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『歎異抄』 2016年4月 (100分 de 名著)のレビュー~善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや~

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何かの本で本エントリーのタイトルを読み、これが『歎異抄』のなかの言葉であると知り、そういえば読んだことがないなぁと思った。

もくじ

というわけで、今回紹介するのは鎌倉時代に活躍し、浄土真宗の祖となった親鸞が残した教えをまとめた『歎異抄』を簡単に解説してくれるこちらの一冊。Kindle版が安くてわかりやすかった。この「100分de名著」シリーズはムックではあるが、安くて中身を簡単に知るにはちょうど良い。

『歎異抄』 2016年4月 (100分 de 名著)

『歎異抄』 2016年4月 (100分 de 名著)

 

まず前提となる知識として、『歎異抄』は親鸞が書いたものではない。著者ははっきりしていないが、親鸞の弟子・唯円ではないかというのが現在の定説となっている。内容は「親鸞の死後、親鸞の教えをゆがめて教えている人間が増えて、たいへん嘆かわしい状況だ。これを正さなければならない」というもので、だからこそ『歎異抄』というタイトルになっている。

まずは、そもそも浄土真宗がどういう宗教なのか、その歴史的背景とともに簡単に説明していこう。

往生するのに修行は必要ない!

鎌倉時代は政治の中心が公家から武家へ移り変わったころで、つまり世の中はいろいろ乱れていた。そういうとき、人々は宗教に救いを求める。

さて、浄土真宗がほかの従来の仏教と何が違うのかといえば、その最大の違いは「他力本願(もしくは本願他力)である。従来の仏教では、極楽に行くには厳しい修行をして悟りを開く必要があったわけだが、「そんなことする必要ないよ。ただ『南無阿弥陀仏』と唱えてれば極楽(浄土)に行けるよ」といったのが親鸞(もしくは親鸞のお師匠さまの法然)なのだ。

とはいえ、別にこれは人気を集めるために主張したわけではない。親鸞は「そもそも人間ごときがいくら努力しても、自分の力だけで極楽に行くのは無理でしょ」と言っているのである。であれば、とりあえず「南無阿弥陀仏」と唱えて阿弥陀仏様を慕い、阿弥陀仏様のチカラで極楽に連れて行ってもらうようにしよう――というのが、他力本願および称名念仏という考え方である。これがウケた。まぁ、人々はどんな時代も楽なほうに流れるものなので、当然といえば当然だろう。

f:id:Ada_bana:20160619011247p:plain親鸞

ちなみに、阿弥陀仏(阿弥陀如来)は仏教における仏陀(悟りを開いた人)の種類のひとつで、如来は十号(仏陀を10種類に分けた分類)のうち、「真実を人々に示す者」みたいな意味合いだ。名前が持つ意味は「無限の命」らしい。そして極楽は阿弥陀仏の領域なので、基本的に極楽に行きたいなら阿弥陀仏を信仰したほうがいいのだろう。

善とはなにか? 悪とはなにか?

おそらく、『歎異抄』でもっとも有名なフレーズが、以下のものだろう。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや

 

現代語訳すると、「善人だって往生できるのだ。ましてや、悪人が往生できないわけがない」となる。これ、普通に考えると「逆じゃない?」と思ってしまう言い回しだ。
つまり、「悪人だって往生できるのだ。ましてや、善人が往生できないわけがない」と言ったほうが、すんなりと納得できる。善人が往生できるからといって、悪人が同じように往生できるかどうかはわからないはずだ。

しかし、ここに浄土真宗の大事な教義のひとつがある。それが「悪人正機」とよばれるものだ。

そもそも、この言葉が誤解されてしまうのは「善人」「悪人」を人間レベルで考えている点に原因がある。たとえば、人間の視点だと、「法律を守っている人が善人」「法律を守っていない人が悪人」といった具合に判断してしまう。

しかし、阿弥陀仏レベルの視点に立って善悪を考えると、この世(穢土)に生きている人々はすべからく悪人である。いっさいの悪を犯さない人間はいない。さらに、じつはいっさいの悪を犯したことのない善人ですら、親鸞には悪人だと判断される。なぜなら、人間が行うすべての行動は欲望(煩悩)に基づいたものであり、たとえ善行だけをしようとしても、そもそも人間風情では本質的な善悪を判断できるはずがないからだ。

f:id:Ada_bana:20160619011047j:plain絹本著色山越阿弥陀図(京都・禅林寺(永観堂)所蔵)

かてて加えて、阿弥陀仏の本願はそもそも「そうした穢土に生きるどうしようもない悪人どもを救うこと」にある。自分で善行を積んで自分の力で浄土を目指す行為自体が、そうした阿弥陀仏の力を疑っている行為であり、悪であるともいえるのだ。しかし、阿弥陀仏はとってもやさしいので、そんな善人(だと自分では思っているどうしようもない悪人)ですら救ってくれる。だからこそ、「自分は善人だ」と勘違いしちゃってるどうしようもない人々も救ってくれるのだ――という意味をこめて、『歎異抄』では上のような言葉が残っているのである。

もしくは、本書では次のようにも説明されている。

(浄土真宗、阿弥陀仏は)自分で悟りを開けないための仏道であり、仏様なのですから、言うなれば、自分で泳げずに溺れている人からまずは救うということなのでしょう。でも、もちろん泳げる人も救いますよ、と付け足す。そんな理屈になっています。

「悪人正機」というのは、「自分は悪人である」ということを自覚しなさい、という教えなのだ。

宗教は3つの型に分けられる

さて、本書においては、宗教は大きく3つの型に分けられると説明される。それが「つながり型」「悟り型」「救い型」だ。

つながり型の代表的なものは神道である。これは厳密な協議などが定まっておらず、コミュニティを形成することを主な目的としたものを指す。また、ユダヤ教も、ユダヤ人同士の結束を固める目的を持っている性格があるため、つながり型ともいえる。

悟り型は仏教だ。つまり、「自分が努力することを重視する」宗教である。だから、滝に打たれたり瞑想したりして、自分を肉体的・精神的に追い込む。

そして「救い型」は、キリスト教などが該当する。つまり、自分で何かを努力するのではなく、「助けてもらう」ことを主な目的とした宗教だ。もちろん、紙の決めたルールを守って生活するなど努力もするが、その目的は「神様に救ってもらうため」である。

つまり、浄土真宗というのは、それまで「悟り型」だった仏教を「救い型」に転換した宗派だといえる。つまり、どちらかというとキリスト教に近い性格を持っているというわけだ。もちろん、「『南無阿弥陀仏』という念仏を唱える」という努力はするが、それも親鸞に言わせれば本人が唱えているわけではない。念仏は自分の功徳ではなく、あくまで仏様の導きでたたえさせていただいている、というスタンスなのだ。

実際、安土桃山時代に日本を訪れたイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノも、『日本巡礼記』のなかで「これはまさしくルーテル(マルティン・ルター)の説と同じである」と記したらしい。ルターは宗教改革を起こしてプロテスタントという宗派を作ったが、プロテスタントはカトリックよりも緩く、免罪符とかいらないからとにかく神を信じなさいという教義になっている。

f:id:Ada_bana:20160619011904j:plainアレッサンドロ・ヴァリニャーノ

こうした理由から、親鸞は生涯、弟子はとらなかったとされる。なぜなら、自分が人を導いているわけではないからだ。すべては阿弥陀仏の導きなので、たとえ浄土真宗に新しく入った人でも、個々人はすべて阿弥陀仏に導かれているはずだからだ。そのため、浄土真宗は「選択的一神教」などとも称される。数多くいる仏様の中で、阿弥陀如来だけを選択して信仰しているからだ。

おわりに

ほかにもいろいろおもしろいことが書かれていたのだが、書きはじめると終りがなくなる。とにかく、本書を読んで徒花が一番なるほどなぁと思ったのは「浄土真宗は選択的一神教」と考えられる点と、あの名言が持つ本当の意味だ。

そもそも、人間がどうにかコントロールできる範囲というのは、じつはすごく狭い。私は私しかコントロールできず、たとえ家族や恋人であろうと、他人の気持ちや行動をコントロールすることはできないのだ。もっといえば、私の自分の体ですら、私はコントロールできない。となれば、私が完璧にコントロールできるのは自分の精神だけであり、これはある意味で西洋哲学における唯心論に近い考え方かもしれない。

これも書きはじめると長くなるので、やめとく。とにかく心というものはおもしろい。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。