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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『新しい道徳』ほかのレビュー~難しい本に出会ったら、読むのはやめてしまおう~

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ふとしたきっかけがあり、「倫理」に興味を持った。

もくじ

1冊目に売れている本を読む(『新しい道徳』)

そして、倫理といえばこの本が最近売れているなぁと思い出したので、購入して読んでみた(倫理と道徳は同じ意味の言葉)

著者についてはいまさら説明する必要がないので紹介を省くが、本書はつまるところ、北野武氏が現在の道徳の教科書の内容についてツッコミを入れまくる本である。細かい内容は本書を読んでくれ。

フランクな文体で書かれていて、ページ数もあまりないので大変読みやすい。細かい部分は本書を読んでもらえばいいが、根幹となるメッセージは次のようなものである。

道徳(倫理)なんて時代や社会によって変化していくし、人によって微妙に違うものなんだから、紋切り型のものとして誰かに押し付けられて守るなんてバカバカしい。
それよりも大切なのは、与えられた疑問に道徳を持ちながら自分で考え、自分なりの道徳を作っていくことなのだ。

各論については北野氏の主観が多分に入っているので首をかしげるところもあるが、大筋としては「そうだなぁ」と納得できる。とはいえ、北野氏はあくまでも道徳の素人なので、これだけで簡単に納得してしまうのは危険だ。

2冊目に専門家の新書を読む(『功利主義入門』)

さて、徒花としてはもう少し専門家の人の考えも知ってみたいと思い、次にこちらの本を読んだ。

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)

 

こちらは京都大学倫理学を教えている、いわば「その道のプロ」が書いた本である。功利主義というのは倫理学のスタンスのひとつで、ほかには「快楽主義」「幸福主義」「利己主義」「義務論」などがある。

おもしろいのは、本書の冒頭で『新しい道徳』と同じようなことを述べていたという点だ。ちょっと引用しよう。

倫理には、二つの学び方がある。一つは、「嘘をついてはいけない」「約束をしたら守らないといけない」「人に暴力を振るってはいけない」といった、社会の中で生きていくうえでわれわれが守るべきルールについて学び、実践できるようになることだ。これは、この本を手にする多くの人にとっては、すでに小さなころから親や先生たちに教わってきたことだろう。「道徳教育」とは、この意味で用いられることが多い。

もう一つは、今まで教わったルールについて、疑問を発し、自分なりの答えを出せるようになることだ。たとえば、「嘘をついてはいけない」というルールについて、「なぜ嘘をついてはいけないのか?」とか、「どんなときでも絶対に嘘をついてはいけないのか、あるいは嘘をついてもいいときはあるのか? それはどんな場合か?」と問いを立てて、この問いに自分なりの仕方で答えられるようになることだ。このように、自分がこれまでに身につけてきた考え方について、改めてその根拠を考えたり、その正確な意味を問うたりすることを「批判的思考」と呼ぶ。すると、われわれの倫理観について批判的思考をすることが、「倫理学」あるいは「道徳哲学」と呼ばれる学問の主題だと言える。

このことを受けて改めて北野氏の主張を振り返ると、「現代の日本では『道徳教育』は行われているが、『批判的思考』や『倫理学』を学ぶ機会がないから、なぜ倫理を守るべきなのかを答えられない大人が多いことが問題なのだ」と言い換えることができる。そう、じつは北野氏が『新しい道徳』で述べている主張は、倫理学のプロからすれば「はじめに」で述べるような当たり前のこととして認識されていたのである(もちろん、本書ではこのことがあまりにアッサリ述べられすぎているので、最初からこちらの本を読んでも北野氏の本を読んだ時のような問題意識を読者が持つかどうかは別問題だが)

ここらへんは、北野氏の著書を読むだけで終わっていたら気づけなかった視点かもしれないし、この順番で読んだからこそ気づくことができたことかもしれない。

功利主義とカントの義務論について

功利主義とは、簡単に説明すると「社会全体の快楽(幸福、または選好の充足)を最大にするような行動をみんなでしようぜ」という主張であり、もっと端的に表現するならば「最大多数の最大幸福」を目的としている。RPGゲームなどで「ヒロイン1人を救って世界を滅ぼすか、それともヒロイン1人を犠牲にして世界を救うか」という選択肢に主人公が悩んでいるとき、

「ばか。世界を救ったほうが圧倒的に社会全体の幸福度は高いだろ」

と断言するのが功利主義者であると考えてもらえればだいたいOKだ。

とはいえ、上の例からもわかるように、功利主義は時として人々の直観的な正義感に照らし合わせると冷酷と受け取られる判断を下しかねない。有名なのはマイケル・サンデル教授の授業で有名になったトロリー問題だろう。これについては、以下のサイトをはじめ、ちょっと検索すればいくらでも解説が出てくるので、適宜調べてもらえれば幸いだ。

※批判に晒されがちな功利主義だが、現代の救急医療ではこの考えに基づいた「トリアージ」が行われている。これについては映画ジェネラル・ルージュの凱旋を見てもらうとわかりやすい。映画としてもおもしろい。

ジェネラル・ルージュの凱旋 [DVD]

ジェネラル・ルージュの凱旋 [DVD]

『新しい道徳』に比べれば専門用語などが入って若干難易度は上がるが、それでも倫理学の知識が少ない一般の人に向けて易しく書かれている。おススメの本だ。

基本的には功利主義の紹介がメインだが、その対極に位置づけられるカントの「義務論」などについても説明されている。これは結構難しい(し、長くなる)ので説明は省くが、一言で説明するなら「汝の信条が普遍的法則となることを、その信条を通して汝が同時に意欲できる、という信条に従ってのみ行為せよ」ということである。くわしくは本書を読んでくれ。

3冊目で地雷本に当たる(『倫理学の話』)

さて、この2冊を読み終えた段階で私の腹は「次のブログのテーマは倫理で決まりだな」と決まっていた。しかし、功利主義以外にも倫理学にはさまざまなスタンスがあり、どうせならそれらもまとめて説明したい。というわけで、次に私が選んだ本がこちらだったのだが、

倫理学の話

倫理学の話

 

これが完璧に地雷だった。

なにしろ、読んでも読んでも、内容の7割くらいが理解できないのである。「7割しか理解できない」のではなく、「7割が理解できない」のだ。これには参った。表紙の写真はちょっとユーモラスな感じでとっつきやすいが、いざ読み進めるとチンプンカンプンになってしまう。2冊目で少しばかり倫理学の基礎知識がついたような気がしたが、そんなことはなかった。一部を引用しよう。

カントでは、道徳法則の完全な遵守(カントはこれを最上善と呼びます)への到達は人間の意志だけで原理的には可能です。だからこそ、カントは、「道徳は道徳自身のためには(中略)宗教などまったく必要とはせず、むしろ純粋実践理性により、道徳だけでやっていける」と主張できたわけです。

ここに道徳(倫理)は信仰から独立に確立されます。近代化とは特定の宗教に依拠しない世俗化と重なり合います。ですから、カント的な意味での人間の尊厳の概念は(したがってまた、それにもとづいて認められる基本的人権もまた)、近代化が進んでいるならキリスト教の伝統を持たない社会にも妥当しえます。こうして人間の尊厳という観念は、人間を超越した神の権威から独立します。しかしながら、人間のなかの超越――人間として存在しているとは人間のあるべきありようをつねに求められていることである――というその確信は残ります。その思想は、もはや神の存在に依拠しないがゆえに、人間自身による法則の表象と自立という形に変容します。それゆえ、人間を尊重するということは、自分や他人の欲望をたんに人間だからという理由で肯定することではありません。人間の尊厳とは、人間以外の存在者を人類の欲望のままに支配する視覚が人間にあるという意味ではありません。(以下略)

ですます調の丁寧な文章なのできっと悪意はないのだろうが、もう、なにをいっているのかサッパリわからない……。日本語として正しいのかすら判別できず、「ゆえに」とかいわれても、その前の文脈となにがどうつながっているのか私の脳みそでは処理しきれないのだ。

誰にだって読めない本があるだろう!(ここから本題)

私は倫理について詳細に述べる意欲が萎えてしまったので、以下、このように「自分の脳みその許容範囲を超えた本に出会ったとき」の対処法について述べていくことにする。

このブログを読んでいる人は少なからず読書家の人が多いだろうが、あれこれ本を読んでいると、たまに「最後まで読みきれない本」というのが出てくるだろう。別に、上記のように専門的な内容の本でなく、世間一般で名作と呼ばれている本でも「なんか読む気が失せる」本というのは、個々人であると思う。私の場合、小説ではこちらの本が当てはまる。うげらぽん。

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

 

いまは文庫版も出てるよ! 文庫化するくらいだから、人気の作品なのだ。

天帝のはしたなき果実 (幻冬舎文庫)

天帝のはしたなき果実 (幻冬舎文庫)

 

「探偵小説」シリーズと「イエユカ」シリーズはお楽しめたんだけどなぁ・・・・・・。

探偵小説のためのエチュード 「水剋火」 (講談社ノベルス)
 

 

読めない本は著者の責任にしてしまえ

さて、こうした「読んでも理解できない本」に出会ったらどうしたらいいのか? そこで賢明なる読書人諸兄がとるべき行動は「諦める」だ。

そもそも本を読むとはどういうことなのか? ただすべてのページをめくり、目を通せば「読んだ」ということにはならない。内容をそれなりに理解し、咀嚼して楽しむことが読書の目的であるはずなのに、意味がわからない文字の羅列をひたすら眺めて苦行にするのは本末転倒である。

だとすれば、無理をしてその本を読みきろうと四苦八苦するよりも、さっさと諦めて次の本に期待したほうがいい(経済学ではサンクコストともいう)。そして時が経ち、年をとれば、その本はもしかすると読めるようになるかもしれない。私も、『天帝のはしたなき果実』を読んだのは大学生のときだったので、もうそろそろ再チャレンジしようかと思っている。

ちなみに、読書の哲人・ライフネット生命会長の出口治明氏も、恩師である高坂正堯氏から聞いたという次のような言葉を残している(まぁこの言葉はビジネス書などの実用書に限った話であって、小説には当てはまらないかもしれないけど)

「古典を読んで分からなければ、自分がアホやと思いなさい。新著を読んで分からなければ書いた人がアホやと思いなさい(即ち、読む価値がない)

とにかく、読みきれない本があった場合、自分に非があると考える必要はない。とりわけ、読書好きな人は著者に対して多大な尊敬を抱きがちなので、「この本の内容がわからないのは自分の読解力が低いせいだ」と自分を責める傾向がある。しかし、「著者が悪い!」と相手のせいにしてしまうのも、精神衛生的なバランスを取る意味では必要な考え方なのだ。

すぐに諦めるのは、それはそれでNG

ただし、ここでひとつ、忘れてはならないことがある。それは、どんなに難しくて投げ出したい本でも「すぐに諦めてはいけない」ということだ。

そもそも、現時点での自分の頭で理解できる内容の本ばかりを読んでいては、いつまでたってもそれ以上に難しい内容の本を読むことはできない。ちょっと理解できない本に出会ったら、しばらくは我慢して読み進めよう。そして、それでもやっぱり内容がチンプンカンプンだった場合は、著者のせいにして投げ出してしまえばいいのだ。(実際、徒花は『倫理学のはなし』を我慢しながら7割くらい読み進めてから「やっぱりダメだ!」と書架に眠らせることにした)

一番いいのは、「ちょっと難しく感じるけど、じっくり読めば理解できる」というレベルの本だろう。そういう本に出会うのはなかなか難しい。こればかりは、数をこなして本の選択眼を磨いていくしかない。健闘を祈る。

おわりに

倫理学の話をしようとしてこんな結論になってしまうとは思いもよらなかった。特に徒花のブログの場合、途中まで書いて数日後にその続きをかき出すということをしているので、ときたまこういう予期せぬ展開が起こる。

仕事でも同じだ。ある人に、最初はAというテーマで原稿を書いてもらおうとしていたのに、企画が進むにつれていつの間にかBというテーマの原稿になり、最終的にはCというテーマの本ができあがった……ということはたまーにある。売れれば、まあいいのだ。

 

というわけで、お粗末さまでした。