本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『マチネの終わりに』(平野啓一郎・著)のレビュー

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石田ゆり子さんではないと思うのです。

なにがって、『マチネの終わりに』のヒロインである小峰洋子の配役です。

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

  • メディア: Prime Video
 

 

福山雅治さんはまあいいとして、石田ゆり子さんだと甘すぎる印象が拭えないのではないかなと。

すくなくとも、イラクに赴いてテロの危険と隣り合わせになりながら情報を発信したり、アメリカ人の夫とサブプライムローンの問題について論じる印象はあまりありません。

といっても、私は映画は見ていないので、もしかしたら抜群の演技力でそんな不安を払拭してくれるのかもしれないですが、原作を読む限り、個人的には常盤貴子さんみたいに、ちょっと見た感じ気が強そうだけど、脆さのある女性みたいなほうがよかったんじゃないかなと思ったりしました。

 

まあそれはともかく、今回紹介するのは原作小説です。

 

マチネの終わりに(文庫版) (コルク)

マチネの終わりに(文庫版) (コルク)

 

 

ちなみに、(コルク)とついているのが不思議に思う方もいるかもしれませんが、これは株式会社コルクという作家やクリエイターのエージェント会社、株式会社コルクのことです。

コルクは『ドラゴン桜』や『宇宙兄弟』の編集を手掛けた天才的マンガ編集者・佐渡島庸平さんが立ち上げた会社で、平野啓一郎さんもコルクに所属しているというわけです。

そのため、本書はメディアプラットフォーム「note」でも連載されていて、それもあって人気が高まっていました。

ちなみに、毎日新聞にも掲載されていて、単行本は毎日新聞出版から刊行されたのですが、文庫本は文藝春秋になっています。

 

こういった経緯があるからかどうかはわかりませんが、この作品、見た目の印象とは裏腹に、けっこうシンプルでわかりやすい恋愛小説になっています。

とはいっても

「アーティストの才能の枯渇について」

イラク戦争テロリズム

「ジャーナリズムとはなにか」

サブプライムローン金融工学

東日本大震災

ボスニア・ヘルツェゴビナの民族紛争」

移民問題

「クラシックと音楽業界の衰退」

「人生の主役と脇役論」

などなど、いろいろな要素を打ち込んで織り交ぜてきているので、話が若干長ったらしいし、いろいろむつかしい専門用語が飛び交ってうんざりしてしまうところもあるのですが、基本的には「アラフォー男女の純愛物語」であるといえますね。

 

アラフォー男女の恋愛なんていうと、不倫とか不倫とか不倫とか、そういう爛れきった関係、配偶者や子どもとのドロドロ問題などを私なんかは想像してしまうのですが、そういうどす黒いイヤ~な人間関係はほとんどなくて、びっくりするくらいピュアでプラトニックな恋愛模様が描かれています。

 

あらすじをカンタンに紹介しますね。

若干、ネタバレ含みます。

 

天才クラシックギタリスト・蒔野聡史と、国際ジャーナリスト・小峰洋子がほとんど一目惚れみたいな感じで恋に落ちて、フランス出会いを誓いあったものの、アンジャッシュのコント(もう見られないのかな……)みたいなちょっとしたすれ違いで距離をおいてしまい、それぞれ別の人間と結婚して子供を儲けるまでになってしまうのだけど……

という感じの話です。

 

これはもちろん平野啓一郎さんの筆力もあるんだけど、編集者である佐渡島庸平さんのバランス感覚も生かされているような気がする。

この作品、作り方によってはもっとブンガク的な、小難しい話にもできたと思うのだけど、あえてそこまで踏み込まさせず、「わかりやすさ」と「作品の深み」をうまい塩梅で両立させているところがいいのではないだろうか。

あえて悪い言い方をすれば、絶妙なバランスで大衆に迎合化している文学作品、みたいな。

これは映画プロデューサーの川村元気さんもうまいところだと思う。

 

ボリュームは結構あるので読むのは大変だけど、見た漢字の印象ほどは読みにくくないし、普通にエンタメ的な恋愛小説として楽しめる、いい作品でした。

マンガもあるので、めんどくさい人はこちらがいいかも。

 

 

後記

 

読みました。

フォローしているのか、リツイートが回ってくるのか、ツイッターでたまに回ってくるマンガ家さんによる、自分のこれまでの人生のことについてつづったエッセーマンガ。

抜群のギャグセンスですごく楽しいマンガなのですが、著者の人生はなかなか壮絶そのもので、よくこんな状況でマンガを描くことをやめなかったと驚嘆する限りです。

ただ、これは私もわかるような気がしていて、結局、好きなことはどれだけ苦痛であってもやめられないものなのかもしれません。

それでも適度のギャグをまぶしつつ、マジメなところはマジメに描かれていて、人生いろいろあるよねとなかなか考えさせられる一冊です。

そして、ネットとSNSの発達によって、本当に個人(とくにクリエイター系の人)にはいままでにないくらいいろいろな可能性が広がっているんだなあということが理解できますね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『ぼくらの七日間戦争』(宗田理・著)のレビュー

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タイトルは知っているけど読んだことなかった名作シリーズのひとつ。

 

ぼくらの七日間戦争 (角川つばさ文庫)

ぼくらの七日間戦争 (角川つばさ文庫)

  • 作者:宗田 理
  • 発売日: 2009/03/03
  • メディア: 単行本
 

 

表紙やイラストこそ、非常に爽やかな健全児童文学っぽい感じですが、いやはや中身を読んでみるとなかなかアナーキーな一冊です。

それもそのはず、本作が刊行されたのは1985年で、中学生である主人公たちの両親には1960年代に盛り上がった学生運動に参加していた人間がいます。

学生運動については、私も世代ではないので実感としてはよく知らず、あくまで歴史上の出来事みたいな感じの知識しかないのですが、要するにベトナム戦争に反対する左翼思想の大学生たちが大学に立てこもって警官隊と闘ったものですね。

 

著者の宗田理さんは1928年生まれなので、おそらく学生運動に自ら参加した盛大ではないと思います。

それより、現在92歳のようですが、いまだ存命のようでびっくりです。

 

さて、あらすじは以下のようなものになっています。

1学期の終業式の日、東京下町の中学校に通う、菊地英治ら1年2組の男子生徒達が突如行方不明となる。親たちは懸命に英治らを探すが全く見つからない。実は英治らは、荒川河川敷の廃工場に立てこもって、外にいる橋口純子ら女子生徒と、体罰によって大怪我を負った谷本聡と協力し、廃工場を日本大学全学共闘会議をまねた「解放区」とし、校則で抑圧する教師や勉強を押し付ける親に対し、反旗を翻していたのだ。だが、1年2組の男子生徒の柿沼直樹は、それに参加する前に誘拐されてしまう。英治たちは廃工場で出会った老人・瀬川卓蔵と共に彼を救出しに奮闘すると同時に、突入してきた教師に様々な仕掛けで対抗し、隣町の市長の談合を生中継するなど、悪い大人たちをこらしめる。

 

まんま、学生運動ですね。

まあ、大学生はもう大人なので武装して立てこもったらシャレにならないですが、中学生が花火やら爆竹やら迷路やら落とし穴で武装するくらいなら、エンターテイメントとして楽しめるというものです。

 

彼らが闘っているのは体罰をしたりする教師で、いまだったら体育教師が竹刀を持っているだけでSNSがざわつき、怪我なんて追わせようもんならたちまちニュースになってしまうと思うので、このあたりにも時代を感じます。

ただ、大人には腕力とか権力でかなわない子どもたちが、知恵を絞りながらいろいろな道具を駆使し、偉ぶっている大人たちに一泡吹かせる痛快さは今の時代も変わりませんね。

だいたい彼ら、最終的には政治家と企業の社長の密会現場を盗聴してそれを世間に公表するというジャーナリスト顔負けのことまでしでかします。

 

最初、登場人物が多い上に、名前がみんな没個性的で、いったいだれがどういう役回りなのか混乱してきますが、まあそれはあんまり神経質にならなくても物語の進行上、あまり問題ありません。

とりあえず主人公が「菊池英治」であることがわかっていれば十分でしょう。

文体は別に子ども向けのような感じは一切なく、登場する中学生たちもなんだかやたら大人っぽい話し方をするのが印象的ですね。

でも、そのおかげもあるし、シナリオが進むテンポも軽快なので、サクサクと読み進めていけます。

 

さて、この作品を読んでひとつ思うのは、現代社会は「明確な敵」が不在になってしまったせいで、かえってめんどくさいことになっているよね、ってことです。

この作品で、中学生の主人公たちは、自分に暴力を振るう教師や、勉強を高圧的に矯正してくる親などに反発し、彼らを「共通の敵」としてクラスの男子全員が一致団結して協力します。

途中で裏切り者とか、仲間割れとかは起きません。

みんな、自分が得意なことを役割分担して、和気あいあいと7日間の共同生活を営むのです。

 

それに比べると、現代社会は暴力教師もいないし、高圧的に子供に勉強を押しつけたりする親というのも減ってしまったんじゃないでしょうか。

要するに、大人たちが「物分りが良くなってしまった」ということですね。

もちろんLGBTとか、各種ハラスメントなど、まだまだ無理腕人は一部にいますが、そうした人たちももっと時代が進んでいけば、かつての体育教師のように減っていくでしょう。

 

なぜみんな、物分りが良くなったのかというと、これは世界が小さくなったからです。

これは比喩的な表現ですが、インターネットの発達による個々人が受け取る情報量が爆発的に増加し、みんな「自分以外の人たちがなにを考え、どう感じているのか」を知る機会が増えたわけですね。

 

いまは、ちょっとした問題発言に対して多くの人がネット上で攻撃する炎上がちょくちょく起きていますが、これは共通の敵がいない世界で、パッと現れた敵キャラのようなものだと思うわけです。

いまはみんなが「いい人」ばかりなので、イライラしていて、だれかにアタリたくても、攻撃できそうな相手がなかなか見つからない状況だからこそ、「攻撃してもいい相手」とみんなに認定されてしまうと、集中砲火を受けてしまうわけです。

 

この状況は誰が何をどうやっても解決することはないと思います。

そういう時代だと思うのです。

もちろん、あと30年くらいしたら、また人々の意識が一巡してさらに高いレベルの社会になるかも知れないし、あるいは戦争が起きたりして共通の敵が出てきて日本人が一致団結するかもしれないし、人類が滅亡しているかもしれないですが、いまのところはどうしようもなさそうですね。

 

こういう時代で、多くの人にカタルシスを与えるものってなんだろうなということは、ボンヤリと考えたりします。

シン・ゴジラ』が大ヒットしたのは、みんなで協力して倒さないといけない敵をつくりだして、それにリアリティをもたせることができたからなんでしょうね。

 

ぼくらの七日間戦争 (角川つばさ文庫)

ぼくらの七日間戦争 (角川つばさ文庫)

  • 作者:宗田 理
  • 発売日: 2009/03/03
  • メディア: 単行本
 

 

後記

 

読みました。

名探偵コナン』とかつて双璧をなした少年向け推理マンガ『金田一少年の事件簿』で実際に反抗を計画・実行した犯人たちの立場から、あの事件のBサイドを覗き見るとというスピンオフギャグマンガです。

たしかに、こうしたフィクションで完全犯罪を成し遂げようとする犯人たちって、めちゃくちゃ裏で苦労しているんですよね。

さまざまなトリックを仕掛けるためにあっちこっち駆け回って、必死こいてアリバイを作ったり、ほかの人たちを誘導したり、ニセの手がかりを残したりと、とにかくたいへんです。

そのうえで、殺人という重労働もこなさないといけないわけです。

 

そしてもちろん、そんな苦労を知らないボヤッとした高校生男子にあっさり真相を見抜かれ、ときには逆に罠にかけられて、衆人環視のなかでぐうの音も出ない感じで理詰めにされるわけですから、なかなか悲惨ですね。

 

あ、ちなみにこの作品、『金田一少年の事件簿』のネタバレをガッツリやるので、読んだことがない人はまず先にネタ元作品を読むことをつよくおすすめします。

私が小さいころ金田一少年とコナンが同じチャンネルでゴールデンタイムにやっていたのが懐かしいですね。

いまは平日の夜はアニメがすっかり無くなってしまったのも、時代の変化を感じます。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『書くことについて』(スティーブン・キング)のレビュー

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これは持論ですが、およそ本を読む人というのは心のどこかで「自分も本を書きたい」と思っているはずじゃないでしょうか。

私自身がその一人であります。

小説まがいのものを書いたり、構想だけが頭の中でうねっているのをベッドに入ってから練ったり貼ったりしているのですが、なかなかそれを文章という形に落とし込むのは難儀なもので、いまだにできていませんから、たとえ巧拙の差があるにせよ、曲がりなりにも物語をひとつ作り上げられる人には畏敬の念を抱かざるを得ません。

そんな小説家ワナビの人たちのバイブルとしていい感じの本だったので、ご紹介します。

 

書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

 

 

スティーブン・キングは1947年生まれのアメリカ人作家で、多くの作品がたびたび映画化されている、アメリカを代表するエンタメ小説作家のひとりでしょう。

 

キャリー (字幕版)

キャリー (字幕版)

  • 発売日: 2014/02/26
  • メディア: Prime Video
 
シャイニング (字幕版)

シャイニング (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 
ミザリー (字幕版)

ミザリー (字幕版)

  • 発売日: 2015/10/14
  • メディア: Prime Video
 
IT/イット “それ”が見えたら、終わり。(吹替版)

IT/イット “それ”が見えたら、終わり。(吹替版)

  • 発売日: 2018/01/12
  • メディア: Prime Video
 
スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

スタンド・バイ・ミー (字幕版)   

  • 発売日: 2016/03/18
  • メディア: Prime Video
 
ショーシャンクの空に(字幕版)

ショーシャンクの空に(字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 
グリーンマイル (字幕版)

グリーンマイル (字幕版)

  • 発売日: 2015/01/05
  • メディア: Prime Video
 

 

かくいう私も映画は見ているのですが、原作小説は読んでいません。

というのも、だいたい上下巻、多いものだと3巻以上になっていて、かなりボリューミーなんですよね。

なので、いまだに尻込みしています。

ただ調べたところ、「後味悪すぎ映画」として有名な『ミスト』は短編集に入っているようなので、近々、コイツは読んでみようかなと思いました。

 

ミスト 短編傑作選 (文春文庫)
 
ミスト (字幕版)

ミスト (字幕版)

  • 発売日: 2017/07/28
  • メディア: Prime Video
 

 

さて、本書はそんなスティーブン・キングがタイトルの通り「書くこと」についてあれやこれやと語る一冊となっています。

当然ながら、書くものは「小説」です。

著者も、この本の読者は小説を書きたがっている、小説家になりたがっている人間であると想定して書いています。

 

本書は「もくじ」がないのでちょっとわかりにくいのですが、ぜんたいとして次のような構成になっています。

 

「履歴書」

スティーブン・キングの幼少期からいかにしてヒットメーカーになったのかをつづったエッセーパート。

とりあえず、医者の言う「ちょっと痛いですよ」は「すごく痛いから覚悟しろ」という意味であることは間違いないですね。

読むとわかりますが、何度も何度も出版社に送りつけてはNGをくらい、それでもめげずに送り続けています。

これはハリポタシリーズのJ・K・ローリングも同じです。

 

「何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい。手直しをするときにいちばん大事なのは、余計な言葉をすべて削ることだ」

このとき、グールドはほかにも含蓄のある言葉を口にした――ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ。言いかえるなら、最初は自分ひとりのものだが、次の段階ではそうではなくなるということだ。原稿を書き、完成させたら、あとはそれを読んだり批判したりする者のものになる。運がよければ、批判するより読みたいと思う者のほうが多くなる。

 

そのあと、小休止というか「書くこととは――」という文言のあとに、気分転換的な文章が入ります。

 

(書くこととは)ずばりテレパシーである。

(中略)本書が刊行されるのは二〇〇〇年の夏の終わりか秋のはじめくらいになるだろう。たとえ予定どおりにことが運んだとしても、あなたは私より時間的に少し後ろにいることになる。でも、そこはきっと見晴らしのいいところにちがいない。そこで、あなたは私からテレパシーを受けとることになる。もちろん、そこにいなくてもいい。本は持ち運びのできる魔法の道具だ。

(中略)

あなたはお気に入りの受信地にいて、私はお気に入りの発信地にいる。われわれは霊媒師のように空間だけでなく時間もへだてて交感しなければならないが、実際のところ、それはそんなにむずかしいことではない。われわれがディケンズシェイクスピアを読んだり、脚注さえあればヘロドトスを読んだりすることができるとすれば、一九九七年と二〇〇〇年のへだたりなどどうということはない。

 

「道具箱」

小説家が使いこなすべき道具箱……つまり言葉や文法のルールについて述べられているパートです。

キングはアメリカ人なので当然ながら英語の文章の書き方について述べられているのだけれど、根本的な部分で印象的なメッセージも多々あります。

 

下手な文章の根っこには、たいてい不安がある。自分の楽しみのために書くなら、不安を覚えることはあまりない。そういうときには、先に言ったような臆病さが頭をもたげることはない。だが、学校のレポートや、新聞記事や、学習能力適正テキストなどを書くときには、不安が表に現れる。ダンボは魔法の羽根で空を飛ぶ。われわれが受動態や副詞にすがるのは、この魔法の羽根の助けを借りたいからだ。が、ここで忘れてはならないのは、ダンボは生得のものとして魔法の力を持っており、羽根がなくても空を飛べるということである。

あなたは自分のことがよくわかっているはずだ。自身を持ち、能動態でどんどん書き進めていけばいい。それで何も問題はない。"彼は言った”と書くだけで、読者はそれがどんな口ぶりだったのか(早口か、ゆっくりか、嬉しそうにか、悲しそうにか等々)わかってくれる。もし読者が沼でもがいていたら、もちろんロープを投げなければならない。が、だといって、九〇フィートの鉄のケーブルで打ちのめすようなことがあってはいいわけはない。

いいものを書くためには、不安と気どりをすてなければならない。気どりというのは、他人の目に自分の文章がどう映っているかを紀にすることから始まる、それ自体が臆病者のふるまいである。もうひとつ、いいものを書くためには、これからとりかかろうとしている仕事にもっとも適した道具を選ぶことだ。

 

「書くことについて」

最後のパートであるこちらでは、文章というよりも「物語」を紡ぎ出すためのコツが述べられています。

キングはプロットはあまり重視していないようです。

あと、小難しい言葉遣いも嫌いだし、余計な装飾(とくにそれが陳腐でありきたりなものであればあるほど)も嫌いです。

あとは、作家を目指すものの心構え的なことも述べられています

 

作家になりたいなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道もない。

私は本を読むのがそんなに速いほうではない。それでも、一年に七十冊から八十冊は読む。そのほとんどは小説だ。読みたいから読むのであって、何かを学ぶためではない。たいていは夜、書斎の青い椅子にゆったりと腰掛けて読む。繰りかえしになるが、読みたいから読んでいるのであって、小説の技法やアイデアを学ぶためではない。それでも、読めば必ず得られるものはある。手に取った本にはかならず何かを教えられる。概して優れた作品より、できの悪い作品のほうが教わるものは多い。

 

私の考えでは、短篇であれ長篇であれ、小説は三つの要素から成りたっている。ストーリーをA地点からB地点へ運び、最終的にはZ地点まで持っていく叙述、読者にリアリティを感じさせる描写、そして登場人物に命を吹き込む会話である。

プロットはどこにあるのかと不思議に思われるかもしれない。答え(少なくとも私の答え)は"どこにもない"である。プロットなど考えたこともないと言うのは、一度も嘘をついたことがないと言うのと同じだ。けれども、どちらもその頻度をできるだけ減らそうとはしている。プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。どんなに道理的な予防措置を講じても、どんなに周到な計画を立てても、そうは問屋がおろしてくれない。第二に、プロットをよく練るのと、ストーリーが自然に生まれでるのは、相矛盾することだから。この点はよくよく念を押しておかなければならない。ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ。作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである。この点を理解していただけるなら――少なくとも理解しようとしていただけるなら、われわれはきっとうまくやっていける。そうでなく、おまえは狂っていると言うのなら、それはそれで仕方ない。そんなふうに言われるのは初めてのことではない。

 

まあもちろん、小説の書き方に正解とか不正解とかがあるわけではないし、必ずしもキングの言葉が正しいというわけではないでしょう。

ただ、少なくともキングが小説家として成功を収めているのは事実だし、そのキング本人が言っていることは傾聴に値するのではないかなと。

あと、普通に一冊のエッセーとしておもしろい(最後に仕掛けというか、オチもあるし)ですしね。

 

後記

マンガ『刷ったもんだ!』を読みました。

 

 

元ヤンかつオタクの女性が中規模?の印刷会社に就職して、そこで印刷にまつわるいろいろなことを学んでいくというお仕事マンガです。

私は仕事柄、印刷会社の人とはそれこそ毎日のように連絡を取り合うのですが、基本的には渉外を担当している営業の人としか話さないので、じつは印刷会社のなかでどういう仕事が行われているのかということはよくわかっていませんでした。

このマンガではそのあたり、印刷会社の人たちが普段、どういう仕事に従事しているのか、さらには印刷に関するさまざまな知識をわかりやすく教えてくれるので、個人的にはけっこう勉強になりましたね。

あとは絵柄もきれいで、登場するキャラクターたちも個性豊か(名前にだいたい色が入っています)なので、読んでいて楽しいです。

主人公とかほかのキャラクターのバックグラウンドストーリーもまだいろいろありそうなので、楽しみ。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『13歳からの世界征服』(中田考・著)のレビュー

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本当におもしろい本って、逆にレビューを書くのが難しいもんなのです。

なんでかというと、本当におもしろい本って私があれこれいうよりも、「とにかく一部を抜粋して実物を読んでもらったほうがおもしろい」からなのです。

それと同じような感じで、

・内容が完成されすぎている

・わかりやすすぎる

という本も、レビューを書くのが難しかったりします。

要するに、レビュー記事であえて私が付け足したり開設したりするスキがないわけなのです。

売れる本というのは、読んだ人が「自分も一言いいたくなる」ものであることが多いです。

少しばかり著者の独りよがりな思想が入っていたり、極端な言い方をしていて、反発する人が出てきそうな内容のほうが、賛同者と反発者が出てきて人気に火がついたりします。

 

これは本の装丁づくりも似ています。

私も経験があるのですが、本づくりを始めた当初はデザイナーさんと相談して本の装丁を決めるとき「とにかくかっこよく」「内容に即したもの」にしようとするのですが、あまりにもデザインとして完璧すぎてスタイリッシュすぎたりすると、なんかあまり売れなかったりするのです。

逆に、装丁のなかでちょっと抜けたところがあったり、ちょっとダサく感じたりするもののほうが万人受けしたりします。

ここらへんの塩梅は私もまだまだ試行錯誤を繰り返しています。

 

さて、今回紹介するこちらの本も抜群におもしろくて私は大好きなのですが、これもある意味完成されてしまっているおもしろさというか、あんまりあえて私が解説する必要がない本なんですね。

 

13歳からの世界征服

13歳からの世界征服

  • 作者:中田考
  • 発売日: 2019/10/17
  • メディア: 単行本
 

 

著者の中田考先生は日本人でありながらムスリムイスラム教徒)で、毎日礼拝したりしているそうです。

「えらてん」こと「えらいてんちょう(矢内東紀)」さんと池袋周辺にあるエデンというイベントバーに住み着いているとか、そんな噂があります。

 

しょぼい起業で生きていく

しょぼい起業で生きていく

 

 

中田先生はちゃんとイスラーム系の解説書とかも出しているのですが、

 

イスラーム法とは何か?

イスラーム法とは何か?

  • 作者:中田 考
  • 発売日: 2015/10/31
  • メディア: 単行本
 
日亜対訳 クルアーン――「付」訳解と正統十読誦注解
 
イスラームの論理 (筑摩選書)

イスラームの論理 (筑摩選書)

  • 作者:考, 中田
  • 発売日: 2016/05/11
  • メディア: 単行本
 
イスラーム学

イスラーム学

  • 作者:考, 中田
  • 発売日: 2020/01/24
  • メディア: 単行本
 

 

その一方で中田先生は「カリフ制再興」を目的として各種の活動をしているので、イスラームの教えを日本に伝えるべく、サブカルっぽい本も出しています。

まあこれは、中田先生自体がアニメ等にも造詣が深いこともあると思いますが。

 (ライトノベルも書いています)

 

ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門
 
俺の妹がカリフなわけがない!

俺の妹がカリフなわけがない!

  • 作者:考, 中田
  • 発売日: 2020/07/14
  • メディア: 単行本
 
みんなちがって、みんなダメ

みんなちがって、みんなダメ

  • 作者:中田 考
  • 発売日: 2018/07/25
  • メディア: 単行本
 

 

さて、今回紹介する『13歳からの世界征服』は、中田先生の本の中でもイスラーム色が薄く、基本的に中学生の子供に向けて書かれた一冊なので、中田先生の入門書としてはぴったりなのではないでしょうか。

イスラーム色がうすいとはいっても、基本的にはイスラームの哲学と中田先生の独自の哲学がミックスされたものをベースに、13歳くらいの思春期になったばかりの子どもたちが抱きがちな悩みに回答していきます。

 

まあ、その回答がぶっ飛んでいるわけです。

初っ端から、こんな感じでこの本は始まります。

 

Q なぜ人を殺してはいけないのですか?

 

人を殺してはいけない理由なんて、どこにもありません。

人は人を殺してもいいんです。日本の法律は殺人を禁止していません。

警報199条には「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と定めてありますが、刑法のどこを読んでも「人を殺してはいけない」とは書かれていません。

「人を殺してはいけない」も含めて、人間が「~をやってはいけない」と言う場合、それを言う人の「これをやって欲しい」「これは嫌だ」という個人的な好き嫌い・趣味以外の根拠はありません。

(中略)

もし「やってはいけないこと」を決められるものがあるとすれば、それはイスラームのような、この宇宙を超えた一神教の神だけです。時代や場所によって左右されてしまう人間には「人を殺すのは罪である」ということを論理的に説明できません。それを決められるのは神だけなんです。

 

終始、こんな感じの中田節が続きます。

詭弁と言ってしまえばそれだけのような気もしますが、私はこういう極端な物の言い方は大好きです。

 

あともうひとつ、イスラームのようなゴリゴリの一神教の考え方は、当然ながらキリスト教とか仏教徒はまったく違うロジックに基づいています。

よくある自己啓発書はアメリカ発祥ですから、ソースをさかのぼっていくとその倫理観の根底にあるのはキリスト教です。

そして最近ではマインドフルネスを始めとして、仏教をベースにしたメンタル本、自己啓発本も多いです。

イスラームの教えはそのどちらとも違っていますね。

端的に説明すれば

唯一神アッラーにさえ気に入られれば、それ以外のすべての人間に嫌われても問題ない」

という考え方です。

すべてのルールはアッラームハンマドに授けた「クルアーンコーラン)」に書かれているわけですから、それだけに従っていればいいわけです。

 

ちなみに、ムスリムの人たちはよく「インシャーアッラー」という言い方をするそうです。

これは「神が望むなら」というような意味らしく、イスラム圏の人たちはなにか約束をするときにこの言葉をつけます。

たとえば、「明日の12時までにこの仕事を終わらせます。インシャーアッラー」みたいな感じですね。

これはどういうことかというと

「明日の12時までにこの仕事を終わらせるようにがんばるけど、突発的な出来事が起きて12時までに終わらない可能性もある。12時までに終わるかどうかは神がそれを望んでいるかどうか次第ですね」

ということです。

そもそもイスラム教においては神がすべての運命を決めているわけですから、人間が未来の予定を自分で決めることなんてできないわけです。

もちろん、だからといって人間がなんの努力もしなくていいというわけではありません。

イスラム教では、自分の能力とか才能も神から与えられたものなので、それを活かさないといけないのです。

がんばる能力があるならがんばらないといけません。

 

イスラムの教えは日本では馴染みがないですが、だからこそちょっと勉強してみると、まさに日本人が抱えているさまざまな「まもるべきルール」「従うべきマナー」などの固定観念から解き放ってくれる感じもあります。

(だからといってこの本の内容を実践するのも考えものですが)

 

たとえば中田先生は本書で次のようなことを伝えています。

 

Q なぜ自殺をしてはいけないのですか。

A 死にたければ死ねばいいのです。だれも禁止していません

Q 大人になっても働きたくありません

A 生活保護を受給するか、刑務所に入りましょう

Q 生きていくうえで一番大切なものはなんですか?

A 可愛さです。猫のマネをして語尾に「ニャー」をつけましょう

Q なんの取り柄もありません

A 人間にそもそも価値なんてありません。あるとすれば「若さ」くらいです

Q 選挙には行ったほうがいいですか?

A どっちだっていいです。個人的には時間の無駄だから行かなくてもいいと思います。

Q いじめにあっていてつらいです。

A 完全犯罪で相手を殺しましょう。殺すのが一番楽です。

Q 学校ではいじめられ、家ではおやにいろいろ言われます

A 我慢できるなら我慢しましょう。我慢できない人は交番でひたすら泣き叫んでおまわりさんに助けてもらいましょう。交番の前で寝っ転がって手足をばたつかせながら叫び続けます。それでもダメなら布団を敷いて交番の前で泊まり込みましょう。

Q 先輩との関係がむずかしい

A おとなしく先輩の言うことを聞いて子分になりましょう。そもそも運動部は諸悪の根源。野蛮人の巣窟です。

Q 自分の家が貧乏です。

A 日本の貧乏は単なる幻想です。食べ物を買うお金がないならコンビニで並んでいるものをむしゃむしゃ食べましょう。警察に捕まりますが、餓死するよりマシです。

 

 まあ、全般的にこんな感じです。

実際の本ではもっといろいろなことが書いてあるので、興味を持たれた方はぜひお読みください。

気になったらイスラム教に入ってみるのもいいかもしれないですね。

私はとりあえずムスリムになるのはもう少し先延ばししておきますが。

 

後記

久しぶりに『外天楼』を読み直しまして、

 

外天楼 (講談社コミックス)

外天楼 (講談社コミックス)

 

 

1巻完結のマンガっていいなと改めて感じたので、いくつか買ってしまいました。

とくによかったのはこちら。

 

 

すごく簡単にストーリーを説明すると、小学校の男子が同じクラスの家が超貧乏(というより両親が離婚して父親が働かないクズ)な女の子と仲良くなる一夏の恋物語です。

こういう物語って、「主人公が小学生」というのがすごく大事だと思うんですよね。

5年生か6年生くらいがベストじゃないでしょうか。

分別のつく大人に片足踏み込んでいるんだけど、まだまだ子どもで、親の庇護がないとなかなか生きていくのが難しい年代です。

このくらいの子どもたちって、どうしても親に振り回されてしまうんですよね。

大人になると自由になるぶん、なにか圧倒的な理不尽に振り回されるってことはないです。

やはり「いざとなればなんか仕事を見つけて自分で金を稼げる」というのが大きいと思います。

小学生だと働けないので、食べ物を買うお金を自分の努力で手に入れることができない。

だれかにお金をもらわないといけないわけですよね。

このあたりの親の理不尽に振り回され、貧困という状況でちょっとした小銭ですら使うのをためらってしまうような描写は、ヒリヒリさせられます。

似たようなシチュエーションだと映画「誰も知らない」とか、最近だと「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」「天気の子」もそういうシーンありますよね。

 

誰も知らない

誰も知らない

  • 発売日: 2016/05/01
  • メディア: Prime Video
 
打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

  • 発売日: 2018/04/18
  • メディア: Prime Video
 
天気の子

天気の子

  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: Prime Video
 

 

で、主人公の男の子も、女の子が好きになってなんとか彼女を助けてあげたいと考えるのですが、やっぱりそこも小学生ですから、自分じゃほとんどなにもできない。

男の子の場合も、サッカーチームの監督が急にやる気のある若い男性に変わって、それに振り回されてサッカーが嫌いになりかけてしまいます。

徹底的に、大人の身勝手さに翻弄される子どもが描かれているように思います。

そこが本作の魅力でしょうね。

ストーリーそのものにはさほど特出するべきところはありません。

物語の結末も、さほどドラマティックななにかがおこるわけではないです。

まあ、ハッピーエンドはハッピーエンドなので、そこは気持ちよく終わってくれるのはいいところでしょうか。

バッドエンドは胸糞わるいですしね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン著)のレビュー

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言わずとしれたベストセラーですが、Kindle unlimitedで無料になっていたので久しぶりに通読しました。

 

 

とても短いストーリーなので、1時間くらい集中すれば読み終えられるのではないでしょうか。

本書は3部構成になっていて、

「ある集まり」

チーズはどこへ消えた?

「その夜」

から成ります。

 

「ある集まり」はクラス会みたいなもので久しぶりに集まった人たちの会話、そしてそのうちの一人が「チーズはどこへ消えた?」という物語を話し始め、最後にみんなでディスカッションして終わりです。

第1部は導入部分で、メインディッシュは第2部。

第3部はオマケ(というか物語の解説)みたいなもので、個人的には蛇足に感じます。

第2部だけちゃんと読めば十分でしょう。

 

物語の登場人物は4人。

ネズミのスニッフとスカリー、小人のヘムとホーです。

彼らは迷路でチーズを探す毎日を繰り返しています。

やがて、彼らはチーズがたくさんある部屋を見つけてそこに安住するのですが、突然、その部屋からチーズが消えてしまうのです。

スニッフとスカリーはすぐさまその部屋を出て、また迷路をさまよいながら新しいチーズを探し始めます。

しかし、スニッフとスカリーは「なんでチーズはなくなったんだ!?」とうろたえ、「もう少し待っていたらまたこの部屋にチーズが戻ってくるんじゃないか」と考えてとどまるのです。

ただ、ホーはだんだんそれが難しいのではないかと考え、ヘムを残して一人、新たなチーズを求めて旅立つのです。

 

大人だったらまあわかると思いますが、この作品におけるチーズは「お金(安定した収入)」「地位」などのことです。

ネズミたちはあまり深く物事を考えないので、自分たちが好きな「ガリガリかじれる硬いチーズ」を求めています。

しかし小人たちは物事を複雑に考えすぎるきらいがあるので、「この世界のどこかにある<真のチーズ>……それを見つければ幸せになり、成功を味わうことができる」を探しています。

 

この物語が伝えるのは、

「現状維持をやめて、状況の変化に対応し、すぐに行動に移そう」

というメッセージです。

 

物語のネタバレをすると、チーズを探して旅に出たホーは、チーズがたくさんある別の部屋と、そこで先にチーズを堪能していたネズミたちを見つけました。

つまり、いち早く状況の変化を感じてそれに応じた行動をとっていたネズミたちのほうが正解だったわけです。

自己啓発書のなかのフレーズとしてたまに使われる

「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」

という言葉もあります。

これも同じような感じですね。

※ただし調べてみると、この言葉は本当にダーウィンがいったものなのかどうかは眉唾らしいです。

gendai.ismedia.jp

 

まあダーウィンの言葉の真偽はさておき、「変化を恐れずすぐ行動する」のはまあ正しいことだと言われています。

実際、社会的成功を収めたいのであれば、そうしたほうがいいと思います。

 

ただ、私が改めてこの本を読んで感じたのは、じゃあまったく行動を起こさず、変化に対応できないままひもじい思いをしている小人のヘムは能無しのボンクラかというと、そうとも言えないよね、ということなのです。

というよりも、ヘムは「平凡な人」なのです。

ヘムのような行動こそが普通の人たちの取る行動であり、それがスタンダードです。

 

スニッフとスカリーはいわば狂人です。

チーズがなくなるやいなやすかさず迷路に飛び出して行くあてもない冒険に出るのは、阿呆です。

そして、イノベーターや天才と言われる人々はだいたい狂人か阿呆です。

(凡人の目からは狂人か阿呆にしか見えないということです)

たとえばZOZOTOWNの経営から退いて「お金配りおじさん」になり、ツイッターを賑わせている前澤友作さんなんかは私の目から見れば阿呆に写りますが、5年後10年後には「あのときの前澤さんの行動こそが戦略的に正しかったのだ」ということになるのかもしれません。

 

私たちはおそらくスニッフとスカリーにはなれません。

天才や狂人は『チーズはどこへ消えた?』なんて本は読まないし、読んだとしても感銘を受けることはないからです。

そうすると、必然的に私たちが目指すべきもののように思えるのは、最初は元のチーズを諦めきれなかったけど、これまでのチーズに見切りをつけてひとり旅立ったホーのような生き方です。

ただ、これもなかなかしんどそうです。

これは物語の部分で詳細に書かれていることですが、ホーは旅立つ前に不安や恐怖を抱き、それを振り払って孤独に出発します。

迷路に旅立ってからも、自分の行動が正しいのか確信が持てず、仲間だったヘムもいないので寂しく感じます。

彼は一生懸命自分で自分の行動を正当化して、奮い立たせるのです。

しんどそう!

 

自己啓発(とくにアメリカ発祥のもの)は、基本的にホーのような自分で自分の人生を切り開く生き方を推奨します。

でも私は必ずしもすべての人がホーのような生き方をしなくてもいいと思うのです。

私のように怠け者で意思が弱く、視線が低い人間がホーのような生き方こそが正解であると考えると、かえって不幸な結果になるような気がします。

 

最近読んだ本で、まさにそのような考え方を推奨していたのがイスラーム法学者の中田考先生です。

 

みんなちがって、みんなダメ (ワニの本)

みんなちがって、みんなダメ (ワニの本)

 

 

この本のサブタイトルは「身の程を知る劇薬人生論」となっています。

第5章で著者の中田先生と本書の構成を担当したライターの人による質疑応答があるのですが、こんなことが書かれています。

 

先日、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎原作、羽賀翔一漫画)というマンガを読んだのですが、これはダメですねえ。もう、呪縛の書というか、呪いの書ですよね。

(中略)

たとえば、ここ、「自分の考えていること」っていう話で、最初のほうに「自分の生き方を決定できるのは、自分だけだ」とあります。ここからもうダメです。自分の生き方なんて決定できないんでね。それを決定するのは偶然や運ですよ。人は生まれも育ちも、それぞれちがうし、自分の人生を自分で決定できるということ自体がまちがっている。

(中略)

今は、自己啓発的なものが多数派になってしまっている。しかもそれが売れてしまう。それが異常なんです。

(中略)

君たちはどう生きるか』は聞くところでは、小山宙哉の漫画『宇宙兄弟』とかアドラー心理学の解説書としてベストセラーになった『嫌われる勇気』とかを生み出したとても優秀なスタッフが舞台裏で作った本らしいです。みなが潜在的にもっている肥大化した自我を刺激するような話になっている。あなただって宇宙兄弟になれる、という話です。でも、実際はなれません。最初から『ONE PIECE』くらい荒唐無稽ならいいんですが、宇宙兄弟にはなれそうに思えても実際に離れませんからね。そういうことを煽るのが罪深いんです。それより、誰だでも確実にできるのはたい焼きを配ることなんですよ。

 

ということで、ここから中田先生は「たい焼きを配れ論」を展開していきます。

これはなんだか以前にひろゆき氏が提唱した「キモくて金ないおっさんにウサギを配ろう」と似ていますね。

ironna.jp

結局、人間には生まれ育った環境とか性格とか得意なこととかがある程度決まっていて、どうにもならないこともあるように思います。

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せいぜいのところ、ホーを目指していいのは20代までじゃないでしょうか。

もちろん、30歳を過ぎてずっといままでヘムのように生きてきた人がこの本を読んでホーのような人生を目指し、人生が劇的に上向く可能性もゼロではありませんが、大多数の人にとっては不幸の始まりのようにも思います。

自己啓発というのは、基本的には若い人のためにあるものだと思うのです。(ということに自分自身も30歳を超えたことで実感するようになりました)

 

むしろ、ヘムのような生き方をしている人が『チーズはどこへ消えた?』を読んで、自己嫌悪に陥ってしまうリスクもあります。

これは第3部のディスカッションのところで述べられていますが、「この人はヘム」「この人はホー」と明確に線引できるものではありません。

どんな人でも「ヘムな部分」と「ホーな部分」があり、その間をウロウロとさまよいながら毎日を暮らしています。

日によって積極的に変化に挑戦できる日もあるし、そうじゃない日もある。

でも、それが「普通の人」であって、それはそれで別にいいんじゃないかなあと思うのです。

私もこれまで編集者として何冊もホーのような生き方を勧める自己啓発書のようなものを作ってきましたが、自分自身のことを見つめ直しても、つねにホーのような積極的な生き方ができているとも思えません。

このあたりの考えに共感できる人は、諸富祥彦先生の『人生を半分あきらめて生きる』なんかも読んでみるといいでしょう。

 

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

人生を半分あきらめて生きる (幻冬舎新書)

  • 作者:諸富 祥彦
  • 発売日: 2012/05/30
  • メディア: 新書
 

 

後記

映画『来る』を見ました。

 

来る

来る

  • メディア: Prime Video
 

 

原作は当ブログでも紹介した『ぼぎわんが、来る』です。

 

 

原作はメチャクチャ怖かったんですが、映画はそうでもないです。

これはもう監督が『下妻物語』とか『嫌われ松子の一生』の中島哲也さんだからでしょう。

 

映画「下妻物語」

映画「下妻物語」

  • 発売日: 2016/08/31
  • メディア: Prime Video
 
映画「嫌われ松子の一生」

映画「嫌われ松子の一生」

  • 発売日: 2016/11/11
  • メディア: Prime Video
 

 

なので、この映画に関してはホラー映画としてではなく中島哲也監督の映画としてみるのが正しい視聴スタイルなのではないかと思います。

原作では正体不明の怪物「ぼぎわん」の恐怖が余すところなく味わえますが、映画ではそもそも「ぼぎわん」という単語すら出てこないし、その正体も明らかにされません。

どちらかというと、前面に出てくるのは『告白』のような感じで人間の怖さみたいなものです。

ホラー映画が嫌いな私は安心して見れましたが、ホラー映画っぽいものを期待していると肩透かしを食らうかもしれないです。

ただ、妻夫木聡さんはすごい俳優さんですね。

あらためて演技力の高さに感動しました。

妻夫木さんが演じる男はまさにクソな男なんですが、自分で自分のことをクソだと思っていない、正真正銘の気味の悪さを感じさせるクソ男なのです。

妻夫木さんは見ている人に「こいつクソだな」と思わずにはいられない演技をしていて、さすがでした。

そういえば『怒り』という映画ではゲイの役を演じて「妻夫木聡はマジでゲイなのでは?」という噂が流れたようですが、たしかにこの作品の演技もすごかったです。

 

怒り

怒り

  • 発売日: 2017/04/05
  • メディア: Prime Video
 

 

というか、『怒り』はすべての出演者が抜群に演技がうまかった記憶があります。

広瀬すずさんも何気なくすごい演技力の持ち主でしたね。

日本の場合、俳優さんや女優さん(とくにドラマに出演する人)は宣伝のためにバラエティに出てくることが多くて、そのせいで作品を見ていても、登場人物というより「登場人物を演じている○○さん」みたいに見えてしまいます(これは日本の芸能界のよくないところだと思います)。

やっぱり俳優さんや女優さんはあんまりバラエティに出ないほうがいいと思うんだけどなと思うのですが、まあヒットさせるためにはそうも言っていられない事情もあるのでしょう。

 

話が脇道にそれましたが、まあ『来る』は普通の映画でした。

ただ、最後に霊能力者が一同に介してみんなで一斉にお祓いをしたりするのはなかなか笑えます。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。