本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『われ笑う、ゆえにわれあり』のレビュー~あなたもタバコを吸うべき10の理由~

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世の中には読んでもまったく役に立たない本がある。(そして、読んでもまったく役に立たないブログもある)

もくじ

新しい知識や技能が身につくわけでもなく、人生を変える強いメッセージがあるわけでもなく、心が打ち震える感動があるわけでもなく、時間を忘れてのめる込むような壮大なストーリーがあるわけでもない。ただ、ケラケラ笑えるだけだ。そして、ひとたび本を閉じると、数秒後に「どんな本だった?」と尋ねられても「忘れた」としか答えられないような本である。

私はほんとうは、そうした本(もしくはブログ)が好きだ。世の中の人々はとかく「有用性」とかを重視するが(グーグルのサーチエンジンとかもね)、どうでもいいことに情熱を傾け、クソの役にも立たないようなものこそが教養なのかもしれないと思う。何かの役に立ってしまう時点で、行為は娯楽性を失ってしまうのではないか、などなど。

今回紹介するのは、そんな本だ。

著者について

今回紹介する本はこちら。

われ笑う、ゆえにわれあり (文春文庫)

われ笑う、ゆえにわれあり (文春文庫)

 

著者の土屋賢二氏はお茶の水女子大学で哲学を教えていた人物で、2010年に定年退職し、現在は名誉教授という名前の無職になっている。作家としてデビューしたのは50歳のときで、本書がデビュー作だ。

そのいきさつがまたおもしろい。そもそもは、大学内の定期刊行物?『お茶大哲学科便り』に連載していたコラムがたまってきたので、先生自ら出版社に持ち込んで本にできないかと提案したらしいのだが、「テーマが統一されてないからダメ」という理由からボツにされたという。

そこで登場するのが、土屋氏の教え子であり、エッセイスト・マンガ家である柴門ふみ氏。彼女は自身の経験から「作家と編集者には相性がある」ということを理解していたため、自分の知り合いである文藝春秋の編集者ならこの高度にひねくれた笑いを理解できるはずだとプッシュし、無事に刊行と至ったわけである(このことは、本書の解説を務めた柴門氏本人がそこで語っている)

んで、実際に発売したら、そのおもしろさからか、本は大ヒット。結局、20冊以上のエッセーを書き続け、土屋センセは人気エッセイストの仲間入りを果たしたのである。

あふれ出る文章センス

こうした事情を知ると、本書の「はじめに」の文章もなかなか味わい深いものになる。引用しよう。

以前から書きとめていたものがかなりの量になり、出版をしきりに勧めてくれる人がまわりにいなかったので、自分から出版を交渉した結果がこの本である。事前に何人かの人に読んでもらったところ、「面白くない」と言う者と、「つまらない」と言う者とに意見が分かれた。なお、公平を期すために、「非常にくだらない」という意見もあったことをつけくわえておこう。意見をいってもらったおかげですっかりケチがついたものの、少なくとも本書を正しく理解する人がいることを知って、わたしは意を強くしたのである。

上の文章を読んだだけでもその片鱗がうかがえるが、まじめ腐った文章のなかでさらりと読者を笑わせにくる。こういう笑いはバランスが難しくて、あまりに仰々しいと白けてしまうし、ささやかだと気づかれない。そのあたりの絶妙な塩梅が求められるのだが、土屋氏の文章はそこらへんの釣り合いがとてもよくとれているのである。

エッセーということで、個々のエピソードにつながりはなく、たいした目的も、読む意味もない。ただ、土屋センセが身の回りで体験した出来事を独自の視点で切り取りつつ、それについて非常に高度な哲学的考察を加えていくかのように見せている。

傾向としては「世の中の当たり前」と思われている事柄についてわざわざ小難しく考え、天邪鬼に解釈を加えていくものだ。いくつか、本のなかのエピソードを抜粋して紹介していこう。

これであなたも今日から禁煙をやめられる

苦痛という貴重な体験によって人間は練磨され、人生の意味も深く理解されるようになるのである。この経験を味わえないまま一生を終えるのは、じつに淋しいことである。私は歯のおかげで苦痛には不自由しなかったからよかったが、苦痛を知らない人にはなんとかして代わってあげられなかったものかと思えてならない。

苦痛が希少になった時代にあって、苦痛を体験することのできるほとんど唯一とも言える機会がある。それは禁煙であって、肉体的、精神的、形而上学的、倫理的、という多角的で複雑な苦痛が体験できる。

ただしその前に、少なくとも一日四十本はコンスタントに吸うようになっていなければならない。できればそれを二十年程続けていることが望ましい。この習慣さえ確立してしまえば苦痛はこっちのものである。不幸にして、禁煙を始める前にガンになったとしても、ガンの苦痛を味わうことができる。

あえてこの文章に解説を加えるのも無粋なので、さらに、タバコを数個との有益性についての照明がいくつもあげられているので、次にそちらを紹介しよう。

証明①

タバコを五十年吸い続けた人は少なくとも五十年は確実に生きたはずである。
ゆえにタバコを長期間吸えば吸うほど長生きする。

証明②

タバコを一本吸っただけで死ぬことはない。すでにタバコを吸っている人が一本よけいに吸ってもその一本が原因で死ぬことはない。
ゆえに(数学的帰納法により)何本吸ってもそれが原因で死ぬことはない。

証明③

未来は予測不可能であるから、今日のうちにできることは今日のうちにやるべきである。
禁煙は今日一日で実行することはできない(一日やめたくらいでは禁煙とは言えない)。ゆえに今日のうちに喫煙すべきである。同じ論拠により次の日も喫煙すべきである。ゆえに毎日喫煙すべきである

証明④

人間の誕生からコロンブスがタバコをもたらすまでの時期と、それ以後の時代を比べると、人間の寿命はのびている。ゆえに長い目で見ると、タバコは寿命をのばす効果がある。

証明⑤

病気になったときはタバコをやめると病気が治ることがある。タバコを吸っていない人には「タバコをやめることによる治癒」はありえない。ゆえにタバコを吸っているほうが健康になりやすい。

証明⑥

禁煙するのは健康になるためであり、健康になるのは快適さのためである。ではその快適さは何のためか、と問われたら、それ以上答えることはできない。したがって禁煙が何のためになるのか、最終的にはわかっていない。
しかるに喫煙は、快楽のためという有益かつ明確な目的がある。有益な目的を持つ行為の方が、無目的な行為より尊い。ゆえに喫煙のほうがのぞましい。

証明⑦

タバコがおいしいのは、身体が自然に要求するからである。身体が自然に要求するものは、体によい。ゆえにタバコは身体によい。

証明⑧

タバコをやめられないのは弱く悪い人間である。親鸞は「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」と言った。親鸞は歴史上の偉大な人物だから、その言葉はすべて正しい。ゆえにタバコをやめられない人のほうがより往生しやすい(これはもちろん、たやすく死んでしまうという意味ではない)。

証明⑨

お金を払わないと手に入らないものは、無料のものより価値がある。タバコの煙を吸うにはお金が要るが、きれいな空気を吸うのは無料である。ゆえにタバコを吸うほうが価値のある行為である。

証明⑩

ソクラテスは人間である。
人間はすべていつか死ぬ。
ゆえにタバコは有益である。

(これは論理学の教科書に出ている推論をタバコに適用して容易に得られる推論である)

老人になるのは素晴らしい

老人というと、とくに昨今は「老害」などと煙たがられることも多くなってきているが、いやいやろうじんになつことこそ素晴らしい。

●年をとると無駄な体の動きがなくなり、動作が必要最小限になる(場合によっては必要最小限の動きすらしなくなる)。無駄を徹底的に排した動作は能の美しさを思わせる。

●精神的にも、老人は無駄がない。人の名前とか、電話番号とか、自分の名前など、いちいち覚えるに値しないものをダラダラと記憶しない。

●老人になると日常生活でスリルが味わえる。若い人はスリルを味わうためにジェットコースターに乗ったりオートバイに乗ったりするが、老人になるとちょっとした階段の上り下りがスリリングになる。

●言葉遣いが優雅になる。若者は老人に対して「じじい」などと口汚くののしるが、老人には「青二才」「ハナタレ小僧」「ガキ」のように、上品な言い回ししかない。

●老人になると、ただ現状を維持するための非建設的な習慣から脱却できる。たとえば、総入れ歯になれば歯磨きという慣習から開放される。ハゲになれば髪の毛を洗わなくてもいい。

●暑さ寒さに強くなる。次第に、いまが冬なのか夏なのかわからないくらいに強い耐性がつく。

●老人になると自己防衛本能が発達する。聴きたくない音が自然とシャットアウトされるし、見たくもない妻の顔がぼやけてくる。それに、聞こえたり見えたりしても、聞こえない(見えない)ふりをすれば問題なくなる。

●老人になれば、伝家の宝刀「最近の若い者は」が使えるようになり、無条件に相手を見下すことができる。自分より若い人間がこの言い草を論破することはまずできない。もし反論されても、「昔はこうだった」と長々繰り返し話せば、やがて相手は反論をあきらめるだろう

女性はとにかく素晴らしい

1.美しい

女はみな、美しい。たとえ確信が持てなくても、1センチ四方で探せば必ず美しいところが見つかるものである。しかも、女性はその美しさに日々磨きをかけている。それに対し、つねに女性の美しさを賛美するのが男の義務である。机や生ゴミなどにも抵抗なく言えるように練習しておこう。

2.清らかである

女は本能的に上品である。アメリカでは既婚女性の3人にひとりは不倫経験があるという統計もあるが、これはきっと「不倫」という言葉の意味すら知らないくらい清らかな証だろう。

3.繊細である

女は生まれつき、男とは神経のつき方が違う。怒る、注文する、注意する、叱る、悪口を言う、ダダをこねるなどの行為を、どんな細かい点でもゆるがせないで実行する。それに比べて、男は粗野で無神経なので、そういう細かいところに目が届かない。

4.教育熱心である

女は教育熱心で、自分の子どもはもちろんのこと、自分の配偶者となった男も積極的に教育する。「男というものは目を離すとなにをするかわからない」という洞察を生まれつき持っているのは、女だからだ。

5.勇敢である

サルの世界でも、見慣れないものに興味を抱くのはメスのほうである。オスは臆病だ。女は新しい環境に飛び込んで、気に入らない人間などを速やかに排除し、無理にでも順応してしまう。

6.平和的である

女は暴力を振るわない。振るうのは、だいたい野蛮な男のほうである。彼女たちは腕力の変わりに、言葉によって事態を解決しようとする。そもそも、女は暴力などに頼らなくても、言葉だけで男をコテンパンに叩きのめすことができる。わたしが神に感謝するのは、女に腕力などを与えなかったことである。もし女が腕力も持ち合わせていたら、男は一生、女の奴隷であったろう。

7.やさしい

女はとにかくやさしい。そして、そのやさしい感情は、基本的に弱者に向けられる。女はみな謙虚であるが、一番の弱者は自分自身であることをよく知っている。そのため、やさしさは往々にして自分自身に向けられる。そして、女はあまりにもやさしいため、他人に対しても「弱者にやさしくする」ように求める。女はあまりにもやさしいため、ゴキブリ一匹殺すことはしない。手にかけるのはあまりにも忍びないので、女は常に男に命じて、ゴキブリを殺させるのだ。

徒花がけっこう乱暴にまとめた。

おわりに

なんかほとんど引用になってしまったが、だいたいどんな本かわかってもらえたと思う。エッセーをレビューするのはけっこうムツカシイ。

冒頭に述べた有用性については、よくよく考えるとこうした本も「無価値な娯楽性を求める読者を満足させる」という点で有用になってしまっているのかもしれないし、結局のところ、いくら有用性を排除しようとしても、人間がある意思を持って何かしらの行為を行った場合、どんなにがんばってもどこかしらに有用性が生じてしまうものなのかもしれない。役に立たないように生きようとがんばっても、どうしても「誰かの役に立ってしまう」ものなのかもしれない。

もちろん、本エントリーは、一般の感覚からいえば、「読んでもまったく何の役にも立たないブログ記事」のひとつであるし、できるだけ多くの人にとってそうであるように願っている。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。