本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

書かない美学~『境界線上のホライゾン』のレビュー~

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週に平均2日くらいの割合で頭痛が起こる徒花です。しぬ

もくじ

余白の美学

以前、とある編集者の人と一緒に仕事をしていた。その人はもともとパチンコ雑誌を作っていたらしく、

「とにかく1ページに情報をいっぱい載せろ! 文字や写真で埋め尽くせ!」

という指示を繰り返していた。私はデザイナーさんとともに「あの人はもっと『余白の美学』を学ぶべきだよね」という話をしていたことを記憶している。

紙面いっぱいに文字や写真が隙間なく埋まっているのは読みづらい。だからこそ、デザイナーさんは適度に余白を作って文章や写真を引き立てるレイアウトを作ってくれる。たくさん載せればそれでいい、というものではない。

そしてそれは「文章」にも当てはまるのではないのか――ということを、今回紹介する本を読んでいて思った。

境界線上のホライゾン』について

2011年にアニメ化されたので、それをきっかけに原作に興味を持ち、そして書店で「分厚さ」に戦慄した人が多いのではないだろうかと想像できる。なぜなら、私もそのひとりだったからだ。

しかも、まず第1巻が上下に分かれていて、とくに下巻が恐ろしく分厚い。京極夏彦も真っ青だ。物差しで計ってみたところ、なんと約4.5cmもあった。普通の文庫本のは1~2cmくらいなので、普通の文庫本にして3冊分くらいの厚みがあるとイメージしていただければ問題ない。下巻だけで700ページ超だ。(そして恐ろしいことに、いまだに完結していない)

こんなに分厚い理由

なぜこんなに分厚いのか。理由を箇条書きにしてみた。

●世界観が複雑すぎるのでその説明が必要

●いろいろ立場の登場人物が出てくるので、彼らの関係性や目的などの説明が必要

●SF的な科学や宗教、魔法などのさまざまな技術が入り組んでいるので、その説明も必要

●政治的な駆け引きも物語の中核を占めているので、その説明が必要

●日本史、世界史と物語が深くリンクしているので、そこらへんの流れの説明も必要

●それに加えて、ラノベお馴染みのおふざけシーンやギャグもちょいちょい挟まるので、物語の進行スピードが遅い

とにかく、いろいろと複雑すぎるので、セリフはもちろん、地の文でも今どういう状況で、誰がどういう意図を持って行動しているのかが描写されているがために、これだけの分厚さになってしまうのである。

世界観とあらすじ

まずは、この物語の基本的な世界観について、私のほうでできるだけがんばって簡潔に説明してみよう。細かいところは間違いがあるかもしれないが、ざっくりなので勘弁してくれ。

あらすじ:

かつて、すごく文明を発達させた人類は地球を離れて天上に入り、神に等しい存在になった。その後、天上での争いに敗れた人類は再び地球に戻ってくるが、地球は荒廃し、人類が生きていける環境ではなくなっていた。唯一、「神州(つまり日本列島)」だけが無事だったので、かつて日本人だった人々はそこに住み込む。それ以外の人々は「重奏世界」を違う次元(?)に作って、そこで暮らすことにした。

さて、彼らが次になにをしたのかというと「歴史再現」である。人類はまた天上に行きたいと願ったのだが、どうすれば戻れるのか、よくわからない。そこで、人類の歴史をもう一度、最初から同じように繰り返せば、将来的にはまた天上に行けると考えたのだ。というわけで、人類は極東(つまり日本)と重奏世界で歴史再現を始めた。

だが、南北朝の動乱を再現していたときに重奏世界が崩壊し、現実世界と合体。住むところがなくなった重奏世界の住民たちは極東に攻め入り、極東はアッサリ敗北する。こうして、日本列島において世界史と日本史のどちらの歴史再現も同時に行われることになり、神州は分割支配されていろいろとややこしいことになった。

とりあえずこれで事態は落ち着いたかに見えたが、戦国~江戸時代にかけてのとき、また事件が起こる。かつての人類の歴史を記述し、歴史再現のお手本になっていた「聖譜」が、1648年を最後に更新されなくなってしまったのだ。まったく先の見えない「終焉」へと突き進む世界の中で、人類はどうやって未来を見出していくのだろうか――。

がんばったが、これ以上簡単にするのは無理だ。そして、忘れてはいけないのは、これはあくまでも物語の「前提の前提」であって、このなかでさらに主人公を中心とする登場人物たちの物語がつむがれていく点である。

本筋の物語をすっっっっごく簡単に説明すると、

あらすじ:

惚れた女を助けるため、世界を敵に回すぜ!

ということである。きわめてシンプルにとらえれば、本書は「一人の少女と、彼女に恋をした少年の物語」だ。

本だけで理解するのはしんどい。とりあえずアニメと同時並行で本を読み進めていくのが、比較的理解しやすくなるのではないだろうか。

書かない美学

本シリーズは緻密に作りこまれていて読めばおもしろいのだが、やはり、好き嫌いが分かれる。個人的には嫌いじゃないが、読んでいるとちょっと説明が続きすぎて辟易とする部分もある。

ここで冒頭の話に戻るが、デザインに「余白の美学」があるように、小説にも「書かない美学」があるのではないだろうか。なんでもかんでも全部書いて説明すればいいわけではない。綿密に設定や背景は考えておくのだけれど、読者に提示するのはその瞬間のシーンを理解するのに必要最小限な部分だけにしておく、のがスマートなのかもしれない。

実際、多くの小説やマンガ、ゲーム、映画などでは、このような情報の整理がしっかり行われていると思う。ふと思い出したのは、マンガウィッチクラフトワークスだ。

この作品も、著者はかなり詳細な設定を考えているが、あえて物語の本編ではそれらを詳細に説明しない。その代わり、単行本のちょっと空いたスペースで彼らの使っている魔法とか、世界観を構成している要素をかなり細かく解説している。ゲームでも、公式の攻略本などで「裏設定」が明かされる場合が多い。

それで考えると、『境界線上のホライゾン』は、こうした読者に提供する「情報の整理」ができていない作品といえるかもしれない。

分厚さこそが本書の戦略ならば、それはアリ

しかし、しかしだ。だからといって『境界線上のホライゾン』は、もっと情報を整理してから刊行するべきだった――などと私はいわない。

なぜなら、もしかすると著者や編集者は私がこれまでに述べたことは重々承知の上で、戦略の一環として「あえて情報を整理しない」で分厚い本を作っているかもしれないからだ。

分厚すぎる本は確かに読みにくいし、値段も高くなるから、商売の上では欠点だ。しかし商売の世界では、欠点をあえて押し出すと、不思議なことにそれが利点になることもある。つまり、「とにかく分厚くていちいち全部説明してくる=『境界線上のホライゾン』らしさ」という公式が無意識のうちに読者に植えつけられ、「それはそれでアリじゃね? むしろ、分厚くなければ境ホラじゃない!」と思わせてしまうわけだ。

おわりに

私も勢いに任せて「文章を書きすぎる」きらいがあるのであまり人のことを言えた義理ではないが、文章を書くのに慣れてくると「何を書くか」よりも「何を書かないか」のほうが重要になってくる。

 

余談だが、徒花お気に入りのキャラはネイト・ミトツダイラ。もうまじでね、アリアダスト教導院内部の相対で、転んだ鈴さんの発した「助けて」に条件反射的に手を差し伸べてしまうミトツダイラまじ騎士様

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。