本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

スター・ウォーズは映画ではない 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』のレビュー

『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』を見てきた。

 


「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」本予告

 

で、週明けの会社での会話。

 

私「週末、スター・ウォーズ見てきました」

同僚「どうだった? おもしろかった?」


違う。

 

この同僚はわかっていない。スター・ウォーズはおもしろいとかつまらないとか、そういうものではないのだ。

 

「スター・ウォーズの新作を、劇場の巨大スクリーンで見る」ということそのものが貴いのであり、あのイントロダクションとタイトルロゴと音楽が現れるオープニングだけで、スター・ウォーズの真のファンは満足してしまう。マスターの域に達すると、オープニングだけを見て、宇宙空間の映像が流れている間に素早く劇場を去り、改めて本編を見るために鑑賞するだろう。

 

また、たまに「どの作品が一番好き?」と聞かれることもあるが、これも愚問である。スター・ウォーズはすべての作品を合わせて「スター・ウォーズ」なのであり、それらすべてが好きなのだ。


たしかに普通、映画というのは、監督とか主演俳優とか脚本とか映像美とか音楽とか作品全体のメッセージとかで評価される。だが、ことスター・ウォーズに限っては、どの視点で見ても評価の対象にはならない。

 

なぜなら、スター・ウォーズ・ファンが消費しているのは、世界観そのものだからだ。「フォースとかジェダイは禅の精神に通じていてウンタラカンタラ」とか、「民主主義の限界について政治的なウンヌン」とか「家族愛が織り成す壮大なスペースオペラでウミャムニャ」みたいなことはぜんぜんどうでもいい


いやもちろん、ジェダイとシスの鮮やかな殺陣とか、スターファイターによる宇宙空間のドッグファイトとか、微妙な心情の間で揺れ動く登場人物たちのドラマとかはもちろん魅力のひとつではあるのだが、それは要素のひとつでしかなく、スター・ウォーズの魅力の中核にはなり得ない。

 

スター・ウォーズはひとつの神話である。あの世界は、まさに神と人間が同居している憧れの世界・アルカディアなのだ。ライトサイドとダークサイドがいつまでも争うさまは、いつまでも決着がつかない叙事詩そのものである。

 

叙事詩であるからこそ、その都度都度でメインのキャラクターは移り変わっていく。しかも、登場人物がたとえ総入れ替えしても、「ジェダイ」「ブラスター」「惑星間交流」といった概念がスター・ウォーズをスター・ウォーズたらしめる。

 

物語を神話にし、叙事詩にする手法は、もちろん簡単ではないが、ひとたび成功すれば、かなり強力なコンテンツとなる。アメリカだとマーベル、DCコミックスなどが同様の手法で成功している。

 

※ちなみに、スティーブン・キングの作品も同じ世界観の中で繰り広げられている物語であり、いま公開されている『IT/イット』も『ダーク・タワー』を中核とする世界観の一部に組み込まれている。恐ろしい世界である。

 


【CM】IT イット

 

日本だと、互いの物語に直接的なつながりがなくても、パラレルワールド的な扱いで同時並行の世界群を構成しているものも含めれば、ガンダム、マクロス、攻殻機動隊、ゼルダの伝説、バイオハザード、TYPE-MOONの作品群などだろうか。(スピンオフの作品群はなんか違う気がする)

 

物語を作るときは、もちろんキャラクター作りやストーリーも大事だが、やっぱり「世界観」という抽象的なものも重要だろう。そして、なにが世界観を作るのかと言えば、それはやっぱり舞台設定と「小物(アイテム)」であるように思う。神は細部に宿る。

 

書いているうちに何が言いたかったのかよくわからなくなったが、要するにスター・ウォーズはいいぞ。

 

ちなみに、バトルフロント2で追加ヒーロー&ヴィランにフィンとキャプテン・ファズマが追加されたのだが、びっくりする弱さ。個人的にはグリーヴァス将軍を早く出してほしい。

 

スター・ウォーズ グリーヴァス将軍 1/12スケール プラモデル

スター・ウォーズ グリーヴァス将軍 1/12スケール プラモデル

 

 

4刀流でバシバシやりたいぜ。

 

 

今回はこんなところで。

お粗末さまでした。