルギーは、温度差があれば、高いほうから低いほうへ、差がなくなるように移動します。カルノー・サイクルにおける仕事のエネルギーから熱エネルギーへの変換とは、低温の物体から高温の物体にエネルギーを移すことなので、温度の自発的な流れに逆行することになります。そのため、よけいにエネルギーを消費することになるので、100%の熱効率を実現することは不可能なのです。
こうしてクラウジウスは、「熱は低温から高温へ自発的に移動することはない」という「熱力学第二法則」を導いたのです(ちなみに「熱力学第一法則」は、エネルギー保存の法則とイコールです)。
そして、クラウジウスは、温度が高いほうから低いほうへ移るとき、「温度」とは表面的な現象にすぎず、より本質的な「なにものか」が移行しているのではないか、と考えました。そして、この「なにものか」を、大きさをもった、計算できる物理量として扱うことを考え、ギリシャ語で「変換」を意味する「トロペー」から「エントロピー」と命名したのです。
熱力学第二法則では、温度は放っておくと高いほうから低いほうに移ります。それは、エントロピーが放っておくと小さい状態から大きい状態へ移るのと同じことです。これが「エントロピー増大の法則」です。そして、温度が「高」から「低」へ、すなわちエントロピーが「小」から「大」へと移る現象に逆はありえないため、過去と未来が決定的に区別されてしまうのです。
たとえばボールが高いところから低いところへ落ちる落下運動も、過去と未来が区別できるように見えますが、地面に跳ね返ったボールは、上に逆戻りすることも可能です。つまり、ある瞬間のボールの写真を見ただけでは、上下どちらが過去か、未来かの判断がつけられないのです。
しかし、温度差がある2つの物体のあいだでの熱の移動では、はっきりと一方通行の流れが見てとれます。サーモグラフィーなどで温度を可視化できれば、いかなる瞬間も、そのとき温度が高いほうが過去で、温度が低いほうが未来です。その逆は決してありえません。つまり、そこには「時間の矢」があるのです。
これこそが熱力学第二法則、すなわちエントロピー増大の法則がもつ本質的な意味です。宇宙の中で、我々が知るかぎり、エントロピーだけは不可逆な物理量である――このことを示しているから、この法則は偉大なのです。
エントロピーはそもそも、「よくわからないけれどたぶん存在するなにか」を表現するためにつくられた言葉だからこそ、その正体を説明したりするのが難しいのでしょう。
ちなみにこの記事は以下の本から抜粋されているようなので、近々、この本を読んでみようと思います。
後記
いくつか映画を見ました。
『リトル・レッド ~レシピ泥棒は誰だ!?』
2006年にアメリカで公開されたフルCGアニメで、今見るとかなりCGが古くさく感じられますが、ストーリーがおもしろいので、見ているとそんなに気になりません。
グリム童話の赤ずきんちゃんをベースにして、杜で頻発しているレシピ泥棒の容疑者として「赤ずきん」「オオカミ」「木こり」「おばあさん」の誰なのかというのを、一人ひとりに聞き込みをしながら解き明かしていくコメディ・ミステリーです。
これは明らかに『ユージュアル・サスペクツ』をオマージュしていますね。
ちなみに、主人公の赤ずきんの英語版の声優はアン・ハサウェイだったりします。
『ザ・コア』
2003年に公開されたパニックムービーです。
もう17年前の映画なので、やっぱり映像が古めかしく感じますね。
1996年に『インデペンデンス・デイ』が公開され、1998年に『アルマゲドン』『ディープ・インパクト』が公開されるなど、宇宙を原因としたパニック映画がけっこう出回っていた時期、「宇宙じゃなくて、今度は地底にしたら?」みたいなノリでつくられた映画のような気がします。
何度かみたことがあるのですが、基本的にはアルマゲドンの地底版だと考えてもらえれば問題ないでしょう。
ストーリーラインはパニックムービーのお手本のような感じで、一人ずつ人が死んでいき、隠された陰謀が明らかになったりして、最後は大団円です。
『花とアリス殺人事件』
2004年に公開された岩井俊二監督の実写作品『花とアリス』の前日譚をアニメで描いたものです。
『花とアリス』は、荒井花(花)と有栖川徹子(アリス)という女子高生が、男子高校生との三角関係になる物語です。
本作はその花とアリスの出会いがつづられています。
実写映像をトレースする「ロトスコープ」という手法が取られており、どこかCGのような不思議なタッチのアニメーションになっています。
全体の雰囲気は岩井俊二っぽいですが、ストーリーははっきりしていてわかりやすいですね。おもしろかったです。
言わずとしれた名作です。
12歳の4人の少年が、列車にひかれて事故死してしまった遺体を探すために線路の上を歩きながら冒険に出かけるという物語です。
日本人が見てもなかなか感慨深い作品だと思うのですが、アメリカの地方出身者とかが見ると、きっとすごいノスタルジアを感じさせる作品なんだろうなと思います。
日本人がゲーム『ぼくのなつやすみ』をプレイして感じる郷愁に近いかもしれません。
1時間半くらいと短い映画です。
両親を交通事故でなくしておばあちゃんが経営する旅館で働くことになった女子小学生・関織子(せき おりこ)が、失敗を繰り返しながら著感の跡継ぎ・若おかみとして奮闘する模様を描いたアニメーション映画です。
テレビアニメ化もされていますが、本作は原作やテレビアニメ版とは独立した、この映画だけで完結したものになっています。
評判がいいことから気になっていたのですが、なかなか良作でした。
主人公の織子は両親を亡くしたのに立ち直り早すぎじゃない?と最初は思っていたのですが、そんなことはなかったのです。
彼女を取り巻く幽霊や鬼などのキャラクターたちもしっかり役割分担されていて、非常にうまくまとめられていました。
『イエスタデイ』
なぜかいきなり、ビートルズが存在しないパラレルワールドに飛ばされてしまった売れないミュージシャンが、ビートルズの楽曲を自分のものとして発表し、またたく間にスターダムにのし上がっていくSFヒューマンドラマです。
売れないミュージシャン時代からマネージャーとして世話を焼いてくれた女性との関係、ささやかれるパクリ疑惑で、彼が最後にどういう結論を出すのか。
この結末はなんだか現代っぽい感じがしますね。
人気ミュージシャン、エド・シーランが本人役で登場していたり、あの伝説の人が現れたりして、なかなかおもしろいです。
当然ながら、ビートルズの楽曲もシーンごとに流れまくります。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。