この本は「嫉妬の教科書」なのかもしれない ~『天才はあきらめた』のレビュー
なにかを成し遂げる人というのは、大きく2つに別れると思う。
もくじ
ひとつは、もともと恵まれた環境にいたり、すごく朗らかな環境で育ったがために自己肯定感が高いタイプだ。
典型的なのはいわゆるエリートと呼ばれる人たちで、彼らは持ち前の育ちのよさと人脈などを持っており、人やチャンスを自然と引き寄せる。
そうでなくても、明るい家庭で育った人や、やたらほめて育った人もこうなることが多い。
ようするに、こういう人たちはとくに根拠はないけど「自分はけっこう何でもできちゃうんじゃない?」という自信を持っていて、だからいろいろなところに首を突っ込んだりエネルギッシュに行動できる。
お金持ちにもけっこう多いコンプレックス原動力タイプ
もうひとつは、完全に真逆のタイプである。
つまり、コンプレックスや憤怒、ねたみなどを原動力にして自分をたきつけるタイプだ。
けっこう、ビジネスの世界だとこういう人が少なくない。
実家が貧乏だったり、小さい頃にイジメを受けていたり、不細工だったり、デブだったり、もしくはなんらかの障害を抱えていたりすると、「周りのやつらを見返してやる」という気持ちからがむしゃらに頑張る。
※これは個人的な経験則だが、不細工な男性ほど頑張ってお金持ちになろうとする傾向が強い気がする
で、まあこの本を読まなくてもわかりそうな気はするが、南海キャンディーズのツッコミ役、山ちゃんこと山里亮太氏は、まさに典型的な後者である。
(以下、本記事では敬愛の念をこめて山ちゃんと称する)
今回はこちらの本を紹介したい。
もともとは新書
本書は山ちゃんの自伝的エッセーである(本当に本人が書いたのかはわからないけど)。
もともとは2006年に刊行された『天才になりたい』に大幅な加筆修正を加え、改題したものである。
タイトル、カバーデザインともに、新書版よりも魅力的になったこともあり、わりと売れ行きが良い。
ただこのタイトルは、単に見栄えをよくするためだけではない。
12年もの月日を経た山ちゃんの心境の変化も反映している。
『天才になりたい』を書いたときから12年が経つ。当時の僕は、まだどこかに「ひょっとしたら自分って天才になれる日が来るのでは?」という淡い期待を抱いていた。
今回、そんな当時の僕に現在の僕がタイムマシーンに乗ってこれから起こることを丁寧に教えてあげるようなイメージで、新たに加筆修正した。
教えてあげよう。12年前の僕に……。
当時の絶望、嫌いな奴にされた仕打ち。そして、そんな出来事に直面して抱いた自己嫌悪になるほどの僕の卑しい感情たちも、全て燃料にできるぞと。
2006年というと、2年前のM-1で準優勝を果たして一気にブレイクし、翌2005年にM-1決勝で最下位になるなど、いろいろ話題を起こしていた時期である。
その後、相方のしずちゃんがピンで活躍するようになって、さらにボクシングでオリンピック出場を目指すなど、コンビ不仲とピン活動機会の増加が増えていく。
『天才になりたい』を読んでいないのでどのくらい加筆をしたのか不明だが、本書の公判では相方の静ちゃんにたいする嫉妬も滔々と語られているので、けっこうな加筆が加えられているんじゃないかと推測できる。
嫉妬は自分の適性を測るバロメータかもしれない
さて本書で、山ちゃんはあらゆる対象を妬み、嫉み、恨み、怒る。
同期のキングコングが売れ始めては妬み、笑い飯や千鳥にコアなファンがつくと嫉み、せっかくブレイクしても自分よりピンで華々しく活躍するしずちゃんを恨み、自分をちょっとでもバカにしたNSC(吉本興業の芸人養成所)の講師やテレビ番組のスタッフ、共演者に怒りを燃やしてノートにメモする。
よくもまあこれだけ負の感情を抱いていて疲れないもんだと思う。
しかし私が思うのは、「これだけ嫉妬し続けられるのもひとつの才能なんじゃないか」というような陳腐な感想ではない。
嫉妬は才能ではなく、むしろ自分の適正を見定めるためのバロメータなのではないか、と思うわけである。
私だってもっと努力すればあれくらいのレベルに達することができるんじゃないか
たとえば私はM-1優勝者の漫才を見ても、まったく嫉妬に駆られない。
なぜかというと、私にはそもそも「漫才をしたい」という気持ちがないからだ。
これまでの人生で誰かとコンビを組んで漫才をやってみようと発想してみたことは1ミクロンもない。
でも、メチャクチャおもしろくてセンスが光る文章を読んだり、すごく練りこまれたストーリーを読んだり、ヒットしている本の編集者の話を聞いたりすると、「すげえな」と思う反面「ぐぬぬ……」という嫉妬の念が沸き起こる。
これは単に「私が興味のある分野だから」というだけではない。
「私だってもっと努力すればあれくらいのレベルに達することができるんじゃないか」という、まさに山ちゃんが過去の自分に対して述べていた状況なのである。
つまり、自分が他人に嫉妬しているということは、少なくともその方面に対して自分が何か成し遂げたい欲求を強く持っていることなのではないかと推測できるわけだ。
もしも仕事でだれかに嫉妬しているようなら、その仕事は選んで正解かもしれない。
嫉妬の取り扱い方を学ぶ
ここで最初に引用した文章を読み返してみてほしい。
山ちゃんはタイトルのとおり、たしかに「天才になる」ことは諦めたかもしれない。
しかしそれは、そうした天才たちに対して抱く負の感情をエネルギーにして努力することがやめるということではない。
山ちゃんの動力源は昔から怒りや嫉妬といった負の感情であり、最初はその感情の扱い方がへたくそだったために自分をひどく苦しめたり、周囲の人々を傷つけたりしていたのだが、だんだんとその感情の取り扱い方に慣れ、自分を燃え立たせるガソリンに変える方法を習得したがために、今の彼があるのだろう。
と言うことを考えると、本書は単にひとりのお笑い芸人の半生をつづった自伝的エッセーにとどまらず、負の感情を抱いたままくすぶっている人々に対し、そうした厄介な感情をうまく燃やして自分を走らせる方法を教えてくれている実用書的な側面を持っている・・・・・・とも言えなくもない。
そもそも感情に善悪はない。
怒りも憎しみも嫉妬も、言ってみれば切れ味の鋭いナイフのようなもので、時と場所と使い方を間違わなければ役に立つ。
それを押さえつけたり消したりするよりも、うまく活用する方法を考えたほうが、もしかしたら有益なのかもしれない。
今日の一首
19.
難波がた 短き蘆の ふしの間も
逢はで此世を すぐしてよとや
伊勢
現代語訳:
難波潟に生えている短い葦の節と節の間のように短い間でもいいから会いたいのに
このまま会わないまま一生を過ごしてしまうのでしょうか
解説:
仲が良かった男性がなかなか自分のところに足を運んでくれなくなったことを悲しく思う歌。「この世」というのは一生という意外にも「男女の仲」という意味を持っているので、相手の男性の心変わりに絶望しているニュアンスがある。
後記
負の感情といえば、私がいまも思い出すのはあるLGBTの人のことである。
数年前の話だが、私はとあるLGBTの人の本をつくろうとしていたのだが、結局途中で頓挫してしまった。
いろいろな理由が重なってはいたが、分析してみると、根本的な原因は「この人の本は売れなさそうだな」という気持ちが私の中に残ってしまったためである。
なぜそう考えたのかと言うと、その人が「怒り」をベースに文章を書いているのが、もらった原稿の行間からありありと感じられたからだった。
その人はやはりセクシュアル・マイノリティとして、子どものころから無理解のために苦しんできた。
そのため、本を書く動機として「自分のような人たちの碇を伝えたい」「社会を変えさせたい」という思いが強かったのだと思う。
その気持ちそのものは悪くないのだが、残念ながら、私はジャーナリストではないので正直なところ「正しいかどうか」はあまり重視しない。
私が重視するのは「おもしろいかどうか」「売れるかどうか」だけだ。
その観点で言えば、その人の原稿は正義に満ちていたが、売れなさそうだった。
その人の負の感情の使い方が決して間違っていたわけではない。
実際、その人はいろいろな行動を起こし、社会活動をしていた。
しかし、売れる本を書ける人ではなかったというだけだ。
これは単に、方向性の違いであるような気がする。
最近も、物別れになってしまったことがあったが、まだまだ私も人や文章を見抜く目を鍛えなければなと考えるばかりだ。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。