『トコトンやさしいエントロピーの本』(石原顕光・著)のレビュー
世の中には聞いたことがあるけれど、じつはなんのことだかよくわかっていない言葉ってたくさんありますよね。
「エントロピー」というのはそんな言葉の1つじゃないでしょうか。
図書館をフラフラしていて、たまたま目についてこの本を読んでみました。
結果、エントロピーについてわかったのか?
わかったような、わからないような感じです。
エントロピーを私なりに解釈してまとめると「世界全体の不可逆的な出来事の発生度合い」を示すもの……でしょうか。
ブラックコーヒーにミルクを垂らすと、混じっていきますよね。
そして、そのミルクコーヒーは、なにをどうやってもブラックコーヒーに戻すことはできません。
もしかしたら、ものすごい性能を持った遠心分離機とかを使えば、もとのブラックコーヒーに戻すこともできるのかもしれません。
しかし、そのためには遠心分離機を動かすための電力を消費し、遠心分離機自体も摩耗します。
もし、ミルクコーヒーを「ブラックコーヒー」と「ミルク」という状態に戻せたとしても、「世界全体」で見ると、やっぱり元の状態には戻らないのです。
ほかにも、以下のような出来事でエントロピーは増大すると表現できます。
・まわりより温かいものは自然に冷める
・床に転がっているボールは摩擦で止まる
・高いところから落とした物体は低いところで止まる
・鉄はだんだん錆びていく
・潮に水を入れてかき混ぜると、溶ける
・芳香剤の香りが広がっていく
・携帯用カイロは開封すると暖かくなる
エントロピーを知るために理解しておきたいのは、「質量保存の法則」と「エネルギー保存の法則」です。
質量保存の法則というのは、ようするに、どんな状態になっても、その物質がこの世から消えてしまうことは絶対にない、ということです。
水の入ったコップを放置しておくと空になりますが、水がこの世から消滅したわけではなく、水蒸気という形で目に見えなくなってしまっただけ。
どんな化学変化が起きても、物質はただ状態が変化するだけにすぎません(核分裂や核融合は別みたいですが)。
次に「エネルギー保存の法則」。
エネルギーというのは、端的に言うと「ものを動かす力」と表現できます。
私たちがふだん、いちばん使っているのは「電気エネルギー」ですね。
ただ、火力発電や水力発電などは、「熱エネルギー」「位置エネルギー」を「電気エネルギー」に変換しているだけで、電気エネルギーを無からつくりだしているわけではありません。
また、電気を使ってコタツや扇風機を動かすときも、最終的には電気エネルギーをふたたび熱エネルギーに変えたり、運動エネルギーに変えたりしているだけなので、電気エネルギーは単に媒介エネルギーとして役に立つから使われているということです。
このエネルギーも、物質と同じように、ただ状態が変わり続けるだけで、消滅することはありません。
たとえば扇風機をつけると、電気エネルギーが羽を回転させるモーターの運動エネルギーに変換されます。
その運動エネルギーは、羽が動かすことで発生した熱エネルギーに変換されて、拡散してしまったのです。
基本的に、エネルギーは最終的に「熱エネルギー」に変化していきます。
じつはこの熱エネルギーがエントロピーの鍵を握っています。
たとえば、摩擦も空気抵抗もない世界で振り子を降ると、これは永久に触れ続けます。
このときに起こっているのは、振り子の持っているポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)が「運動エネルギー」に変換されたり、「運動エネルギー」が「ポテンシャルエネルギー」に変換されるのを繰り返すだけだからです。
この2つの状態からエネルギーが変換され続けるだけなので、永久に続きます。
しかし実際にやってみると、振り子はそのうち止まります。
これはなぜかというと、振り子が空気に触れることで空気抵抗が生じたり、振り子の根本のところで摩擦が生じたりして、少しずつ「熱エネルギー」に変換されるからです。
熱は空気中に分散されていきますから、振り子が持っていたエネルギーはどんどん拡散されてしまい、最終的には振り子の動きが止まってしまうということです。
しかし、エネルギー保存の法則だけでは説明できない事柄もあります。
それはエネルギー変化の方向性についてです。
たとえば、水を置いておいたら勝手に回りの空気の熱を奪って動き出すことはありません。
もし、そのようなことが起こったら、そのコップの水が周囲の「熱エネルギー」を「運動エネルギー」に変換しているということです。
しかし、エネルギー保存の法則に従えば、別に「運動エネルギー」が「熱エネルギー」になるのも、「熱エネルギー」が「運動エネルギー」になるのも変わらないはず。
どうして、「運動エネルギー」はどんどん「熱エネルギー」に変換されるのに、「熱エネルギー」が勝手にほかのエネルギーに変換されることはないのか……という疑問が残ります。
ここで知っておきたいのが、エネルギーの質についてです。
エネルギーはできる仕事の量によって質が決まっていて、熱エネルギーはもっとも質の低いエネルギーなのです。
エントロピーが増大するのには2つの道があります。
(1)エネルギーの質が低下する
(2)物質の存在空間の拡大する
たとえばミルクがコーヒーに混じっていくことでもエントロピーは増大していくのですが、この場合、別にエネルギーの変換は起こっていません。
にもかかわらずエントロピーの増大が起こるのは、エントロピーという概念がそういうもんだと決められているからです。
ここがまさに、私がよくわかっていない点です。
エネルギーの質と物質の存在空間の広さは、根本的に、まったく関係のないことですね。そしてエネルギーの質が低下するとエントロピーが増大し、また、物質の存在空間が拡大するとエントロピーが増大します。それらもまた、根本的に、お互いに関係ありません。しかしながら、それらが同時に起こるような変化、たとえば化学変化などの場合には、それらの変化に伴うエントロピー変化の総和、すなわち全体のエントロピーが必ず増加する方向にのみ、エネルギーの質と、物質の存在空間の広さとの兼ね合いで、どちらに変化できるかということを知っているのです。
エネルギーの質と物質の存在空間の広さという、まったく関係のない現象が、エントロピーという1つの物理概念でまとめて取り扱えることはすごいことです。そこにこそ、エントロピーの真骨頂があるといっていいでしょう。
自然の変化の方向性をエントロピーでまとめてみましょう。まず、全体のエントロピーが増大する方向にのみ変化は進みます。全体のエントロピーが減少する方向には、絶対に進みません。そして、エントロピーを増大させる要因は2つあります。1つは、「エネルギーの質の低下」で、もう1つは、「物質の存在空間の拡大」です。したがって、すべての変化の方向性は、このエネルギーの質の変化と物質の存在空間の広さの変化の兼ね合いで決まることになります。
ちなみに、このブログ記事を書くためにエントロピーのことについて検索をしていたら、めちゃくちゃわかりやすい記事を見つけました。
引用します。
エネルギーは、温度差があれば、高いほうから低いほうへ、差がなくなるように移動します。カルノー・サイクルにおける仕事のエネルギーから熱エネルギーへの変換とは、低温の物体から高温の物体にエネルギーを移すことなので、温度の自発的な流れに逆行することになります。そのため、よけいにエネルギーを消費することになるので、100%の熱効率を実現することは不可能なのです。
こうしてクラウジウスは、「熱は低温から高温へ自発的に移動することはない」という「熱力学第二法則」を導いたのです(ちなみに「熱力学第一法則」は、エネルギー保存の法則とイコールです)。
そして、クラウジウスは、温度が高いほうから低いほうへ移るとき、「温度」とは表面的な現象にすぎず、より本質的な「なにものか」が移行しているのではないか、と考えました。そして、この「なにものか」を、大きさをもった、計算できる物理量として扱うことを考え、ギリシャ語で「変換」を意味する「トロペー」から「エントロピー」と命名したのです。
熱力学第二法則では、温度は放っておくと高いほうから低いほうに移ります。それは、エントロピーが放っておくと小さい状態から大きい状態へ移るのと同じことです。これが「エントロピー増大の法則」です。そして、温度が「高」から「低」へ、すなわちエントロピーが「小」から「大」へと移る現象に逆はありえないため、過去と未来が決定的に区別されてしまうのです。
たとえばボールが高いところから低いところへ落ちる落下運動も、過去と未来が区別できるように見えますが、地面に跳ね返ったボールは、上に逆戻りすることも可能です。つまり、ある瞬間のボールの写真を見ただけでは、上下どちらが過去か、未来かの判断がつけられないのです。
しかし、温度差がある2つの物体のあいだでの熱の移動では、はっきりと一方通行の流れが見てとれます。サーモグラフィーなどで温度を可視化できれば、いかなる瞬間も、そのとき温度が高いほうが過去で、温度が低いほうが未来です。その逆は決してありえません。つまり、そこには「時間の矢」があるのです。
これこそが熱力学第二法則、すなわちエントロピー増大の法則がもつ本質的な意味です。宇宙の中で、我々が知るかぎり、エントロピーだけは不可逆な物理量である――このことを示しているから、この法則は偉大なのです。
エントロピーはそもそも、「よくわからないけれどたぶん存在するなにか」を表現するためにつくられた言葉だからこそ、その正体を説明したりするのが難しいのでしょう。
ちなみにこの記事は以下の本から抜粋されているようなので、近々、この本を読んでみようと思います。
後記
いくつか映画を見ました。
『リトル・レッド ~レシピ泥棒は誰だ!?』
2006年にアメリカで公開されたフルCGアニメで、今見るとかなりCGが古くさく感じられますが、ストーリーがおもしろいので、見ているとそんなに気になりません。
グリム童話の赤ずきんちゃんをベースにして、杜で頻発しているレシピ泥棒の容疑者として「赤ずきん」「オオカミ」「木こり」「おばあさん」の誰なのかというのを、一人ひとりに聞き込みをしながら解き明かしていくコメディ・ミステリーです。
これは明らかに『ユージュアル・サスペクツ』をオマージュしていますね。
ちなみに、主人公の赤ずきんの英語版の声優はアン・ハサウェイだったりします。
『ザ・コア』
2003年に公開されたパニックムービーです。
もう17年前の映画なので、やっぱり映像が古めかしく感じますね。
1996年に『インデペンデンス・デイ』が公開され、1998年に『アルマゲドン』『ディープ・インパクト』が公開されるなど、宇宙を原因としたパニック映画がけっこう出回っていた時期、「宇宙じゃなくて、今度は地底にしたら?」みたいなノリでつくられた映画のような気がします。
何度かみたことがあるのですが、基本的にはアルマゲドンの地底版だと考えてもらえれば問題ないでしょう。
ストーリーラインはパニックムービーのお手本のような感じで、一人ずつ人が死んでいき、隠された陰謀が明らかになったりして、最後は大団円です。
『花とアリス殺人事件』
2004年に公開された岩井俊二監督の実写作品『花とアリス』の前日譚をアニメで描いたものです。
『花とアリス』は、荒井花(花)と有栖川徹子(アリス)という女子高生が、男子高校生との三角関係になる物語です。
本作はその花とアリスの出会いがつづられています。
実写映像をトレースする「ロトスコープ」という手法が取られており、どこかCGのような不思議なタッチのアニメーションになっています。
全体の雰囲気は岩井俊二っぽいですが、ストーリーははっきりしていてわかりやすいですね。おもしろかったです。
言わずとしれた名作です。
12歳の4人の少年が、列車にひかれて事故死してしまった遺体を探すために線路の上を歩きながら冒険に出かけるという物語です。
日本人が見てもなかなか感慨深い作品だと思うのですが、アメリカの地方出身者とかが見ると、きっとすごいノスタルジアを感じさせる作品なんだろうなと思います。
日本人がゲーム『ぼくのなつやすみ』をプレイして感じる郷愁に近いかもしれません。
1時間半くらいと短い映画です。
両親を交通事故でなくしておばあちゃんが経営する旅館で働くことになった女子小学生・関織子(せき おりこ)が、失敗を繰り返しながら著感の跡継ぎ・若おかみとして奮闘する模様を描いたアニメーション映画です。
テレビアニメ化もされていますが、本作は原作やテレビアニメ版とは独立した、この映画だけで完結したものになっています。
評判がいいことから気になっていたのですが、なかなか良作でした。
主人公の織子は両親を亡くしたのに立ち直り早すぎじゃない?と最初は思っていたのですが、そんなことはなかったのです。
彼女を取り巻く幽霊や鬼などのキャラクターたちもしっかり役割分担されていて、非常にうまくまとめられていました。
『イエスタデイ』
なぜかいきなり、ビートルズが存在しないパラレルワールドに飛ばされてしまった売れないミュージシャンが、ビートルズの楽曲を自分のものとして発表し、またたく間にスターダムにのし上がっていくSFヒューマンドラマです。
売れないミュージシャン時代からマネージャーとして世話を焼いてくれた女性との関係、ささやかれるパクリ疑惑で、彼が最後にどういう結論を出すのか。
この結末はなんだか現代っぽい感じがしますね。
人気ミュージシャン、エド・シーランが本人役で登場していたり、あの伝説の人が現れたりして、なかなかおもしろいです。
当然ながら、ビートルズの楽曲もシーンごとに流れまくります。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『三体』(劉慈欣・著)のレビュー
ついに読みました。
アジア人として初めて、SFの賞のなかでもっとも権威があるといわれているヒューゴー賞を受賞した傑作です。
ヒューゴー賞は1953年から続くもので、ファン投票によって決められます。
過去の受賞作では、『タイタンの妖女』『月は無慈悲な夜の女王』『アルジャーノンに花束を』『ニューロマンサー』などがあります。
まあ、「もっとも権威あるSFの賞」といっても、じつはファンタジー作品も候補に含めているので、さりげなく『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』とか『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』が受賞していたりもします。
また、あくまでも選ぶのは一般の人々なので、ゴリッゴリのハードSFとかよりもエンターテイメント性の高い作品が選ばれやすいように感じます。
個人的にはハードSFよりも、ファンタジー要素が混じってもいいからエンタメ性が高いほうが嬉しいので大歓迎ですが。
さて、本作は前評判がよかったのでかなり期待しながら読んだのですが、これは間違いない傑作です。
抜群におもしろかった。
かなりページ数があるのですが、「長さを感じさせない」とはこのことで、読み始めるとなかなか止まらず、ついつい夜ふかしをしてしまうタイプの本ですね。
ただし、冒頭はいきなり中国の文化大革命の話から始まるのと、いかんせん登場人物が中国の方々なので、「あれ、この人の名前はなんて読むんだっけ?」というフラストレーションを感じたりします。
(漢字で表記せず、カタカナ表記で統一してくれたほうがありがたいような気もするけれど、そこは逆に同じ漢字語圏の弊害といえるかもしれません)
あらすじはこんな感じです。
ウィキペディアのページはスーパーネタバレ祭りですが、このエントリーではネタバレはしないようにするのでご安心を。
文化大革命のとき、目の前で紅衛兵に物理学者の父を殺された葉文潔(イエ・ウェンジエ)は、政府の秘密研究所で働くことになる。巨大アンテナが建造されるその施設では人類の運命を大きく変える、謎の研究が行われていた。
それから数十年後、世界中の科学者たちが自殺を遂げる謎の事件が発生。やがてナノマテリアル研究者の汪淼(ワン・ミャオ)の視界には、どこを向いても移り続ける不気味なカウントダウンが始まっていた。汪淼は、警察官・史強(シー・チアン)に導かれて、各国の軍事関係者が集う会合に加えられる。なかなか全容を明かされないが、どうもとある秘密結社が暗躍して、それが科学者たちの自殺と結びついているらしいとのことだった。
秘密結社の目的はなにか? 視界に映るカウントダウンの正体は? 科学者たちはなぜ自殺してしまったのか? そして、それらのカギを握るらしいVRゲーム「三体」にはどんな謎が仕掛けられているのか?
この作品をスムーズに理解しておきたいのは、「文化大革命」と「三体問題」です。
カンタンに説明していきましょう。
まず文化大革命から。
毛沢東によって建国された中華人民共和国ですが、毛沢東はいろいろ政策に失敗して失脚してしまいます。
しかし、権力欲の強い毛沢東はなんとか政権に返り咲きたい。
そこで、毛沢東は10代の若者たちに「いまの政権は資本主義的だ。もう一度革命を起こして、真に共産主義的な社会を目指そう」と煽りまくるのです。
こうして結成されたのが「紅衛兵」という10代の若者を中心とした組織で、彼らは「非共産主義的なもの」をことごとく攻撃していきました。
金持ちや地主はもちろんのこと、学校の教師や知識人、宗教関係者などのインテリをどんどん虐殺、吊し上げを行います。
これが文化大革命とよばれる運動です。
ただし、当然ながらこんなことをしていては経済がどんどん停滞していくので、毛沢東がなくなったことでどんどん沈静化して、むしろ紅衛兵だった人たちは地方の農村に回されて行き場を失っていったのです。
次に三体問題です。
これは天体力学の問題で、「3つの天体が互いに万有引力を有する場合の軌道は、性格には計算できない」とされているらしいです。
(ただし、特殊な条件下では軌道を計算することができるとのこと)
小説の中では、作中に登場するVRゲームでこの用語が登場します。
このVRゲームは地球ではない別の惑星が舞台になっていて、そこには質量がほとんど同じ3つの太陽があります。
この3つの太陽が三体問題をはらんでいるわけですが、とにかく天候がめちゃくちゃなのです。
うまく3つの太陽の一つの軌道を集会すれば、地球のように穏やかな日々が続きます。
しかし、急に太陽が3つとも惑星から遠く離れて極寒の機構になってしまうこともあれば、逆に太陽に近づきすぎてすべてが蒸発してしまうような地獄になってしまうこともある。
ゲームの中では穏やかな期間を「恒紀」とよび、一日のリズムが全く狂ってしまう期間のことを「乱紀」とよんでいます。
ゲームのプレイヤーはそうしたなかで文明を発展させるために、どうすればこの問題を解決できるのかを考えていくというものです。
この2つに対する基礎知識があると、特に冒頭がスムーズに読み進められるようになると思います。
私は当初、VRゲームが登場するという設定は知っていたので、てっきり「自分とはなにか」みたいな哲学的なSFの作品かと思っていたのですが、ぜんぜん違いました。
もっともっとエンターテイメント性の高い、「なるほど、こっちの方に話が進んでいくのか」という話で、中盤から後半にかけての感情ボルテージがやばいことになります。
すでに第二部の「暗黒森林」も日本語訳版が出ているので、お正月のうちに読もうかと思案中。
これがまた上下巻に分かれていて、すごいボリュームなんですよね。。。
後記
『地獄楽』っていうマンガがおもしろかったです。
舞台は江戸時代。
江戸時代末期、かつて最強の忍として畏れられた画眉丸は、死罪人として囚われていた。そんな中、打ち首執行人・山田浅ェ門佐切に極楽浄土と噂される島から「不老不死の仙薬」を持ち帰れば無罪放免になることを告げられる。画眉丸は幕府の追手からも忍びの里からも二度と追われることがないことを約束される「御免状」を手に入れ、「愛する妻にもう一度会うために」、その引き換えとなる仙薬探しの道を選ぶ。無罪放免を求める他の死罪人達やそのに同行する山田一門と、一見美しいが恐ろしい化物の住む謎の島で仙薬を巡る戦いが行われる。
本作で主人公・画眉丸(がびまる)のパートナーとなる山田浅右衛門は実在した首切り役人で、作品の設定の通り、代々「山田浅右衛門」という屋号を名乗っていた一族です。
明治時代まで続いていたようですね。
絵柄がキレイで、戦闘シーンもスタイリッシュ。
かつ、登場する罪人たちや、ほかの山田浅右衛門たちがキャラクター豊かでなかなか見ていて楽しいです。
さらに、島に救う異形の怪物のデザインも不気味さが際立っていて好きです。
LINEマンガで1巻無料で読んだのですが、続きが気になるから買おうか悩み中。。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『ベストセラーコード』(ジョディ・アーチャー&マシュー・ジョッカーズ著)のレビュー
人工知能が小説を書き上げる未来というのは、おそらくそう遠くない将来に実現するでしょう。
私はなんだかんだ10年近く編集者として本づくりに携わってきましたが、結局、人間がおもしろいと思うもの、興味を持つものには特定のパターンがあって、あとは細部を工夫したり、組み合わせを工夫したりして、目新しさを演出し、うまくプロモーションすることが大事だと思っています。
セレンディピティという言葉もありますし、名著『アイデアのつくり方』にも書かれていますが、新しいアイディアというのは既存のモノ同士の新しい組み合わせに過ぎないのです。
文章というのは突き詰めていえば、言葉の組み合わせにすぎません。
そして、すでに人間によって紡ぎ出された言葉と物語は無限に近いほど存在します。
であれば、そうした言葉と物語を組み合わせ続ければ、延々と新しい物語をつくることは不可能ではないと思います。
そして、歴史は繰り返すともいいます。
ファッションの世界もそうですが、トレンドや「好まれる作品」の傾向はだいたいパターン化しています。
国民全体が長寿になったとはいえ、人間の寿命はせいぜい80年くらい。
半世紀くらい前にブームになった作品をベースにして現代風に焼き直しをしたりすれば、そのときのメイン購買層の人々には「新鮮」に映るものです。
ただもちろん、ランダムに組み合わせてもそれが「おもしろい」物語になるかどうか、あるいは「売れる」物語になるかどうかはわかりません。
おもしろいかどうか、売れるかどうかの方程式は解明されておらず、端的に言ってしまえば、出版社の編集者などの勘やセンスに委ねられているのが現状です。
これが何を意味するのかというと、勘の悪い編集者の手によってボツにされてしまった作品や、あるいは改悪されてしまって低評価の憂き目を見ている作品も少なからず存在するということです。
実際、『ハリー・ポッター』シリーズを生み出した作家J・K・ローリングは、ブルームズベリーという出版社から本を刊行するまでに12社からボツにされています。
それでも諦めなかった彼女の執念もすごいですが、それだけ多くの出版のプロの目が節穴だったということを示す例でもあるでしょう。
ただ、ここが難しいのですが、じゃあブルームズベリーより前に別の出版社が『ハリー・ポッター』の刊行を決めたとしたら、果たしてそれが21世紀を代表するベストセラーになったかどうかはわかりません。
たとえば、たまたま担当になった編集者が
「ハリー・ポッターなんてダサい名前は変えよう。額に稲妻マークがあるのもカッコ悪いから、星の傷型にしよう」
なんて言い出して、その意見にローリングが折れていたら、おそらくここまでのヒット作にはならなかったと思います。
さて、今回紹介する本は、そんな出版業界の未来の一端を垣間見れるようなスリリングで刺激的な一冊でした。
こちらです。
本書はスタンフォード大学の准教授で、計量文献学とテキストマイニングの第一人者である著者がフリージャーナリストと協力して、世の中の「ベストセラー」とよばれる本のテキストデータをコンピュータにぶち込み、「どんな言葉が」「どんな順番で」「どのくらいの頻度で」使われているのかを計測し、ベストセラーの条件を見つけ出そうとする仮定と、その結果の一部をまとめたものとなっています。
もちろん、彼らはアメリカ人なので、調べた大賞はアメリカで刊行された本ばかりで、当然ながら英語で書かれたものです。
また、ノンフィクションやハウツー本などは対象から外されていて、フィクション、小説に限定されています。
そのため、べつにこの本を読んだからといってベストセラー小説が書けるようになるとか、ベストセラーの企画が立てられる……というわけではありません。
ただ、この本でまとめられているデータを読み解いていくと、おそらく日本の書籍市場でも通用する、「売れる本」の傾向のようなものも読み取ることは可能です。
そこで、本記事ではそこの部分をちょっとまとめておきましょう。
やたらトピックを詰めこむな
まずテーマ、というか売れる小説で描かれているトピックについてです。
人の注目と興味を引くものといったら「セックス」「ドラッグ」「ロックンロール」などが想像されますが、こうした要素はベストセラーのおよそ0.001%くらいしか占めていませんでした。
じゃあ、なにが多かったのか?
これには正解はありません(がっかり)。
ただ、黄金律はあります。
・知っていることを書け
・本全体の3分の1は「1つのトピック」に偏らせろ
ということです。
作家にはそれぞれ得意なトピックがあります。
それは往々にして自分の得意分野、つまり「知っていること」です。
自分にセックスの経験があまりない、あるいは興味がないのにセックスの話を盛り込んだって、おもしろい本にはなりません。
また、「このほうが売れるだろう」とあまりにもいろいろなトピックを詰め込みすぎるのもダメです。
売れる作家はもっとも大切な30パーセントにひとつかふたつのトピックしか入れていないのに対して、売れない作家はたくさんの項目を詰めこむ傾向があるということだ。後者は、3分の1に達するまえに少なくとも3つ、あるいはそれ以上を書きこむ。40パーセントの時点で、ベストセラー作家は4項目を織り込み、それ以外の作家は平均で6項目を詰めこんでいる。数字を並べすぎだと思われるかもしれないが、この点が読書体験や物語のまとまりに与える影響はきわめて大きいので、ここは強調しておきたい。物語の核心をより少ないトピックで伝えるということは、大切なところに集中しているということであり、無駄な話はそぎ落とされることになる。そこからうかがえるのは、秩序と精密さを重視する作家の姿勢であり、経験の豊富さである。
こうして見てきたなかで重要なのは、トピックはジャンルを超えるということだ。本を書きたい、あるいは出版したい、あるいはベストセラーを予測したいというなら、まずは業界にしっかり根づいているジャンルという概念を忘れることだ。どんなジャンルの小説にも結婚は出てくる。愛や犯罪もしかり。ジャンルによってその割合は異なるかもしれないが、鍵となるトピックが原稿のなかにあるということが大切なのである。たくさんの小説を研究してわかったのは、ジャンルは足かせになるということだ。忘れたほうがいい。それができたら、コンピュータの予測モデルのような思考のスタートラインに立ったと言える。
主人公の感情で「波」をつくるべし
基本的に読者は主人公に感情移入するものです。
主人公がよろこべば自分もうれしいし、主人公がピンチに慣れば自分もハラハラする(そうでない小説もありますが)。
ずっとホノボノした、なんの事件も起こらない平和な小説はまったくおもしろくないものですが、主人公の感情がジェットコースターのように上がり下がりを繰り返すのがベストセラーに共通する傾向のようです。
このプロットラインの流れにはいくつかのパターンがあり(本書では7つ紹介されています)、とくにどれが優れているというものはありません。
たくさんのプロットラインを分析してみて、ベストセラーは基本的な三幕構成のいずれかの形をとっていることがわかった。しかし、これがいちばんというものはなく、「穴に落ちた男」が「貧乏から金持ちへ」よりも有利だということはない。おおまかなプロットラインは必ずしも重要ではないが、シーンごとの鼓動がどのような形になっているかは重要だ。大ヒットする小説には力強い鼓動がある。
意味のない言葉をグダグダ書くな
トピック、ストーリーラインときたら、次に文章ですね。
ここで、スティーブン・キングの名作『シャイニング』(深町眞理子訳、文藝春秋)の出だしを見てみましょう。
鼻持ちのならん気どり屋のげす野郎め、というのがジャック・トランスのまず感じたことだった。
この一文だけで、主人公がジャック・トランスという人物であること、そしてジャックは口が汚い、つまりあまり育ちがいい男ではなさそうだということがわかります。
そしてどうもジャックは「鼻持ちのならん気どり屋のげす野郎」と出会って、その人物を気に入らないながらも、そのことを面と向かって口に出せない状況にあるようだ、ということがわかるわけです。
なぜジャックは声に出して言わないのか。何があったのか。なぜいらだちを伝えることができないのか。売れる本のなんたるかを熟知しているキングは、読者をいきなり人間同士の対立に放りこむ。冒頭のたった6語で、いがみ合うふたりの登場が予想されるのだ。文体をものにしようとするなら、ここはしっかりと理解する必要がある。最初の一文はつかみであり、つかみには声と対立が欠かせない。そして、それらを生み出せるかどうかは、言葉の選択と構文(シンタックス)にかかっている。
一方、売れなかったとある小説の出だしはこんな始まり方でした。
夜の町には眠りながら涙を流し、何も語らない男たちがいるのが私には感じられる。
『シャイニング』と比べると、なにがいいたいのかサッパリわからない文章ですね。
ここには行動もなければ交流もなく、ベストセラーの冒頭文が持つ推進力がない。並ぶ単語はどれも空虚だ。「夜」「眠り」「何も語らない男たち」。男たちは自分の涙を見ることすらない。読者に語りかけるI(私)は誰なのか。その存在は読者を動かす力を持っているか。読者は彼の存在を信じられるか。
おそらく答えはノーだろう。
ちなみに、ベストセラーの場合、「?」はそこそこ使われますが、「!」はあまり使われません。
たとえば、バーで男が飲んでいるシーンを想像してください。彼は最近彼女に振られたばかりです。そこでこの男は、カウンターの隣で飲んでいた友人の男に「これからは一度に5人の女と付き合おうと思っている」と伝えました。ビールを飲んでいた友人はむせび、相手に言います。
A「それで無傷でいられたら、驚きだなあ!」
B「なるほど、それで無傷でいれたら、驚きだな」
すぐわかると思いますが、ベストセラー作家が使うのは「B」のような言い方です。
主人公に主体的に行動させる
ベストセラーの主人公は男女問わず、かならず何かを必要として(need)いて、それを表明している。かならず何かをほしがって(want)いて、読者は主人公が求めているものを知る。needとwantは、ベストセラーには欠かせない動詞なのだ。あまり売れていない小説の場合、needとwantが使われる回数は明らかに少なくなる。ベストセラー小説の世界では、登場人物は自らの主体性(エージェンシー)を自覚し、コントロールし、表現する。使われる動詞は迷いがなく、自信が伴っている。
一方、あまり売れない小説の主人公たちは、なにを目的としているのかがわからず、行動もせず、語りもしないし、達成もしません。
彼らは立ち止まり、じっと待って、邪魔をしたり、あきらめたりします。
読者というのは、たとえば主人公がピカレスク(悪人)であろうと、なにか目的を持って積極的に行動してほしいと望むものなのです。
そうでない主人公だと、イライラしてきます(もちろんこれは売れる小説の主人公の傾向であり、そういう主人公がいいとか悪いという話ではありません)。
これは主人公のキャラクターだけに言えることではありませんが、読者はある程度、物語がどのように進むのかの予測が立たないと小説をなかなか楽しめません。
たとえその予想が著者によるミスディレクションだったとしても「予想ができる」ということが大事なのです。
その点で、主人公がちゃんと自分が目指している方向を明らかにしてくれるのは、読者のストレスを軽減させることにつながるのでしょう。
というわけで、以上です。
最初にも述べたように、これらのデータはあくまでもアメリカのベストセラー(しかもハリポタなどの児童文学は除外)だけで計測されたものであり、発展途上な部分もあるので、どのくらい日本の市場において参考になるのかはわかりません。
ただ、この本で明らかにされたことは、じつはすでにベストセラーの条件としてハシラれているものでもあり、すごく目新しいことというわけではないのです。
これは本書の解説を書いたビジネス書のベストセラー『統計学が最強の学問である』の著者の西内啓さんもいっていますが、大事なのはこうしたことがデータというエビデンスで示されたことなのです。
だれか、同じように日本でベストセラーを分析し、アルゴリズムで解析してほしい。
そうなったら、現在の編集者は軒並み職を失うことになるかもしれないけど……。
後記
この本を読んでいて、本書の中で紹介されていた『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』を買って読み始めてしまいました。
この本、読書が好きな多くの人から「下品だ」「最悪な内容」「ひどい本」と酷評されながらも、なぜかみんなブツクサ文句を言いながらシリーズの3作目まで読んでしまう、曲者のベストセラー作品なのです。
私もまだ読んでいる途中なのですが、あらすじをザックリ説明すると、
「女子大生が超絶イケメンな社長に出会って恋に落ちるんだけど、その社長がドSな性癖で、同意の上で性奴隷になってSMセックスしまくる」
という物語です。濡れ場濡れ場のオンパレードのようです(私はまだそこまでたどり着いていません)。
アメリカの業界では「ママのためのポルノ」と名付けられているとか。
すでに説明したように、ベストセラーではセックスがあまり主要トピックに取り上げられることはないのですが、この作品はストーリーライン、主人公の感情の起伏グラフが見事で、しかも文章もうまいので、グイグイ引き込まれてしまうのです。
たしかに、読んでいると「いい出来事」と「悪い出来事」が交互に起こり、ポンポンと物語が進んでいきます。
先日読んだ『戦国自衛隊』も、舞台設定やテーマは壮大なんですが、その割にストーリーが軽快に進んでいくので大変読みやすい一冊でした。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『戦国自衛隊』(半村良・著)のレビュー
1974年に発表された、たびたび映像化や舞台化などもされた、日本を代表する歴史SFの名作ですね。
文庫本を買ってみてまずびっくりしたのは、本の薄さでした。
「解説」を抜かすと165ページで終わり。
とにかくテンポが早いです。
状況説明が淡々としており、いつのまにか数年くらいの時間が経っていたりします。
といって、読者が状況についていけなくなるようなこともない。
自衛隊や日本の歴史についてしっかり調べて書かれているので、突拍子もない物語ながらリアリティが付け加えられています。
あ、ちなみにWikipediaのページには普通にネタバレが書かれているので気をつけてください。
近代兵器を装備した自衛隊が、日本海沿岸一帯で大演習を展開していた。新潟県と富山県の県境に陸上自衛隊から第1師団、第12師団、そして海上自衛隊が集結して臨時の補給施設が設けられたが、そのうちの30名あまりを突如、「時震」が襲った。
次の瞬間、伊庭義明(いば よしあき)・三等陸尉を中心とするその一団は、携えていた大量の補給物資や近代兵器とともに戦国時代へタイムスリップ。まもなく、戦国武将の1人である長尾景虎(現実の歴史では、後の上杉謙信)と邂逅した伊庭たちは、合戦三昧の世の中へ組み込まれていく。
やがて伊庭たちは、この戦国時代と彼らが知る歴史とには微妙なズレが生じていることや、斎藤道三や織田信長が存在していないことを知る。伊庭は景虎と手を組み、現代の兵器と戦術を用いることで戦国時代を勝ち続け、川中島の戦いを経て天下統一すら間近にするが、「我々が知る歴史と異なる歴史を持つこの世界における自らの役割は何か?」という疑問を拭えずにいた。
これは物語が始まって中盤くらいくらいでわかることですが、じつは自衛隊員たちが体験したのは単なるタイムトラベルではなく、パラレルワールドへの転移だったのです。
今風のマンガだったら、これら30人くらいの自衛隊員は仲間割れを起こしたり、じつは黒幕がいるみたいな展開にあるかもしれませんが、本作の場合はタイムトラベルという未曾有の異常事態に対しても自衛隊員はさすが冷静で、指揮系統に乱れが生じることもなく、バッサバッサと敵をなぎ倒していきます。
唯一、近代兵器を使っても苦戦させられたのは武田信玄でしょうか。武田信玄、強すぎ。
歴史ものというとどうしても登場人物が多くなり、しかも名前がコロコロ変わるし、ライトノベルみたいに個性的な名前ばかりというわけでもないので、だんだんだれがだれだかわからなくなってくるものだと思うのですが、『戦国自衛隊』の場合は店舗が良いせいか、それともその辺がうまく割愛されているのか、あまり混乱を来さないで物語を読み勧めることができましたね。
とちゅう、これはSFなのかなんなのかわからなくなりましたが、「大垣」のところで一気にSFに引き戻されました。
「しかしそれにしてもおかしいですね。美濃の土岐家の由緒をくわしく訊ねたんですが、僕らの世界にあった土岐氏の歴史とほとんど同じなんですよ。応仁の乱からの動乱で室町幕府の権威が失われると、それにともなって貴族と僧の経済を支えていていた制度も崩壊しちまうんです。京の公家の三条西家というのがこの美濃に荘園を持っていて、実際にその経営に当たっていたのが守護職の土岐家なんです。土岐家は清和源氏出だからそのつながりはほとんど武家と公家の関係のオリジナル・パターンと言っていいんです。そして守護代が斎藤氏なんですが、どうもこの世界の斎藤氏はまるで威勢が悪いんです。どうやら僕らの世界で有名な、あの油売りの松波庄九郎という男は、この世界では出世しそこなったんでしょうね。したがって斎藤道三は出現せず、その道三と深くつながるはずの織田信長も、歴史のプログラムからカットされてしまったんでしょう」
可能は聞かれるともなしに、ひとりで好きな歴史について喋っていた。が、義明はその言葉の中にハッとするものを感じた。
「すると可能は斎藤道三のほうが、歴史のプログラムの上では優位にあったというのか」
「いや、たとえですけれど……でも多分そうでしょう。だって、信長より道三のほうがずっと年上だし、歴史のファクターとして登場するのも先きなんですよ。僕らは歴史というと逆から見るしかないけど、実際には古い順に並んでいるわけです。時代の変化の過程は無限の可能性の中から、それぞれのファクターがただひとつの決定を行い、その決定を新しいファクターとして次の可能性が展開されるわけです」
「だった有名な乞食になった織田信長がいてもいいし、名家に生まれた木下藤吉郎がいたったいいはずじゃないか」
「それもそうですね。でも、それはあくまで原則論的に議論を進めた場合であって、こんな風にいろいろな歴史、つまり宇宙が多元であるなら、それは隣接した別の歴史の影響だって受けるのかも知れません。そうでなければな、何かとても大きなもの……たとえば時間とか空間とかを支配する、第五次元的な力がひとつの目的、あるいは意志のようなものを持ってずっと先きの先までひとつのプログラムを作ってしまっているということだってあり得ることですよ」
「すると何か、加納のいう無限の可能性をもつひとつのファクターが、任意にただひとつの決定をして行くという考え方は見せかけのことになるわけか」
「そうです。僕らはときどきそれを宿命という呼び方で意識するじゃないですか。この世界ではなぜか松波庄九郎を斎藤道三にはさせない仕組みになっていたんです。(略
なぜ、自衛隊員たちは突如として戦国時代に送り飛ばされてしまったのか。
歴史という第五次元的な力が彼らに何を求めていたのかという答えに答えは最後に明らかにされます。
サクッと読めて楽しかったので、気になる方はぜひ。
後記
最近LINEマンガで読んでた作品をザザッとまとめました。
未解決事件として有名なグリコ森永事件をベースにした社会派ミステリーです。
オンラインゲームのトラブルによって全身クマ装備で異世界に送られてしまったゲーマーの女の子の物語です。
もはやこの種の物語設定は様式美のレベルですね。
『動物のお医者さん』が代表作である大ベテラン・佐々木倫子先生による北海道の新人アナウンサーを主役にしたドタバタお仕事コメディ。
佐々木先生のいつものノリです。好きです。
突如学校に怪物が現れて閉じ込められてしまうのですが、この怪物、サイズの割には少食のようで、1日ひとり食べれば満足する模様。
そこで、毎日一人ずつ怪物にエサを与えることにした生徒たちのサバイバルホラーです。といっても、物語が始まった時点で7人くらいしか残っていなかったので、これどうやって展開するんだろうなーと不思議です。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『高校生からわかる「資本論」』(池上彰・著)のレビュー
最近わりと、「資本論」がブームになっていますね。
これはやっぱり新型コロナによって不況になっていることが影響しているのかな……などと私はぼんやり考えています。
不況になると、だいたい割りを食うのがアルバイトとか派遣社員とか、いわゆる非正規雇用と言われる人たちです。
正社員でも、夏とか冬のボーナスが減った人が多いとは思いますが、それでも仕事と固定給がもらえるだけマシでしょう。
実際、2008年にリーマン・ショックが起こり、「年越し派遣村」というものができたときには、小林多喜二の『蟹工船』ブームがありました。
『蟹工船』はプロレタリア文学とよばれるもので、資本家に搾取される労働者の悲哀を描いたものです。
日本が「世界一成功した社会主義国家」とよばれるわけ
さてマルクスの「資本論」というと、共産主義を礼賛するだけの本のように感じている人もいるかも知れませんが、実際はむしろ、「資本主義」の構造を明らかにした本だといえます。
そして本書によれば、日本には欧米諸国に比べて、マルクスを研究する学者が多いようです。
その理由について、次のように述べられています。
戦前、第二次世界大戦前に日本でも社会主義を主張したり、戦争に反対した人たちもいたわけだよね。でも、日本は日中戦争や太平洋戦争など戦争の道へ進んでしまった。アジア諸国を侵略して、結局戦争で負けました。
その時に多くの日本人がいろいろ反省したわけだよね。「何でこんな戦争をしちゃったんだろうか。戦争なんかすべきでなかった」ということになったら、実は戦争中、あるいは戦争の前から戦争に反対した人たちがいたことに気づいた。その人たちは、たとえば日本共産党や、日本共産党以外でもマルクス主義という考え方を持っている人たちだった。
(中略)
みんなが「戦争、万歳」と言っている時代にも、「戦争はいけない」と言っていた人たちがいたんだって、戦後みんながこの人たちを見直したのね。そして、マルクス経済学を研究している人たちが全国の大学の経済学部の主流になった。マルクス経済学を教えるのが主流になったんですね。
たとえば東京大学の経済学部でも多くの教授がマルクス経済学を教えていたのね。そうすると日本の官僚たち、あるいは日本の大企業のトップたちは学生時代、みんなマルクス経済学を学んだものです。資本主義というのは、自由勝手にやっておくと労働者の権利が失われて、労働者が貧しい状態になる。革命が起きるんだよ、ということをみんな学んだわけ。だから戦後日本の霞ヶ関の中央省庁の役人たち、あるいは政治家たち、それから大企業に就職してやがて社長になった人たちの頭の中に、マルクス経済学的な発想が入り込んでいたのです。
たしかに、「日本はもっとも成功した社会主義国家」などといわれることもあります。
成果に関係なく、ただ「長く会社にいるから」「年長だから」という理由だけでたくさん給料がもらえる。
最近はこうした日本独自の制度が崩れて、実力主義的な側面が増えてきましたが、それはある意味で社会主義的よりだった制度が、本来の資本主義に近づいてきたということが言えるわけです。
社会主義国家が失敗したわけ
歴史を振り返ると、第二次世界大戦後、ソ連や東欧諸国など、いわゆる社会主義を標榜した国は衰退していきました。
だから「やっぱり社会主義、共産主義は間違いだったんだ」ということで、いまも資本主義の国が幅を利かせています。
ただ、じつはソ連などの行った社会主義は、マルクスが主張した社会主義、共産主義とは違うものでした。
マルクスが主張したのは、「資本主義が成熟し尽くしていくと、やがて搾取されまくった労働者による革命が起きて社会主義に進む」というものです。
しかし、ソ連がやったのは、一部のインテリが半強制的に国を社会主義で運営していくと決めるやり方だったので、そもそも社会主義に慣れるような土壌になっていなかったと言えるわけです。
そのため、こうした社会主義は、ロシア革命を起こしたレーニンと結びつけて「マルクス・レーニン主義」とよばれたりします。
「資本論」をめっちゃ要約すると
ここでありがたいことに、池上先生は「資本論」の骨子を短くまとめてくれています。
次の文章です。
人間の労働があらゆる富の源泉であり、資本家は、労働力を買い入れて労働者を働かせ、新たな価値が付加された商品を販売することによって利益を上げ、資本を拡大する。資本家の激しい競争により無秩序な生産は恐慌を引き起こし、労働者は生活が困窮する。労働者は大向上で働くことにより、他人との団結の仕方を学び、組織的な行動ができるようになり、やがて革命を起こして資本主義を転覆させる。
いやこれ、たぶん多くの人がチンプンカンプンだと思うのですが、何冊か本を読んで「資本論」についての理解を深めると、なるほど~と思う要約なのです。
「資本論」はただの翻訳書を読むとめちゃくちゃわかりにくいのですが、池上先生によれば、その理由としては
・マルクスがわりと意図的に難しい言葉を使っているふしがある
・キリスト教徒じゃないとピンとこない表現も多い
ということを述べています。
たとえば、
「使用価値または財は、抽象的に人間的な労働がその中に対象化されている、あるいは受肉しているからこそ意味を持つ」
という一節について。
これは要するに、
「価値がある商品というのは、その商品ができあがるまでに、つくった人がいろいろ苦労しているからこそ価値があるんですよ」
ってことです。
受肉というのは本来、神の子であるキリストが人間という肉体を持って地上に生まれたことを意味しています。
神様というのはもともと私たちが五感で感じられるものではないのですが、人間の肉体をもつことによって、私たち人間はそれを認識できるようになった、ということです。
ここに受肉という言葉を使うことによって、キリスト教社会の人たちは、「ああ、それだけ貴重な尊いものが商品の中には含まれているんだな」ということがわかる。キリスト教を常識として子どものころから学んでいないと、こういう言い方ってなかなかわかりにくいよね。
余談ですが、欧米のさまざまな文学作品や論文を読むと、読者にキリスト教的な常識があることを前提に論理が展開されていることが多いのです。だから、将来あなたが小説や論文を理解しやすくなるように、一度は旧約聖書や新約聖書を読んでおくことをお勧めします。
「資本家」をめちゃくちゃカンタンに説明すると
資本家というのは、「お金を使ってお金を増やそうとする人たち」のことです。
いわゆる労働者は、自分の労働力とお金を交換して、それで食べ物などを買います。
労働力と食べ物などの商品を「W」、お金を「W」と表現すると、
W(労働力) → G(給料) →食べ物(W)
という行動になります。
労働者が自分の持っている商品(労働力)をお金に替えようとする目的は、じつは別の商品を手に入れるためです。
しかし、資本家(いわゆる会社の経営者)は違います。
資本家の行動は次のような感じです。
G(お金) → W(商品) →G’(お金+利益)
たとえば100円でリンゴを買います(G→W)。
そのリンゴを一口大に切り分けて種を取り除き、皮をむいて「カットリンゴ」として120円で販売します(W→G')。
はい、お金が増えました。
これが資本家です。
労働者は100円でリンゴを買っても、それを自分で食べて終わりですね。
ただの等価交換です。
ただ、マルクスは同時に資本家のことを「意志と意識を持つ人格化された資本」とも表現しています。
細胞が自己増殖を目指すように、資本が自己増殖を目指すために意思を持って行動しているようなものだということですね。
だれでも心がけひとつで、資本家になれます。
「お金を使ってお金を増やす」という発想を持って行動すれば、それはもう資本家としての行動だってことです。
しかもピケティ先生の本によって
「お金がお金を生み出すほうが、労働がお金を生み出すより速い」
ということがすでに明らかにされています。
お金がほしいなら、自分の労働力をお金に変えるのはすごく非効率的だということですね。
本書では後半で
・資本家がどうやって利益を生み出していくか
・なぜ労働者は搾取されてしまうのか
・なぜ資本主義は自己崩壊するのか
などがつづられています。
かなりおもしろいので、ぜひ読んでみてください。
なお、こちらの本を読んだら、以下の本もおすすめです。
後記
お金とはなんぞやというテーマに沿ったマンガでは、『ゴールデンゴールド』もおすすめです。
福の神伝説が残る島・寧島で暮らす中2の少女、早坂琉花。ある日、海辺で見つけた奇妙な置物を持ち帰った彼女は、ある「願い」を込めて、それを山の中の祠に置く。すると、彼女の目の前には、“フクノカミ”によく似た異形が現れた――。幼なじみを繋ぎ止めるため、少女が抱いた小さな願いが、この島を欲望まみれにすることになる。
フクノカミがいると、なぜかどんどんお金持ちになります。
といっても、別に空からお金が降ってくるわけではなくて、急にビジネスセンスが冴えてお金が儲けられるようになるのです。
ホラーともギャグとも取れない不思議な世界観。
絵柄はなんとなく石黒正数さんに似てますね。
あと、なんだかんだ恋愛要素もあります。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。