本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『夜は短し歩けよ乙女』のレビューを書こうとしたら森見氏の魅力がわかったような気がしたぞ

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飲食店でジンジャーエールを頼んだとき、カナダドライではなくウィルキンソンの辛口が出てくるとちょっとテンションが高くなる徒花です。

アサヒ飲料 ウィルキンソン ジンジャエール 500ml×24本

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もくじ

今回紹介するのはこちら。

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

はっきりいって、およそ「小説好き」と自称している人たちならまず読んでいるだろうこの作品についていまさら書くのも気後れするが、書くには相応の理由がある。まずはそれを説明させてほしい。

本エントリーを書くに至るの話

先日、とある人に小説を貸すことになったのだが、その人は普段ほとんど本を読まないのだ。そのため、「普段本をまったく読まない人に貸す本はどんなのがいいだろうか?」と考えた挙句、本書と星新一『妄想銀行』東川篤哉氏の『密室の鍵貸します』、そして夜は短し歩けよ乙女を渡したのである。

妄想銀行 (新潮文庫)

妄想銀行 (新潮文庫)

 

 

密室の鍵貸します (光文社文庫)

密室の鍵貸します (光文社文庫)

 

そのとき、ふと「そういえば『夜は短し~』は数年前に読んでからだいぶ経ってるから、貸す前にもう一度読んでおこう」と思い立ち、勢いをつけて読破したのだが、その際、初めて読んだときに生えられなかった気づきがいくつかあったので、せっかくだからブログに書き留めておこうと思った次第である。

各話あらすじと所感

とりあえず、本書のあらすじを書いておこう。

本書は京都の「春」「夏」「秋」「冬」を舞台にした4つの物語で構成されていて、(たぶん)京都大学の学生である「先輩」と、彼が想いを寄せる後輩「黒髪の乙女」の和風ファンタジーラブロマンス。

そこに春画を集めている怪しげな『閨房調査団』や、詭弁を弄する『詭弁論部』、自称天狗の樋口さん、金持ちの李白翁、生意気な口を利く『古本市の神様』など、個性的過ぎるキャラクターたちがあれやこれやと大騒ぎを繰り広げる。

以下、各話のあらすじ。

1:夜は短し歩けよ乙女

「黒髪の乙女」に想いを寄せていた「先輩(私)」は、とある祝宴をきっかけになんとか彼女とお近づきになりたいと考えていた。だが、乙女は二次会の誘いを断り、ひとりでふらふらと深夜の先斗町(ぽんとちょう)に消えてしまう。逆にこれはチャンスと、先輩(私)は彼女の後を追いかけるが、不意に何者かに襲われ、はいていたズボンを奪われてしまう。果たして先輩(私)は、はいていたズボンを無事にとりもどすことができるのか!?

表題作であり、じつはびっくりするほど内容が行き当たりばったり。読んでいると、おそらく先のことをなにも考えないで書いたんじゃないかと想像できる。よく言えば「キャラクターたちが勝手に動いている」状態だし、悪く言えば「その場しのぎの展開の連続」によって物語が成り立っている。

しかし、本作がそれでも魅力的に写るのは、どこか古式ゆかしい雰囲気を醸しだす文体とキャラクターたちのセリフ、そして絶妙な言葉の選び方が「読んでいるだけでオモチロイ」からだろう。登場するキャラクターが多いが、いずれの人物も個性的過ぎるので混乱することもないし、物語自体がシンプルな構造なので理解もしやすい。

惜しむらくは、徒花が酒をまったく飲めないので、酒のよさを描写されても魅力的に感じないという点だろうか。

2:深海魚たち

「黒髪の乙女」が下賀茂神社の境内にある糺(ただす)の森で開かれる古本市に行くという確かな情報を聞きつけた「先輩」は、彼女と綿密に計算された運命の出会いを果たすべく、古本市に乗り込む。だがその矢先、やたら言葉遣いが古風な少年に因縁をつけられ、彼女の姿を見失ってしまう。少年は『古本市の神』を自称し、乙女がとある絵本を探していることを先輩(私)に告げる。紆余曲折の末、先輩(私)は彼女が捜し求める絵本を手に入れるため、灼熱地獄の火鍋我慢大会に参戦することを決めるのだった。

個人的な考えではあるが、おそらく、この物語こそがのちの森見登美彦氏の絶大な人気の起爆剤となったのではないかと考えている。というのも、森見氏のファン層というのは読書家――つまり本を愛している人々であり、この作品ではそうした読書好きの胸をくすぐりまくることがかなり描かれているからだ。

そもそも、読者と著者の立場は多くの場合、隔絶している。本好きであればあるほど、本の著者に対して尊敬の念を抱いていて、「自分とは違う存在」という認識を持っているのではないだろうか。しかし、本作において森見氏は、本そのものを賞賛すると同時に、本を熱心に読む人々(つまり本作を読んでいる読者)を賞賛している。このことによって、読者は著者の森見氏も、自分たちと同じように本を読むのが好きな「一読者」なのだと感じ、著者に対して親近感――つまり好意を抱くようになるのではないかと考えられるわけだ。そして、ますます彼のファンになる。

だから、きっと本書で一番キモになる物語は、この『深海魚たち』にほかならない。と私は勝手に考えているわけだ。

3:御都合主義者かく語りき

大学で文化祭が開催され、これまたチャンスと「先輩」は「黒髪の乙女」の姿を探していた。だがその年、文化祭では神出鬼没に現れて誰彼かまわず豆乳鍋を振舞う『韋駄天コタツ』と、これまた突発的に学校内で開幕されるゲリラ演劇『偏屈王』が上映されており、学園内の規律を正す学園祭事務局との争いによって混迷を極めていた。やがて、学園祭事務局に身柄を拘束された『偏屈王』の主役、プリンセス・ダルマの役を、代理で「黒髪の乙女」が演じていることが判明。彼女は学園祭事務局の追っ手を逃れ、劇は終幕に向かう。もうこうなったら、自分が偏屈王の役柄を奪うほかない――ということで、先輩(私)も奮闘するのだったが……。

各話のなかでもエンタメ性が高い作品。なんかマンガ『うる星やつら』のような空気感があって、無秩序なカオスがひたすら読んでいて心地よい。タイトルのように「ご都合主義」にまみれているが、「それもまた一興」と思わせてしまう無理のない強引さがあるからこそ、受け入れられる。

4:魔風邪恋風

冬、京都の町は前例のない恐ろしい風邪に見舞われていた。「先輩」はもちろんのこと、ありとあらゆる人が前代未聞の風邪に倒れ、苦しんでいた。そんななか、どういうわけか風邪の神様に嫌われているらしい「黒髪の乙女」だけは元気で、いろいろな人の看護に回る。そんななか、彼女は樋口氏からどんな風邪も即座に治る妙薬「ジュンパイロ」の話を聞き、秘薬探しに奮闘する。やがてこの病魔の原因が分かり、解決のために奔走する彼女はふと、最近とんと自分の前に姿を見せない先輩を思い出すのだった――。

本作の雰囲気は『四畳半神話体系』に近いかもしれない。いよいよ鬱屈とした、捻くれ者ながら寂しがり屋の「先輩」が本領を発揮し始める物語だ。徒花はけっこうこういう捻くれ者の思考が好きなのだが、なるほど世の中には以下のように、こういう思考が苦手な人もいるのかもしれない。

※じつはかくいう私も、『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジくんを見るとイライラして、好きになれないタイプではある。

本作はこれまでのエピソードと比べると、さすがに最後ということがあって、ちょっと構成が練られていた感じがした。これまでの登場人物が勢ぞろいし、「黒髪の乙女」が彼らと話をしていく中で、じつは「先輩」が自分に近づくためにいろいろと苦労していたということに気づき始めるのだ。そして最後、とんでもない事態になるものの、なんやかんやで大団円になるという、とりあえず読者を安心させてくれるほっこりハッピーエンドで結ぶ。

なんというか、ほかの話に比べると「お行儀の良い」エピソードではあるが、最後の最後はきっちり〆てくれるあたり、安心感を持って読み進めていけるのはさすがの技量である。

おわりに

最近はあんまり森見氏の著作を読んでいなくて、たしか最後に読んだのは『ペンギン・ハイウェイ』だっと思う。

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

 

これもあまり記憶が定かではないのでたいしたことは言えないのだが、これまでの森見氏の作品とはちょっと雰囲気が異なり、新たに「せつなさ」という属性が吹かされているような気がしたように記憶している。

最後に総論を述べるなら、森見氏の魅力を一言で表すならばその「文体」だろう。「文体とはなんぞや」と問われると答えるのが難しいが、つまり「読めば『これは森見氏の文章だ』と不特定多数の人が認識できる文章が確立されている」といってよいだろう。小説以外ならば「世界観」などとも表現されるかもしれない。とにかく、言葉の選び方、文章のリズム、物語の展開などが、彼にしか描き出せないものなのだ。これがあると、ファンがつきやすい。

ちなみに、ブログのほうもけっこう定期的に更新していて、こちらでも森見節が全快である。読まれるがよろし。


今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。