本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『メインテーマは殺人』(アンソニー・ホロヴィッツ著)のレビュー

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小説を読んでいて「すごいなぁ」と著者の筆力に感嘆することはよくあるのですが、私がとくに感心するのは「イヤなキャラクター」の描き方がうまいときです。

物語の場合、主人公の敵役とは別に、なんだか気に食わない、まじでこんな奴がそばにいたらイライラするな……というキャラクターが出てくるとすごくいいアクセントになりますよね。

ハリー・ポッターシリーズでいうとこのスネイプ先生みたいな感じというと、わかりやすいでしょうか。

料理の味付けにちょっとした苦味があると深みが出るように、嫌なキャラクターがいると物語に奥行きが出てくるように思います。

 

で、今回紹介するこちらの本。

 

ミステリーとしてのクオリティも最高だったのですが、人物の描き方が秀逸でした。

あらすじはこんな感じです。

 

自らの葬儀の手配をしたまさにその日、資産家の老婦人は絞殺された。彼女は、自分が殺されると知っていたのか? 作家のわたし、ホロヴィッツはドラマの脚本執筆で知り合った元刑事ホーソーンから、この奇妙な事件を操作する自分を本にしないかと誘われる……。自らをワトソン役に配した、謎解きの魅力全開の犯人当てミステリ!

 

著者のスティーブン・ホロヴィッツは『カササギ殺人事件』が日本国内のミステリアワードを総なめにした話題作となりました。

こちらも気になって読もうかと思っていたのですが、『カササギ殺人事件』は上下巻なので、とりあえず1冊で完結しているこちらから読んでみようと思った次第です。

 

 

本作はもちろんフィクションですが、著者本人がワトソン役として登場し、この著者が実際に今現在やっていそうな仕事の話を交えながら物語を進めるので、どこからどこまでがリアルで、どこからがフィクションなのかその境界線が最初は曖昧になりがちです。それが著者の狙いでもあります。

 

なにしろ、『タンタンの冒険』の続編映画の脚本を書くことになり、そのためにスティーブン・スピルバーグと話をするというシーンすらあります。

ホロヴィッツが『タンタンの冒険2』にかかわっていたのは事実であったようです。実現はいまのところ、していないようですが。

www.bbc.com

 

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で、探偵役のホーソーン

もともと敏腕の警察官だったのですが、現在は警察の顧問警察として、警察とは別行動でいろいろな事件を捜査している人物です。

ホロヴィッツとはとあるドラマの『インジャスティス 法と正義の間で』で、できるだけ不愉快な刑事役のモデルとして協力してもらったことが縁と語られます。

(このドラマも実在します)

 

まあ、このホーソーンが超絶嫌なやつなわけです。

もちろん、古今東西、名探偵といえば常人離れした感覚の持ち主で、いまでいえば発達障害と言われてしまいそうな人達もいるわけですが、多くの場合、それでも憎めないキャラクターに仕上げられていることが多いなか、このホーソーンはほんとに嫌な奴です。

本作における探偵役なのでずば抜けた観察力と推理力を持っているのですが、とにかく独善的で自己中心的、横暴、そしてこれが極め付きですが、差別的な言動を繰り返します。

たとえば冒頭でのホロヴィッツホーソーンの会話。

そもそも、不可解な事件をホロヴィッツに持ち込んで、それをワトソン役として書き留めて小説として発表し、自分にも分け前をよこせと提案してくるのはホーソーンのほうなのですが、彼は自分のプライベートや過去について語るのは嫌だと断言します。

ちょっと引用しましょう。

 

「どうしてまた、きみの話なんかを読みたがる人間がいると思うんだ?」

「おれは刑事だからな。世の中の人間は、刑事の話を読みたがるもんじゃないか」

「だが、正式な刑事じゃない。きみは首になったんだろう。そもそも、いったいどうして首にされたんだ?」

「その話はしたくないんでね」

「なるほど。だが、きみの話を書くとなったら、それについても話してもらうことになる。きみがどこに住んでいるのか、結婚はしているのか、朝は何を食べたのか、休日は何をしているのか、そんなことも。人々が殺人事件の話を読みたがるのは、こういうことに興味があるからだよ」

「あんたはそう思ってるのか?」

「ああ、そうだ!」

ホーソーンは頭を振った。「おれはそうは思わんね。主題(メインテーマ)となるのは殺人だ。重要なのはそこなんだよ」

 

このあとも紆余曲折あって、結局ホロヴィッツはこの提案を受け入れることになるのですが、ホーソーンはその後もホロヴィッツの書いた文章にケチをつけたりしてきて、なかなかのイヤなやつっぷりを発揮します。

探偵役がイヤなやつ(というか一癖も二癖もある)のはよくありますが、ホームズ役とワトソン役がこんなにもギクシャクした関係で物語が進むパターンもなかなか珍しいんじゃないでしょうか。

 

もちろん本作、ミステリーの部分も一級です。

最初に引用した紹介文でも書かれていますが、本作はトリック云々というよりも、「誰が犯人なのか」を読者が予想しながら読み進めるフーダニットのおもしろさがあります

犯人の意外性もバッチリ。

たいへん、楽しめるミステリーでした。

 

 

後記

先日、最近の売れ筋マンガをまとめたエントリーを書いたのですが、

 

ada-bana.hatenablog.com

 

いくつかのマンガはAmazonで1巻無料だったので読んでみました。

抜群におもしろかったのは「アシガール」ですね。

 

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脚が速いことしか取り柄のない女子高生が弟の発明したマシンに酔って戦国時代にタイムスリップし、そこで出会ったイケメン若君を振り向かせるため、戦で活躍しようとするSFラブコメディです。

とにかく主人公がアホの子すぎて行動に突拍子もないし、弟が逆にハイスペック過ぎて突っ込みどころが満載なのですが、あっさり軽やかなギャグがまんべんなく散りばめられていて、笑いながら読めます。

知らなかったのですが、映像化もされていたみたいですね。

NHKのドラマのようです。

 

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今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『R62号の発明・鉛の卵』のレビュー

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私はたまーに、暇だと土日などに開催されている読書会に参加したりします。

この本は以前(というか数年前)の読書会でだれかが紹介していたのをメモって脳内の「いつか読もうリスト」に入れていたのですが、ふいに思い出したので購入し、読みました。

 

本というのは、どういうタイミングで読むかによって感想が左右される気がします。

よほどの名作なら別ですが、やっぱり気分がいいときに読んだ本は高評価になりやすいし、なにかストレスが溜まっているときに読んだ本は低評価になりやすいような気がします。

これは人間であれば仕方がないことですね。

 

私は読んだ本をとりあえず読書メーターに記録して、それからしばらく時間をおいてから、ブログにレビューを書きます。

不思議なことに、ブログを書くためにパラパラとめくっていたりすると、読み終えた直後とは違う感想が湧いてきたりするものです。

よくあるのは、「読んだ直後はクソおもしろかったのでブログでガッツリレビューを書こうと思ったけど、いざ書き始めたら意外と書くことがなかった」というパターンですね。

このパターンで、ずっと下書きのままになっているブログ記事がけっこうあります。

念のために下書きは残していますが、おそらくこの下書きたちが清書されて公開されることはないでしょう。

 

さて今回紹介するこちらの本ですが、

 

R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)

R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)

 

 

この本を読む直前、私は高橋源一郎氏の『ジョン・レノン対火星人』を読んでいました(「読んでいた」というか、まったくわからないままページをめくっていました)。

 

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

 

 

ジョン・レノン対火星人』はまったくもって支離滅裂で、意味がわかなかったのですが、とにかく私のなかで比較対象となったのが直近の『ジョン・レノン対火星人』だったわけです

そのため、「あれと比べればメチャクチャわかりやすい作品だ!」と『R62号の発明』を読んだ直後は思ったものですが、さてこの記事を書くためにもういちどサラッと読み返してみると、意味がわかるようでわからん作品ばかりだったのでどうしようかと思っています。

 

安部公房と言えば、読書家の方なら名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。

代表作は『砂の女』です。

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

砂の女』はあらすじを説明すると

とある男が砂だらけ村にあるの穴の中に、閉じ込められ、そこに一人で暮らしていた女と一緒に生活せざるを得なくなり、男はなんとか脱出して逃げ出そうと試みるのですが、それができないことを悟り、女との間に子どもができて、逃げ出そうという気持ちがなくなってしまいましたとさ

という物語です。

高校生の時に読んだ記憶があります。

 

当時はなんかよくわからん話だなあと思いましたが、この年齢になってもう一度読んでみたら、なにかまた新しい感想が思い浮かぶかもしれません。そのうち読んでみようかなと考えています。

 

話をもとに戻しましょう。

読書会で『R62合の発明・鉛の卵』を紹介されたとき、私が興味を惹かれたのは表題作の片割れである『鉛の卵』でした。

んで、実際に読んでみて、最後に収録されている『鉛の卵』は傑作でした。

『鉛の卵』はこういう物語です。

 

80万年後の世界で、炭鉱から「鉛の卵」が発見される。クラレント式恒久冬眠箱と書かれたその箱は、選ばれた学者をコールドスリープ状態にして未来に送るものだったのだが、何かの手違いで惹かれる予定を大幅に超えてしまったようだった。

目が冷めた男は緑色の肌をした人間たちに驚く。人間は体に葉緑素を取り込み、食べ物を摂取することなく、奴隷族たちに労働をさせて自分たちは遊び呆けるという暮らしをしていたのだ。彼らの社会に驚く男だったが、やがて空腹になり、食事がしたいとお願いした。その瞬間、有効的だった彼らは「食事という下品な行為」をしなくてはならない男を奴隷たちの世界に追放することに決めたのだった……

 

砂の女』とはうってかわって、バリバリSFですね。

星新一ショートショートに近いような作風でした(星新一よりはちょっとアンニュイで退廃的な雰囲気が全体的にありますが)。

このあとはネタバレになるので、結末はぜひ読んでみてください。

 

残りの収録作品も、簡単に紹介しておきましょう。

 

『R62号の発明』

自殺しようとした男が謎の男に誘われ、人体改造を受けてロボットにされてしまうという物語です。

けっこうグロいです。

ただ、最後の最後がなにがいいたかったのか、よくわかりませんでした。

これは、執筆された昭和28年当時のロボティクスのイメージと重ね合わせないとよく理解できないのかもしれませn。

 

『パニック』

失業した男がパニック商事の求人係を名乗る男・Kから「働かないか」と誘いを受ける。しかしその晩、しこたま酒を飲んで意識を失ったあと、Kは殺されていた。怖くなった男は逃走を試みるという話です。

こちらはまあまあオチがわかりやすいですね。

いろいろブラックな物語です。

 

『犬』

美術系の研究所?に勤めている男が犬を買っている女性と結婚するのだけど、その犬が不気味すぎるという物語です。

男の屈折した感情も不思議なのですが、本当の不思議は物語の終盤あたりから一気に始まります。

不条理です。でも、なんとなく意味はわかります。

 

『変形の記録』

戦争のさなか、トラックに轢き殺されて魂のみの存在になった男が「魂視点」から兵隊たちの行動を描写するという物語。

やがて少尉も死んで魂の存在になり、主人公には連れができます。

これは殺伐としているのに、どこかユーモラスで笑けてしまうような物語ですね。

 

『死んだ娘が歌った……』

金のない両親により、工場勤めから売春宿に売られた女の子が自殺して魂だけの存在になり、自分の境遇を振り返るという物語。

シチュエーション的には『変形の記録』と似てますが、こちらのほうは夢野久作的な雰囲気がありますね。ギャグもありません

 

『盲腸』

ある新学説の研究の一環として、自分の盲腸に羊の盲腸を移植された男の物語です。

『R62号の発明』のように、体を改造されたことで精神的にも変調をきたした男の物語なのですが、こちらは肉体的にはもとに戻ります。

ただ、メンタル面は不可逆的なもののようです。

 

『棒』

子守の最中、デパートの屋上から墜落した男が墜落した途中で一本の棒になって地面に突き刺さり、学校の先生風の男と生徒に拾われていろいろ分析されるという不条理な物語です。

本書の物語は全体的に、人間がロボットになったり霊になったりヤギの盲腸を取り付けられたりと、人間から変質させられることにより、人間という存在を客観視しているようです。

 

『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』

くらいの高い人間だけが人間の肉を食べることを許された社会で、人肉食反対を訴える人々と貴族的な階級のひとたちの話し合いの様子を描いた物語。

最初っから最後まで噛み合わない話し合いはなんともブラック味あふれますね。

本書のなかではかなりわかりやすい話です。

 

『鍵』

食を世話してもらおうと叔父を頼ってきた主人公だったが、鍵の研究をしている叔父はひねくれた性格の持ち主で、重要な発明をしているために家に閉じこもり、真実を見抜く力を見抜く娘で主人公を尋問する。会社の人間によると、叔父はあらゆる鍵を開ける万能鍵を開発したらしい……と言う物語。

物語の構造自体はそんなに複雑じゃないけれど、これもいまいち何を言いたかったのかよくわからない作品だった。

 

 『耳の値段』

理由もわからないまま警察に捕まって勾留された、学費の支払いが滞っている大学生が、ひょんなことから知り合った学友とともに六法全書と耳を頼りになんとか金を稼ごうと悪戦苦闘する物語。

わかるようなわからんような、シュールでちょっと笑える感じの物語。

 

『鏡と呼子

とある田舎の学校に赴任してきた教師が住まわせてもらうことになった家の人物は、望遠鏡で毎日村人たちの行動を観察することだった。閉塞感のある村の生活のなかで、教師は改革者としての役割を期待されるが……。

いま改めて読み直してみると、これが一番『砂の女』と構造的に似ているかも知れないですね。

わかりにくいけど。

 

 

総括になりますが、全体として、やっぱりけっこう読みづらいです。

いわゆる不条理文学系で、時系列と言うか、話の流れがつかみにくい構造のものが多いので、けっこう丹念に読んでいかないと状況がまったく理解できなくなります。

そういうのを楽しむ心の余裕があるときに読んだほうがいいかもしれないですね。

 

R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)

R62号の発明・鉛の卵 (新潮文庫)

 

 

 

後記

先日、「コロナでヒマすぎるからオススメの小説を教えてくれ」と請われ、短編集やら長編やらいろいろ勧めたのですが、彼いわく、「短編小説は読みにくい」ということを言われました。

これは私にとってちょっと不思議なことでした。

私なんかの感覚だと、短編集ですぐに読み終えられる話のほうが、普段あまり本を読まない人にはいいのではないかと考えたのです。

しかし、これは間違いでした。

それは「没入感」というキーワードで理解できました。

 

ビジネス書などでも最近はストーリー形式にしたものが増えています。

そのほうが話がわかりやすくなるだろうという狙いもあるのですが、しかし、一概にそうとも言い切れません。

たとえば最近私が購入したこちらの本ですが、

 

脳が老いない世界一シンプルな方法

脳が老いない世界一シンプルな方法

  • 作者:久賀谷 亮
  • 発売日: 2018/09/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

こんな装丁のくせに中身は結構ガッツリした小説スタイルで、びっくりしました。

というか、「そういう心づもり」で読もうとしていなかったので、いきなり物語が始まってしまったことで脳が拒絶反応を起こしてしまい、いまだに全然読み進められていないのです。

 

そうなのです。

小説といわゆるビジネス書とかノンフィクション系の本では、読むにあたって読者に求められる姿勢が変わってくると思うんですよね。

そして小説というのは、最初にのめり込むハードルがノンフィクション系よりも高い気がします。

ビジネス書は最初から読者のために読みやすく書かれていることが多いですが、小説の場合は、演出や世界観を重視するがために、ちょっと不親切なことも多いからです。

しかしその分、いったん物語の前提条件や大まかな話の流れが把握できれば、小説のほうがぐっとページを早く読み進められることもあります。

この「没入感は強いが、入りにくい」というのが、小説のメリットであり、デメリットである部分でもあると思います。

 

それでいうと短編集というのは、たしかに一つ一つの話は短いかもしれないけど、それぞれ関連性のない、独立した別個の世界の物語であるわけですが、読み始めるごとに、その物語がどういう世界なのか、どういう主人公なのかなどを読者は探りながら読み進めなければなりません。

それは、小説を読み慣れている人にとってはそんなに労しないことなのですが、小説を読むことになれていない人にとってはしんどいことなのです。

逆に長編小説の場合、たしかに最後まで読むのに時間はかかるかもしれないけど、ずっと同じ流れで物語が進んでいくわけですから、一度状況を把握できさえすれば、最後まで読み進めるのは、短編集よりも心理的に楽な側面が大きいと言えるのです。

これこそ、友人が「短編小説は読みにくい」といった原因だと思います。

ひとつ勉強になりました。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『知的生活の方法』(渡部昇一・著)のレビュー

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私の家には小さい本棚しかなくて、せいぜい100冊くらいしか収納できません。

ですので、必然的に溢れてしまった本は本棚の上に横に積んでおいたり、ダンボールに入れてしまっておいたりします。

たまに整理して、いらない本は処分したり、実家にお繰り返したりしています。

たなにきちんと刺されている本は、いわば私の「一軍の本」ともいえますね。

 

コロナの時期に暇だったので、そうした本の整理をしていたのですが、本を作る立場の編集者として思うのは、「棚に置かれ続ける本を作りたいな」ということでした。

最近はいらない本はブックオフに持っていくよりもメルカリに出品します。

メルカリでは、新しい本もたくさん出品されています。

ゲームソフトなどもそうですが、「新品で定価で手に入れる→さっさと読んで価値が落ちないうちにメルカリで売る」というサイクルを持っている人も多いんじゃないでしょうか。

私はそれが悪いとは思いません。

世の中には「そういう作り方」をしている本もたくさんあるからです。

一度読んだら、もう二度目は読まないなという本です。

 

先日、とある実用書系の編集者の方の話を聞いていて、「本をつくるときは『効果』と『効用』を考える」と述べていました。

ビジネス書や実用書は、何かしら悩みや問題を抱えている人が、それを解決・緩和するために読むものですから、そういう考え方、作り方は至極まっとうだし、読者のことをしっかり考えてつくっているということです。

これは薬に似ていますよね。

頭痛止めは頭が痛い人が飲むと痛みが楽になるものだし、湿布は肩こりや腰痛で苦しい人が楽になるものです。

ただ、本を薬のようなもの……つまり問題解決の手段としてとらえると、いつまでも本棚に置かれる本にはなりにくいような気がするのです。

たしか伊集院静さんの言葉だったかと思いますが「すぐ役立つものはすぐに役に立たなくなる。」というのも言われています。

(ここで間違えてはいけないのは、「だからといってすぐ役立つものはいらない」というわけではないことです。どうしても頭がいたいときにすぐ痛みを鎮めてくれる頭痛止めは本当に助かるものですしね)

 

今回紹介する本は、その意味では「すぐ役立たない本」といえるかもしれません。

 

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)

 

  

本書は1976年に刊行され、118万部のベストセラーになった本です。

ちなみに、昔の本なので仕方ないですが、かなり本文の級数(文字の大きさ)が小さいです。

老眼の方は紙の本より電子書籍のほうが読みやすいかもしれませんね。

 

「知的生活」というのは、じつは本書の中で厳密に定義されているわけではありませんが、本書自体はP・G・ハマトンの『知的生活』にならい、著者の体験をベースに読書を日常生活の一部にするための手法についてまとめられた一冊です。

 

知的生活 (講談社学術文庫)
 

 

まあ今風に言えば「読書術」の本だと考えてもらえばいいでしょう。

本とどのように向き合うべきか、そのことについて書かれています。

そしてその内容のほとんどが、50年以上前に刊行されたとは思えないほど、現代にも当てはまるアドバイスばかりで、腑に落ちるものばかりです。

これは本棚につねに置いておきたい一冊ですね。

ここでは、その一部を紹介していきます。

 

勉強を手段にしてはいけない

いま、子供のときから受験、受験でむずかしい大学に入っても、目標がなくなったら、パッタリと勉強をやめる人が多くなるのではないか、と危ぶまれるものである。

(中略)

昔から日本人は学校を出ると本を読まないが、それに反して外国人はガリ勉はしないが、大人になっても本を読みつづける、といわれてきたものである。どうも残念ながらこれは相当程度ほんとうらしいのだ。

これは読書でもそうですね。

なにか目的を持って本を読み、知識を得るのも悪くはないですが、特に目的もなく、学ぶことそのものを楽しみにして本を読んだほうが良いようには思います。

 

わからないことは「わからない」と言いなさい

大学に入って最初の夏休みに、漱石の『草枕』を読みはじめた。たいして厚い本ではないからすぐ読み終えることができるはずであったが、ついに読み通さないでやめてしまった。『草枕』のような薄い本さえ通読できなかったのだから、ほかの長い小説に手を出すわけはない。その後、何度か『草枕』に手を出したが、そのつど、数ページを読んでやめている。私は漱石の小説も小説だと考えていた。小説は次のページをめくるのが待ちきれないほどおもしろいはずだ、ということを少年講談や捕物帖から知っていたので、僧籍を読むために「意志」を使わなかった。「意志」で本を読むのは、「学問の本」だけで十分だ、と思っていたのである。

その後、渡部先生は教育実習で神楽坂の高校に通うことになり、古い東京の町並みに親近感を覚えるようになります。

漱石は東京生まれの東京育ちのインテリです。

つまり、渡部先生は自分がそのような境遇に近づいてきたことで、ようやく漱石の登場人物たちの言うことのおもしろさがわかるようになり、漱石の本を楽しんで読めるようになったということなのです。

ちなみに私は未だに村上春樹のおもしろさがよくわかっていません。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんかは何回かチャレンジしているのですが、いまだに最後まで読みきれずに終わっています。

かつて一冊だけ読み切った『海辺のカフカ』も、けっきょくよくわからんかったです。

 

本は読むのに適したタイミングがありますし、その人にあったレベルのものがあると思います。

それがマッチしてないと、読んでいて楽しくないと思うのです。

わかっていないことをわかったふりをしたりしていると、結局、読書が楽しくなくなってしまうということなんですね。

 

同じ本を繰り返し読む

渡部先生は幼少時代、家に遊びに来た友人に本を貸すとき、驚いたことがあると言います。

とある友人が本を見て、次のように言ったのです。

「これはもう前に読んだことが会ったような気もするし、まだ読んだことがないような気もするし……」

 

これを聞いて私はほんとうにびっくりした。

(中略)

なぜ私がそんなに驚いたかというと、一度読んだかどうかよくわからない『少年倶楽部』を、ひょっとしたら読んだことがあるかも知れないという怖れから、すぐ借りないと言うが、どうしても不可解だったからである。

(中略)

一度読んだ本を読み返すのは、そんなに損することなのだろうか。そのときにはじめて、自分と違う読み方のあることを眼のあたりに見た気がしたのである。

それまでの私にとって、本は繰りかえして読むものだということは、ご飯は噛んで食べるものだというくらい当然のこと、自明のことだったのである。

 

これは私もあまり同じ本を繰り返して読まないタイプなので恥ずかしいんですが、読書家であればあるほど、「どれだけたくさんの種類の本を読んだか」というのを意識しすぎてしまうことがあると思います。

私もやっぱり、読書メーターで先月の読書量をまとめたりすると、「先月はたくさん読んだな」という満足感を得てしまったりするわけです。

あと10~20代くらいの若い人だと「年間○冊読みます」などというのをSNSの自己紹介のところに書いてあることがあったりしますね。

 

たくさんの種類の本を読むのが悪いわけじゃないです。

外山滋比古先生も、乱読の重要性については主張してますしね。

 

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

 

ただ、手段が目的化するのはやっぱり良くないし、メルカリで売りたいからと新品の本を早く読み終わってサクッと出品してしまうのはどうなんだろうかと。

渡部先生は「精読重視派」なのです。

 

本は買って、手元においておきなさい

「蔵書」のことを英語でライブラリイ、ドイツ語とフランス語でビブリオテークと言う。しかしライブラリイにもビブリオテークにも同時に「図書館」あるいは「書斎」という意味がある。個人の「蔵書(ライブラリイ)」はいくら小さくても、その人の「図書館(ライブラリイ)」なのである。六畳一間の下宿生活でも、その三方に身銭を切って集めた本があれば、それはライブラリイであると観ずべきである。

(中略)

現代のように本に多い時代に生きながらも、「読んでよかったなあ」とほんとうに思える本にめぐり会うことはめったにない。そういうことがあれば、まったく天の祝福である。ところが本というのは読んでみないことにはそういう体験を味わえるかどうかわからないのだ。それを予知するカンを養う一番よい方法は、何と言っても、「読んでよかったなあ」と本当に自分が思った本を自分の周囲に置くこと、そして時々、それを取り出してパラパラ読み返すことなのである。その修練ができておれば、書店で立ち読みしただけで、ピーンと来るようになる。

 

個人的には、何でもかんでも書店で新品で買っているとお金が足りなくなってしまうので、まずは図書館で借りればいいと思ってます。

ただ、私の場合、図書館で借りた本でも「まじでこれはいい」という本は大体、そのあと購入したりします。

あと、電子書籍で買っていた本でも、そのあとやっぱり紙の本で買うことも。

ふと本棚を眺めてパラパラ読むという意味では、やはり紙の本が良いんじゃないかなと。

 

こんな感じで、『知的生活の方法』という本は、生涯を楽しく学び続けるための考え方が詰め込まれている一冊です。

ここでは省いていますが、なによりも著者の渡部先生の経験談が抜群におもしろいし、やはり頭がいい人なので、文章が非情に読みやすいんですよね。

たぶんこれは数年おきに読み返す本になると思います。

 

後記

私は読みたいなーという本が見つかった場合、とりあえずAmazonのほしいものリストに打ち込んで時々チェックし、気まぐれで購入したりするのですが、なぜか高橋源一郎さんの『ジョン・レノン対火星人』が入っていて読んでみたのですが、サッパリ意味がわかりませんでした。

 

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

 

 

私にはまだレベルが高すぎる本だったようです。

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

 

『コンサル一年目が学ぶこと』のレビューなのか

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「知っている」と「理解している」ことは別物であるというのは、聞いたことがある人が多いと思います。

「理解している」を「腹落ちする」に変換してもいいかもしれません。

つまり、実感を持って納得できたかどうか、ということです。

 

今回紹介するこの本は、じつはそんなにすごくいい本というわけではありません。

コンサル一年目が学ぶこと

コンサル一年目が学ぶこと

  • 作者:大石 哲之
  • 発売日: 2014/07/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

もちろん、悪い本ではありません。

マッキンゼーとかBCG(ボストン・コンサルティング・グループ)などのコンサルタントというのは新人でも高給取りとされていて、「考えるプロ」「問題解決のプロ」だと認識されています。

そうしたコンサル会社に入った人が、どうやって「考え方の考え方」を学ぶのかということを、サックリわかりやすく説明してくれる本です。

 

本書で私が好意的に受け止めたのは、問題解決のための基礎の基礎とも言える「ロジックツリー」の部分で、次のような非常に率直な書き方をしているところです。

 

わたしはロジカルシンキングの本も書いているので、こういうことを言うのは憚られますが、読者のみなさんのために、最後に、正直に書いておこうと思います。

課題を漏れなく、ダブりなく分解したり、意味のあるロジックツリーをつくるには、適切な指導者が必要です。勉強会などで、若手社会人同士でロジックツリーのトレーニングをし合っている場面を見ることがありますが、あまり成果が上がっているようには見えません。

この手のトレーニングの問題は、ロジックをつくっている張本人は、自分で間違いに気づくことができないことです。結局、ツリーの問題点や論理のミスは、すでにそれができるようになっている人が指摘してあげないと、何がどう間違っているのかがわかりません。

「ロジックツリーをつくる練習をする際の注意点」を、ロジックツリーを使って論理的に整理してみると、「自分一人のトレーニングには限界がある」というところがもっともクリティカル(重大)な論点になってしまうのです。これは、大きな矛盾です。

 

この部分、はっきり言えば「それを言っちゃおしまい」な文章なのですが、要するに、この本を読んでロジックツリーについて「知る」ことができても、それを正しく実践して成果を上げることはできないんですよ、とぶっちゃけてしまっているわけですね。

でもこれは誠実な書き方だと思います。

そんなこと、教えてくれない本のほうが圧倒的に多いわけですから。

 

ただ、じゃあ「考え方の考え方」「問題解決能力」を高めるためにこの本がおすすめできるかと言うと、そうでもないのが悩ましいところです。

コンサルティング会社の人が書いた本なんて星の数ほどあって、そのなかで敢えてこの本を選ぶ理由が、とくにないんですよね(非情な言い方ですが)。

幸いというか、本書はKindle Unlimitedの対象作品なので、会員の方は無料で読むことができます。

もしKindle Unlimited会員なら読んでも時間の無駄になることはないでしょう。

(ちなみに、私はライトなビジネス書の場合は極力時間を書けないで読むように意識しています。具体的には1冊に1時間以上かけないようにしています)

 

で、ここからが本題。

私がこの本を読んで、すごく腹落ちしたことが1つあります。

それが「雲・雨・傘提案」です。

これはロジカルシンキング系の本であれば頻繁に出てくる考え方なので、知っている人も多いと思います。

私も、本書を読む前からたびたび別の本などでこの考え方は読んだことがあり、知識としては備わっていました。

 

この「雲・雨・傘提案」というのは、どういうことかとういと、「事実・解釈・アクション」の区別をして、それをセットにして話をしましょう、ということです。

 

「空を見ると、雲が出ている」(事実)

「曇っているから、雨が降りそうだ」(解釈)

「雨が振りそうだから、傘を持っていこう」(アクション)

 

考え方としては非常にシンプルですよね。

ただ、私は本書を読んでこの箇所を読んだとき、なぜかはまったくわからないのですが、すごく腹落ちした感触があったのです。

別に、本書での書き方が特別優れていたというわけではありません。

ただ、知識として保有していたこの「雲・雨・傘提案」をいま、この年齢になって改めて読んでみると、この考え方の意味するところがやっとわかったという感覚です。

 

私が腹落ちした結果として感じたのは

結局、すべては「事実」がベースにないといけない

ということです。

こうやって文章にすると呆れるくらい当たり前のことなんですが、じつはこれができていない人はすごく多いんじゃないかと思うのです。

 

この「事実」の重要性を認識したとき、私のなかでピコンと浮かんだのが「考える=調べる(事実集め)」という図式です。

結局のところ、「考えが足りない」というのは「調べ(事実)が足りない」ということなのではないか、という発想が思い浮かんだのです。

別の言い方をすれば「インプット不足」ですね。

これは人によると思うのですが、たとえば私は書籍の企画を考えるとき、わりと「思いつき」が出発点となることが多いです。

つまり、「帰納法」が思考の癖としてあるということですね。

そのため、思いつき(=仮説)が正しいかどうかを、そのあとに事実集めをして補強していくことになります。

 

「雲・雨・傘提案」でいうと、渡しの場合、「傘を持っていく」というアクションをまず先に思いついてしまうので、そのあとで「傘を持っていくべき理由」を考える感じです。

「傘を持っていくべきです」と提案してそれを相手(上司や著者など)に受け入れてもらうためには、理屈(解釈)をつけないといけません。

その理屈のベースになるものこそが「事実」なのです。

……と文章で書くとやっぱり当たり前過ぎてアホらしくなる自分もいるのですが、自分の思考の道筋が可視化されたのは大きな収穫でした。

 

難しいのは、だからといってこの本を読んだ人が私と同じような収穫を得られるかどうかはわからないところなんですよね。

たとえば、そもそも「雲・雨・傘提案」のことを知らなかった人が本書を読んで初めて知ったとしても、私のような気づきは得られないと思います。

また、そもそも帰納法的な考え方ではなく、演繹的に物事を考える癖のある人も同様です。

 

ここが本の良し悪しを判断する上での難しいポイントで、本の価値は結局のところ、読者次第だということです。

よく、ベストセラーのAmazonレビューを見ると「当たり前のことしか書かれていない」などという意見が散見されますが、この「当たり前」というのは主観に基づいたもので、なにを「当たり前」と感じるかは人それぞれです。

 

私は編集者として本をつくる側の人間ですが、実用書の編集者の仕事の大きな部分というのは、この「読者のレベルのチューニング」にあるのかもしれません。

この本を読んでほしい読者のレベルを考え、「未知の情報」と「既知の情報」をふるいにかけて、なにをどのくらい説明するかを調整するわけです。

ベストセラーとなる実用書は、そのレベルのチューニングが絶妙です。

つまり、本の中身が、世の中の大多数の人々の知識レベル±αの範囲にうまいこと収まっているわけです。

(そしてベストセラーは本をよく読む人からすれば少し「低いレベル」に設定されていることが多いから、上記のようなレビューが多く見られるのではないかと)

この「世の中の大多数人の知識レベル」を推し量るために必要なものも、また事実をベースにした解釈となります。

 

いろいろな方面に話を広げて書きなぐりましたが、コンサルにしろ編集にしろ、それ以外のすべての職業でも、仕事の本質はきっと「考えること」にあるのでしょう。

AIやロボティクスの普及で人間が単純作業をやることの価値がゼロになるだろう現代において、付加価値を生み出すのは「考えること」なのです。

別に読むのはこの本じゃなくてもいいですが、「考え方の考え方」については、どんな人でも読んでおいて損ではないのではないかと感じました。

 

後記

Netflixに再加入して「攻殻機動隊SAC 2045」を観ました。

www.ghostintheshell-sac2045.jp

 

今回はタイトルの通り2045年が舞台で、世界同時デフォルトを経て「サステナブル・ウォー」という名称で、計画的な戦争が産業として認められている世界で、「ポスト・ヒューマン」という”新人類”が登場するという物語です。

ポスト・ヒューマンといえば、シンギュラリティの大家であるレイ・カーツワイルの著作が有名ですね。

 

 

人工知能が人間を超越するシンギュラリティの予感もある現代において、取り上げられるべくして取り上げられたテーマなのかもしれません。

とりあえず現在視聴できるところまでは視聴しましたが、すごく途中で終わってしまいます。

なので、一回解約しました。

興味がある人は、全話公開されてから登録して視聴したほうがいいかもしれませんね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『日本人の勝算』(デービッド・アトキンソン著)のレビュー

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仕事の忙しさがかなり軽減されてきているので、読書ペースが加速している今日このごろです。

Kindle Unlimitedもラインナップがけっこう変わっていたので、ガンガン読み進めています。

で、今回紹介するのはこちら。

 

 

著者のデービッド・アトキンソン氏は、すごく簡単に説明すると「日本が大好きなイギリス人経営者」です。

とはいっても只者ではなく、ゴールドマン・サックスのアナリストとして働いていたときにバブル崩壊直前の日本の不良債権を指摘し、著書『新・観光立国論』で第24回山本七平賞を受賞した人です。

 

 

本書では人口が減少し、高齢化が進み、歪んだ資本主義が蔓延してお先真っ暗な日本という国が蘇るための処方箋が主張されています。

 

その方法をすごくざっくりと説明すると、次のとおりです。

 

・日本の真の問題は「生産性が低いこと」である

・日本の生産性が低いのは労働者の質が悪いからではなく、無駄に中小零細企業が多すぎることにある

・本当は必要ない中小零細企業を強制的に減らし、統廃合を進めるためには最低賃金の引き上げを行えばいい

 

労働生産性が低いというのは、要するに「コスパが悪い」ということです。

ワーキングプアという言葉もありますが、そこまでの貧困層でなくても、日本では長時間労働してもそれに見合った給料が得られません。

日本のGDPはいまのところアメリカ・中国につぐ世界第3位となっていますが、なぜかというと、それは人口が多いからです。

つまり、これから人口が減っていく日本では、労働生産性を上げない限り、GDPも右肩下がりにならざるを得ないということですね。

 

ちなみに、GDPが減ってもいいじゃないかという意見に対し、著者は「NO」と言います。

というのも、人口が減っても高齢者など社会でお世話をしなきゃいけない人の割合が増えるから、生産性が低いままだと現役世代はドンドン貧乏になっていかなきゃいけなくなるから、というわけです。

日本がダメなのは、人口が減少しているにも関わらず、いまだに「人口が増加すると成功するモデル」のままの政策を進めているためです。

 

じゃあなんで、日本は生産性が低いのか。

日本人の労働者はアタマが悪いのか、それともとんでもない怠け者なのか。

そうではなく、著者は「企業の数が多すぎるのが問題」だと述べます。

OECDの統計によると、欧州各国に対して、日本では「250人以上の会社で働く人の割合」が低いことがわかります。

つまり、中小零細企業で働いている人が多いことが、生産性を低くしているということです。

 

大きな企業でまとまったお金がないと大規模な設備投資ができないし、新しいことに挑戦しにくい。

それに、大企業でないと福利厚生も整えられないから、育休や産休などが取りづらく、女性が働きにくい環境を作る要因になります。

それに、小さな企業が多すぎると、革新的な技術や新しい取り組みが普及しづらいということもあります。

会社が沢山あれば、それぞれ個別に人材の採用や育成なども行わなければならないので、それも非効率的です。

人口が増加しているフェーズであれば、働き口を多くする意味でも会社が増えることは歓迎するべきことだったかもしれないけど、人口が減少している現代において、会社の数が多すぎることはデメリットのほうが大きいということです。

実際、銀行や石油業界などでは大小たくさんあった会社の統廃合がドンドン進み、整理されました。

 

じゃあどうすれば企業数を減らせるのかというと、そのためには「最低賃金の引き上げ」が効果的だといいます。

人を雇うコスト(人件費)が高くなると、人件費を安く抑えてやりくりしていた会社はやっていけなくなるので、生産性を向上させたり、他者と統合するインセンティブになるということです。

日本で最低賃金がなかなか引き上げられない要因として、著者は「最低賃金厚生労働省の管轄に置かれていること」と述べています。

もうひとつは、経営者の欲が少ないこと、も上げています。

 

先日、経済産業省で打ち合わせをしていたときに聞いた話です。経産省の調査では、ラーメン屋さんの社長の場合、人気が出ても3~5軒の店を展開したら、それ以上店を増やそうとしない人が多いのだそうです。

3~5店も店があれば、社長はベンツに乗れて、六本木で好きなように遊べる収入がとれるから、それ以上に店を増やそうという意欲がなくなるのだそうです。まぁ、欲がないといえば、欲がないのでしょう。

そこで最低賃金を引き上げてみます。ラーメン屋で働いている社員の給料が上がります。ラーメンの価格を上げて、転嫁することができないのであれば、利益が減ります。社長はベンツに乗り続けられなくなります。そうすると、ベンツに乗り続けるために、さらに店舗を増やそうという意欲が生まれ、生産性を上げる動機も湧いてきます。

要は、こういうある意味自己中心的で欲の足りない社長も、最低賃金を引き上げることで追い込めばいいのです。このような社長は、追い込まれたら雇う人を減らすのではという声が聞こえてきそうです。しかし日本の人手不足は、今後ますます深刻になります。大きな問題になるとは考えづらいのです。

 

私はこれまでずっと会社員として働いてきて思うのは、結局、会社はオーナーのものであるんだなぁということです。

お金を稼ごう系の自己啓発書ではよく言われることですが、大金を稼ぎたいのであれば、サラリーマン(労働者)から経営者(資本家)に変わるしかありません。

 サラリーマンのままお金持ちになることのほうがよほど難しいということです。

会社員というのは結局のところ、資本家(会社のオーナー)がお金を稼ぐお手伝いをしている人に過ぎないわけです。

つまり、資本家のおこぼれをもらっているような感じですね。

もちろん、資本家になるということは事業が失敗したときのリスクを負うということですから、そうしたリスクを追い求めたリターンとして富を得やすいという意味では、公平であると言えるのかもしれません。

 

私が本書を読んで思ったのは、「やっぱり出版社の数は多すぎるんじゃないか」ということでした。

私が属している出版業界が全体として右肩下がりなのはよく知られていることですが、それに反して業界全体の刊行点数は増加し続けています。

これはなんでかというと、本が売れなくなってきているから、その分だけたくさん新刊を出して間に合わせようとしているからですね。

日本の出版業界のお金の流れはちょっと独特で、出版社は新刊を出すと、それが売れようが売れまいが、部数などに応じて売上が立つような仕組みになっています。

だから、売れない本であっても「出すこと」に意味があったりするわけです。

 

コロナ騒動でちょっと仕事の忙しさがマシになり、新しい企画を考えながらいろいろ本を読み漁っていて改めて思うことなのですが、やっぱり現状、本が多すぎます。

私は基本的に、「いい本も悪い本も世の中にはない」というスタンスですが、それにつけても、「別に世の中に出さなくても誰も困らないだろう本」というのもけっこうな割合で存在するわけです。

つくっている編集者の側も、それを薄々感じてはいながらも、会社としての売上を建てるためになんとか企画をひねり出し、目新しい感じに見せて新刊を送り出しています。

そういう本にかける労力や情熱は必然的に低くなるのですが、それでもやっぱり一冊の本をつくるためには煩雑な作業や時間が必要なので、労働時間が増えます。

そういうのが、生産性を落とす原因となるわけですね。

もちろん、本の種類が多くなっても、書店の数は減っているわけですから、棚の奪い合いは苛烈さを増し、本来であればもっとじっくり老いてもらえれば売れたかもしれない本が埋もれ、返品されることも多いでしょう。

 

じゃあなんで本が多いのかと言うと、これもやっぱり、中小零細の出版社があまりにも多いことが原因ではないかと。

ある意味、私が健全な出版社の在り方だと思うのは、じつは「潮出版社創価学会系列の出版社です)」「幸福の科学出版」だったりします。

これら会社が出すのは、当たり前ですが、教祖やその宗教の教えを伝えるための本ばかりで、それを否定するような本は絶対に出しません。

内容の是非は脇においておくとしても、出版社としての存在意義、ポリシーがすごく明確で、それは他の出版社ではなかなか出しにくいものであるわけです。

あるいは、一般人が見向きもしない法律系の専門書とか、学習参考書、すごくニッチな学術書などだけを出している専門処刑の出版社もそうでしょう。

つまり、どんな本を、どんな人に向けて、なぜ世の中に出すのかが明確なんですよね。

 

しかし世の中の多くの中小零細出版社は、そういうポリシーがとくにありません。

もちろん、どの会社も創業したときにはなにかしら目的が会ったと思うのですが、意外ともともといた会社と喧嘩別れした編集者が、「自分で会社作って好きな本出してやるわい」みたいなノリでできていることも多いのです。

それに、規模が少し大きくなったりすると、そうした新たな従業員を食わせるためにいろいろな本を出す必要だって出てきます。

そうなると、文芸だろうが健康本だろうが、とりあえず売れそうならOKみたいな基準になってしまうんですね。

売れそうなら実用書でも小説でも健康本でも出すという出版社が多いのも事実で、そういう会社の多さが、業界全体の足を引っ張っているのではないかな、と感じることも増えてきました。

 

でも結局、会社の数がそれだけあれば事業所の数も必要で、プリンターやサーバー、経理や総務の人員などのコストが必要になるわけです。

いっそのこと、銀行みたいに出版社の統合がグイグイ進んだほうがイイんじゃないかなぁと思わなくもありません。

出版の多様性という側面で言えば、別にいまは個人でいくらも情報発信し、電子書籍も個人で刊行できる時代ですしね。

 

出版業界はいろいろな情報を仕入れていて、頭のいい人も多いので、こうした問題については気づいている人が多くいると思います。

本書の中でも述べられているように、「日本人の変わらなさは異常」ですので、そうはいってもなかなか現状は変わらないだろうなあと。

私も今後5年くらいで身の振り方を考えないといけないなあと考えさせる読書体験ではありました。

 

 

後記

私が努めている会社でもリモートワークが実施されていまして、実際、編集者は別に無理に会社に行かなくてもパソコンがあれば仕事ができちゃうことが多いので困ることはなかったです。

むしろ、通勤とか対面の打ち合わせがなくなったぶん、時間に余裕ができたし、抱えていた本の刊行スケジュールが後ろ倒しになったり、日常の細々とした業務がなくなった関係でゆったりと新しい企画を練り上げることができたりといい状態でした。

ただ、そこでやはり、あらためて「どんな本を作るか」ということを考えると、いろいろ深いところを考えてしまったりするんですよね。

編集者というのも結局のところ会社に雇われているサラリーマンですから、売れる本(つまり会社に利益を求める本)を出すのが至上命令であるわけですが、じゃあ売れそうだからといってなんでも出すかというと、それも違うと思います。

 

私が最近思うのは、「遅かれ早かれ、どこかの出版社が出しそうなものはもう作らないようにしよう」ということです。

いちばんわかりやすいのは、SNSで人気のあるインフルエンサーの方の本ですね。

日本を代表する大手出版社K社さんの知り合いに話を聞いたりすると、あそこの会社はつねに数万人規模のインフルエンサー的な人たちはチェックしていて、声をかけているそうです。

そのため、そうした人々の本を、先に他者から出されないうちにどんどん出版していきます。

そして実際、インフルエンサーの人たちはたいがい、自分の本の告知をネットで積極的にやってくれますし、ファンもおおいわけですから、一定程度は売れます。

 

ただ私が思うのは、結局そういうインフルエンサーの人たちの本というのは、編集者は誰でもいいということなんですよね。

どの編集者がつくっても、たぶん同じような本になる。

問題は、どの編集者が一番早く声をかけて、どの編集者が気に入られるかという問題になってきます。

つまり、たとえ私が作らなくても、たぶんほかの誰かがすぐにつくるだろうということが予想できるわけです。

そういう本を作るために四六時中ネットをチェックしたり、一生懸命連絡を取るのは、自らレッドオーシャンに飛び込むような感じがして、なかなかしんどそうだし、あんまり楽しくなさそうに私は感じます。

(もちろん、そういう競争が好きで、インフルエンサーをいち早く捕まえることが楽しいというハンタータイプの編集者もいるんでしょうが、それはそれが得意な人に任せておくべきでしょう)

 

単行本の企画の立て方は大きく2つに分けられます。

「人から探すか」「テーマから探すか」です。

インフルエンサーの本は明らかに前者ですね。

まずインフルエンサーを探して押さえ、そのあとで「この人だったらどんなテーマで書いてもらったら売れるかな」というのを考えるわけです。

 

私はどちらのパターンもありますが、後者のパターンのほうがおおいような気がします。

まず先にテーマを定めてから、そのテーマに一番あった著者を探してきます。

(ここでいう「そのテーマに一番あった著者」というのは、単にテーマとの親和性のみを指しているわけではありません。時代性、SNSのフォロワー、メディアの露出頻度、過去の出版実績、普段の主義主張などを総合的に勘案します。つまり、おなじくらいテーマと親和性のある人が2人いたら、間違いなく過去の著作が売れていて、SNSのフォロワーが多い方を選びます)

 

実用書の場合、「売れるテーマ」には普遍性があります。

人々が何を求めているのかは、もう明らかなんですね。

「人間関係」「健康」「金」「男女」「自己成長」あたりでしょうか。

ベストセラーになっている本で、これらのテーマにまったく含まれない本は、おそらく皆無だと思います。

そこで、編集者はこれらの問題を「細分化」「先鋭化」し、切り口を変え、表現を変え、著者を変え、時事ネタや最新のテクノロジーなどをまぶして新刊としてつくりあげていきます。

 

そのあたりの企画のやりくりからそろそろ脱却して、がんばらなくても売れる本が作りたいなあということを、コロナのリモートワーク期間中に思っていたりしました。

企画は本当にケースバイケースで、こうすればつくれるという公式のようなものはないと思うのですが、多くの出版社でポリシーが欠落している以上、編集者一人ひとりがポリシー(自分が作る本の意図)を明確にしていく必要はあるのかもしれませんね。

 

そしてこうしたポリシーを持つことは、必ずしも編集者や企画に携わる人でなくても、これからの時代は持っていたほうがいいんじゃないかとも思います。

いまはおそらく、昭和以前のように非倫理的なことが会社で行われることは少なくなっているんじゃないかと思いますが、それでもポリシーなき仕事は蔓延しているでしょう。

そうしたとき、「自分はこういう為に仕事をしている」「だからこういう仕事はやりたくない」という自分なりのポリシーというか、指針を持っていることが大事になるんじゃないでしょうかね。

 

間違えやすいところなのですが、ポリシーを持っているからと言って、必ずしもそれに従わなきゃいけないわけではないと思います。

ぶっちゃけ私も、上司からの指示で、「そんなに作りたくないなという本」を作らざるを得ない状況もよくありますが、「それは私のポリシーに反するので作りません」とはいいません。サラリーマンですから。

ただ、「これは仕方なくつくってやっている本」「これは自分で作りたいと思ってやっている本」という区別をつけてやることで、気持ちはちょっと楽になります。

「仕方なくつくってやっている本」なんて言い方をするとなんとも本や著者に対して失礼な気もしますが、本心では「こんな本は別に世の中に出さなくてもいいだろう」と思っている一方で、「でも会社的にはここでこんな本を作って売上を立てておく必要もあるんだよな」と理解しつつ働いているので、仕方ないのです。最優先にするべきは自分のポリシーに対する折り合いですから。

 

大事なのはその2つに区別をつけることです。

じゃないと、いつのまにか自分で立案する企画まで「ほんとうはそんなに作りたくないと思っている本」になってしまうことがありますから。

そうなると悲劇ですね。

もはやそこに「やりたい仕事」がなくなってしまっているわけです。

 

雨降って地固まるともいいますが、私はこのコロナ禍は必ずしも悪い影響ばかりではないと思います。

働き方に対する考え方について多くの人が考える切っ掛けになるかもしれませんね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。