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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『怒り』を観て失敗した

 

映画『怒り』を観てきた。原作は読んでない。

 

もくじ

 

じつはワタクシ、人が負の感情を爆発させるような映像を見るのがたいへん苦手で、おそらくちょっと前に話題になってた「共感性羞恥」なんだと思う。

 


原作はこちら。

 

 

そもそも私の頭の中では吉田修一といったら『熱帯魚』『パーク・ライフ』『最後の息子のイメージしかない。

 

というか、この3冊しか読んでいない。

 

 

これらの本はいかにもっていう感じの「現代文学」で、まぁ、安直にいえばほかのエンタメ系小説に比べれば盛り上がりに欠ける作品群だ。

 

しかし今回の『怒り』は、どうやら殺人事件が起きるようなミステリちっくな内容なので、徒花としてはミステリーとして映画を見に行ったのだが、ちょっと違った

 

身元不詳の3人の男、誰が殺人犯なのか?

 

あらすじ

とある夫婦が惨殺される事件が起きた。現場の扉には血で大きく描かれた「怒り」という文字が残される。

警察は捜査を続け、犯人と思わしき男・山神を探していた。

 

1年後、東京、千葉、沖縄で、それぞれ身元不詳の3人の男が現れる。

彼らと知り合った人々は、訝しがりながらも、それぞれ3人を信用していくのだった。

 

1人目の男は東京都内。大手企業で働くゲイの藤田(妻夫木聡)は、出会いバー?みたいなところで無理矢理セックスした男(綾乃剛)が身寄りのないことを知り、自分の家に居候させる。

 

2人目の男は千葉の漁港。漁師をしていた槇(渡辺謙)は、フラリと現れた男(松山ケンイチ)をアルバイトとして雇っていたが、自分の娘・愛子(宮崎あおい)が彼と相思相愛になったことを知り、2人の同棲を許すのだった。

 

3人目の男は沖縄の離島。引っ越してきたばかりの泉(広瀬すず)は友人の少年とボートで小さな無人島に遊びに行き、そこで不思議なバックパッカーの男(森山未來)と出会い、親交を重ねていく。

 

やがて、警察がテレビ番組を通じて公開した犯人と思わしき男の顔写真を見て、それぞれの周囲の人間は「もしかしてこの男が逃走中の殺人犯なのでは?」という疑惑を持つようになる。

果たして、殺人犯は誰なのか?

怒りの意味とは?

 

期待は裏切られた

 

以下、犯人は指摘しないが、ある程度のネタバレをしてしまうので、ご注意いただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

既に述べた通り、私はミステリーとして本作を見ていたので、「犯人はこの3人の誰か……と思わせておいて、じつは周りのだれかっていうパターンじゃないのかな?」などとゲスな勘繰りをしていたのでが、そうでもなかった。

もうちょっと素直に観てよかった。

 

あと、現場に残された「怒り」という文字は本当に犯人が書き残したものなのかな? とも思った。

なぜなら、たとえ何かしらに怒りを覚えて人を殺したとしても、その感情は相手を殺した時点である程度消滅するような気がしたからだ。

であれば、あの文字を書いたのは犯人ではなく、被害者の関係者のだれか……であって、「怒り」というメッセージはこの行為をした犯人に向けられたものであると考えてもおかしくはない。

(もちろん、そのことを警察に明かさないのは不思議だし、書いた人物がほかにいたのなら、黙って現場から立ち去った理由も定かではないが)

 

しかしこれも、もっと素直に観てよかった。

 

結論:本作はミステリーとして見てはいけない

 

私にとって期待はずれだったが、それはきっと私が「ミステリー作品」だと期待してみてしまったのがその要因だろう。

私が期待外れと感じた点を箇条書きにしてみる。

 

●犯人は明らかにされるものの、トリックらしいトリックはない

●犯人が誰かわかるようなヒントは描かれない

●犯人と被害者の関係性は希薄で、動機も意味がわからない

●現場に残された「怒り」の意味もはっきりと解明されない

●沖縄の男が急に暴れだして民宿を破壊した意味がわからない(最初は民宿のだれかが自分を疑っているのを知り、それに対して怒りを覚えたのかと思ったが、そういう描写もなかった)

 

しかしそれもひとえに、私が見るスタンスを完全に誤っていたせいだと思う。たぶん。

私はミステリーとかエンタメ系じゃないとあまりうまく評価できないのだが、きっと「人間ドラマ」「群像劇」としては、いい作品だったんじゃないかと感じたような気がしないでもない。

 

本作のテーマは「怒り」……なのか??

 

タイトルにもなっているくらいだから「怒り」がテーマかと思いきや、実際に作品を見ているとあまりそんな感じはしない。

むしろ、私が感じたのは「哀しみ」だ(悲しみじゃなくてね)。

 

本作には3人の「怪しい男」が出てきて、彼らと接した人々はテレビ番組を見たときにある決断に迫られる。

すなわち、「殺人犯かもしれないと警察に通報するか否か」だ。

 

犯人は整形手術をしているので、はっきりとはわからない。

それに、もし通報して「犯人じゃない」と断定されたら、それで信頼関係は失われてしまうだろう。

いずれも素性がわからない男なんだから、普通に考えればそんな簡単に信用できないのは当然ではあるが、でも、周囲の人間は深い付き合いをしてしまっているし、彼らを失いたくないという思いを持っているからこそ、そこで悩むのである。

 

結局人間は、他者を信用できないものなのか。

この映画は、きっとそこら辺を観客に問うているのだろう。

 

でも救いもあるヨ

 

一度覚えた信頼が次第にぐらついていき、やがてそれが取り返しのつかないような失態に至ってしまうシーンが多いので個人的に観ていてつらかったが、ちゃんと救いもあるからダイジョーブ。

とくに一番なんとかなってほしかった宮崎あおい演じる千葉のところが最終的になんとかなってよかったなぁ。

 

「怒り」でなにかを変えられるのか?

 

本作にはいちおう、「怒り」もある。

それは、沖縄の部分だ。

 

ここでは、普天間基地移設の住民運動のシーンがあったり、在日米軍によるレイプ事件が取り上げられている。

そして、広瀬すずがなかなかの名演だった。

作中で彼女は自らの怒りを爆発させるのだが、結局、それでなにかが変わるわけではない。むしろ、彼女が覚えるのは怒りを覚えることによる一種の「虚しさ」なのだ。

 

そもそも怒りという感情は「自分が何かしらの不利益を被っているが、自分の力ではどうしようもない状況」において抱くものではないだろうか。

 

「どうにもできない」対象は、場合によって人それぞれだ。

たとえばそれは「病気、ケガ」かもしれないし、「社会の仕組み」かもしれないし、「他人の行動」かもしれないし、「(相手を信じられなかった)自分自身」かもしれない。

 

ただ、より強い怒りを覚えるのは、おそらく最後の「自分自身」だろう。

なぜなら、「自分自身」に限れば、「どうにかできたはずなのに、どうにもできない状況を自ら作ってしまった」からだ。

だからむしろ、「自分自身に怒る」という言い方は厳密には正しくない。「過去の自分自身に怒る」というのが正しいだろう。「過去」は何をどうやっても変えられないからだ。

 

おわりに

 

完全なる余談だが、本作にはゲイの濡れ場がある。

個人的に観ていて思ったのは「ゲイのセックスでもコンドーム使うんか!」ということだった。

ただ、同行者にその感想を漏らしたら「実際は使わないのかもしれないけど、やっぱりエイズの感染リスクもあるから、映画の中では使わないといけないんじゃない?」とのこと。

なるほど、エイズか。ということを思った。

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。