本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

誰も傷つかない物語に価値はあるのか ~『政治的に正しいおとぎ話』のレビュー~

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いろいろな言葉が変わった。

 

 

もくじ

 

 

成人病は「生活習慣病」に、痴呆は「認知症」に、スチュワーデスは「キャビンアテンダント」に、ビジネスマンはビジネスパーソンに、乳母車は「ベビーカー」に、オカマは「ニューハーフ(またはオネエ)」に、年増の若作りは「美魔女」に、できちゃった婚は「授かり婚」に……。

 

これらはすべて言葉から連想されうる性差別、職業差別、その他のあらゆる先入観を極力排除し、ネガティブに受け取られかねないニュアンスをニュートラルにするために変えられたものだ。

 

物語も時代によって変わる

 

現代に即したものに変えられるのは、言葉だけではない。子どもの道徳教育に影響をもたらす「おとぎ話」にもメスが入れられてきた。残虐な表現や乱暴な言葉遣いは払しょくされ、マイルドで口当たりの良いものになっている。

 

だが、それで本当に充分なのだろうか? 本当にあらゆる旧時代的な、差別的な表現が撤廃されていると言えるのだろうか? 単に表面的な言い回しを変えるだけでは不十分なのではないだろうか。

 

じつは、世の中に出回っている古典的なおとぎ話のなかには、現在の価値観で考えると“政治的に正しくない”内容がいまだに少なからず含まれている。

 

おとぎ話のなかにある旧時代的な思考

 

たとえば、女性が主人公のグリム童話の場合、多くは「王子様と結ばれてハッピーエンド」になる。しかし、これは「女の幸せは若くイケメンで財力のある男と結婚することである」という非常に狭い視野しかないわけで、現代日本のように「結婚しない」「子どもを産まない」のような、多様性のある幸福を否定しているようにも受け取られかねない。

 

ほかにも旧時代的な固定観念としては

 

・仕事には貴賤がある

・チビやデブ、知的障害などは劣っている証

・お金を多く持つことが幸福である

・魔女や妖精、喋る動物に人間と同等の権利を持たせるべきではない

 

などがある。というわけで、このような「多様な価値観」を出来る限り反映させ、どのような人が読んでも傷つかないであろうように改変されたおとぎ話を収録した本がこちら。

 

政治的に正しいおとぎ話

政治的に正しいおとぎ話

 

 

目が見えない = 視覚的にチャレンジしている

 

この本ではまず、さまざまな表現について非常に配慮された表現がされている。ちょっと抜粋してみると、

 

盲目・目が見えない = 視覚的にチャレンジしている

礼儀知らず = 礼儀作法が不自由

貧乏 = 経済的な恩恵から疎外されている

いじわる = 親切心に損傷をうけている

動物 = 非人間動物(人間は人間動物)

白人 = 肌のメラニン色素が遺伝的に不足している

 

こんな感じだ。ほかにも、ある特定の個人の特徴を描写しているだけであり、そのことが世間の同様の人々にも当てはまるわけではないことを丁寧に説明もしてくれている。

 

回りくどくなるのは仕方ないよね

 

たとえば、冒頭に収録されている『赤ずきん』はこんな風に始まる。

 

昔、赤ずきんという名前の若い女性が、お母さんと二人で、大きな森のそばに住んでいました。ある日、赤ずきんはお母さんからおつかいをたのまれました。

新鮮なフルーツとミネラルウォーターが入ったバスケットを、おばあさんの家にとどけるのです。それが女性の仕事だからでは、ありません。とても親切なことだし、共同体(コミュニティ)感覚も生んでくれるからです。

それに、おばあさんだからといって、病気というわけでもありません。

おばあさんは肉体的にも精神的にも健康そのもので、自分のことは完全に自分でやれる成熟した大人だったのです。

 

このような書き方を「めんどくせえ言い回しだな」と感じる人もいるかもしれないが、これこそが大切なのだ。

 

また、『ラプンツェル』では、魔女についてこのように描写している。

 

ところでこの魔女は、ひどく親切心に損傷をうけた人でした。

(といっても、すべての、あるいは一部の魔女がそういうものなのだ、というつもりはありません。それに、自然に形成された魔女としての性質を表現する権利まで、否定するわけでもありません。

むしろ彼女の性格は、幼児期にうけた教育、その後の社会生活からうけたさまざまな要因の結果であることは疑いようもありません。でも残念ですがここでは、そうした説明は省略します)

 

ポリティカル・コネクトとはなにか

 

いちおう説明しておくと、この本は80年代のアメリカで隆盛を極めたPC(ポリティカル・コネクト=政治的に正しい運動に対する強烈な皮肉として出版された作品である。

 

PC論者たちはあらゆる差別や偏見の基づく言葉遣いを制限することを目的として活動し、「女性の敬称をミス・ミセスで分けない」「黒人ではなく、アフリカ系アメリカ人と表現する」「ペットではなく、彼らはアニマルコンパニオン(動物伴侶)である」などを提唱した。

 

それらすべてが悪いわけではないが、一部ではどんどん過剰になっていたっことを危惧して、シカゴで活躍していたコメディアンのジェームズ・フィン・ガーナーが筆を執り、この本を作り上げたという次第である。

 

表現するとは誰かを傷つけることなのだ

 

ここらへはんはけっこう永遠の論題で、何かを表現しようとすると誰かを傷つけてしまったりすることがある。ここで私のスタンスを明確にしておくが、表現者なら、だれかを傷つけたり社会的に問題になってしまうことを書くのはむしろ歓迎するべきだと思っている。

 

たとえば私はある本を読んでぜんぜんおもしろくなかったら「クソだった」とレビューを書く。もし著者がこのレビューを読んだら傷つくはずだ。

 

著者を傷つけない書き方としては「私にはおもしろさがわからなかったけれど、私の感想は万人に当てはまるものではないし、そのこと自体がこの本の価値を貶めるものではない」などと書けるだろう。だが、このように書くと「クソだった」という私の率直な表現を損なわせることになる。絶対に誰も傷つけたくないなら、口を閉ざして何もしゃべらないのが一番だ。

 

結局のところ、大事なのはバランスである。必要以上の悪意で誰かを傷つけるのはもちろん良くないが、誰かを傷つけるのを過度に恐れるのも良くない。ただ、世間の人々は後者に属している人が多いように感じるので、「誰かをある程度傷つけるのはしょうがない」と思っておいたほうがいい。

 

まさかのデーブ・スペクター

 

ちなみに、この本を見て驚いたのは、翻訳者のところにあのデーブ・スペクター氏の名前があったことだ。私はこれを見て、「なにかしらかかわっているんだろうけど、ちょっと内容を読んだだけで名前が載ってるだけだろ」とか思っていたが、しっかり最後にデーブ氏名義のあとがきがあって、彼がかかわる経緯がマジメに描かれていたので、(たぶん)この本に関してはちゃんと携わっていたんじゃないかと思う。

 

デーブ氏は原作者のガーナ―氏とも知り合いだったらしく、翻訳するにあたっての疑問点を一つ一つ問い合わせながらこの作品を仕上げたという。普段、テレビを見ているだけだといまだにカタカナの日本語をしゃべっているうさんくさいオッサンだが、実際はかなり優秀でマジメな人なんだろうというのが行間から読み取れた。

 

ちなみに、この人はTwitterだとひたすらくだらないことだけつぶやいている。しかもけっこう頻度が高いのだけど、本人がやっているのか気になるところだ。

 

 

とにかくいろいろ書き連ねてきたが、この本はおもしろかったので、興味を持ったらぜひ一度読んでみて欲しい。ちなみに、続編もある。

 

政治的にもっと正しいおとぎ話

政治的にもっと正しいおとぎ話

 
政治的に正しいクリスマス物語

政治的に正しいクリスマス物語

 

 

この本を読むきっかけになった本

 

ちなみに、私がこの本を見つけたのは、こちらの本がきっかけだった(まだ読んでない)

 

政治的に正しい警察小説 (小学館文庫)

政治的に正しい警察小説 (小学館文庫)

 

 

こちらは日本人著者によるつい最近出版された小説だが、なんとなくキャッチ―なタイトルだなあと思って調べてみたら『政治的に正しいおとぎ話』が出てきたので、おそらくそれをオマージュしてつけられたタイトルなのだろう。本は本を呼ぶ。

 

今日の一首

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27.

みかの原 わきてながるる いづみ川

いつきとてか 恋しかるらむ

中納言兼輔

 

現代語訳:

みかの原を分けて流れる泉川ではないけれど、

いつ見たわけでもないあなたをどうしてこんなに恋しく思うのでしょうか

 

解説:

平安時代の貴族の女性はめったに人前に顔を見せなかったので、男性は「あの人は美人らしい」といううわさだけで和歌や手紙を送ってアプローチしていた。この歌も、まだ顔をみたことのない女性に対してあふれる恋心を川の水にたとえ、まだ会えない状況を「川に分けられた“みかの原”」にたとえて表現している。

 

後記

 

 

ふと思ったのだが、悪人というのは総じてイノベーターなのかもしれない。フィクションのなかの悪役たちは現状のシステムやルールや道徳に不満を抱き、それを変革するべく自分で努力している人たちなのだ。それに対して、正義の味方は平和などの「現状維持」のために戦っている……といえなくない。

 

たとえば、ライブドアを買収しようとしたとき、ホリエモンは完全にヒール(悪役)だった。そして彼は刑務所にぶち込まれたのだ。しかしいま、彼の考えに共感する若い世代は増え、著書は出せば出すだけ売れる。

 

「悪」というのは、「既存の倫理観から外れた、大人たちが理解できない新しい考え方」なのかもしれない……とも思った。すべての悪に当てはまるわけではないけど。

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。