本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

伊達政宗について勉強することを強いられてるんだ

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今度、付き合っている恋人のご両親のところにご挨拶に行くことになった。

もくじ

ちょっと憂鬱だ。

なぜ憂鬱かというと、私は彼女のお父さんに嫌われているのである。なぜ嫌われているのかというと、私が一時期、両親の同意を得ずに勝手に同棲していたからだ。べつに今時分、同棲くらいでガタガタ抜かすなと思うが、娘を持つ父親の心情は今の私にはわからないので、私がガタガタ抜かしても致し方ない。こういうときは「そういうものだ」という諦観の念を持つに限る。

というわけで、そんな、私のことを嫌っている父親のところに出向き、徒花はご挨拶をしなければならないのである(結婚の申し込みではない)。そしてそれは、初対面でまず謝罪から始めるなかなか珍しいケースである。(余談だが、徒花はこれまで仕事で幾度も謝ることを繰り返してきたので謝ることにはなかなかの自信がある。ポイントは「相手が何に怒っているのか」を明確につかむことだ。これを外すと、謝ることがまったく逆効果になってしまうので要注意だ)

目下の悩みは「スーツを着ていくか否か」だ。友人に相談してみたら「スーツで行くのが当然だろバカちん」といわれた。私は普段、よほどのことがない限り、仕事でスーツを着ない。むしろ、仕事で毎日スーツを着たくないから編集者になったようなものである。とくにネクタイが嫌いだ。毎日スーツを着て、ネクタイで首を縛りながら電車に乗っている人には尊敬の念しか抱けない

仙台人の仙台愛は強い……気がする

さて、彼女は仙台出身なので、彼女のご両親は仙台に暮らしている。ということは知っていたが、先日、ふと彼女から伊達政宗のこと勉強しといてね。クイズを出されるかもしれないから」と、意味がよくわからないことをいわれた。何そのバラエティ番組的な展開。

徒花「お嬢さんとお付き合いさせていただいています、徒花です。ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません。また、ご両親の同意を得ないまま彼女と同棲をしてしまい、ご心配をおかけしましたこと、重ねて謝罪いたします」

父「ほんとに、そういうの非常識だよね。普通、同棲はしないでしょ。最初聞いたとき、そいつを隻眼にしてやろうかと思ったよ。・・・・・・で、君は仕事は何をやっているのかね?」

徒花「本の編集者をしています。最近ではこういう本を作りまして・・・(サッ」

「ではここでクイズです」

徒花「ひぇっ!?」

父「伊達政宗の幼少時の名前はなんでしょうか?」

徒花「えっ、えっと・・・・・・景虎?(←これは私の出身地、新潟県の戦国武将・上杉謙信の幼名)」

父「不正解! 帰れっ!! 二度と顔を見せるな!!!」

徒花「どひゃー・・・・・・」

恐ろしい。。

この件とは直接的な関係はないかもしれないが、宮城県民、とくに仙台市民の仙台愛はとても強いように感じられる。以前、たしか日テレの『月曜から夜更かし』で仙台市民は仙台が日本を代表する5大都市に入っていると思っている」というテーマが放送されていたのだ。

日本の5大都市は一般的には「東京、大阪、名古屋、福岡、札幌」なのだが、仙台市民に限っては「東京、大阪、名古屋、福岡、仙台」だと思っている人が多い、という内容である。きちんとした統計を取っているわけではないし、テレビの(しかもバラエティ番組の)インタビューなんて偏向極まっているだろうから一概にはいえないが、少なくともそのとき写っていた人たちは仙台に対して深い愛情を持っているように感じられた。

ちなみに、私は新潟出身である。しかし、あそこで写っていた人ほど、新潟に対する愛着はない。新潟は本当に何もない。戦国武将の上杉謙信はわりと有名だが、どちらかというと田中角栄に食われている感じがする。私もきちんと統計を取ったわけではないから確かなことはいえないが、新潟県民の中で新潟に対して深い愛情を抱いている人というのはあまりいないんじゃないだろうか。なんというか、新潟はいろいろ中途半端なのだ。ど田舎というほど田舎でもないが、5大都市に数えられるほど都会でもない。

伊達政宗の勉強をしよう!

こういういきさつがあるわけで、私はいま、伊達政宗について勉強せねばならない。本当は書籍をいくつか購入して読むのがベストなのだろうが、あいにく私の財布はあまり余裕がないし、さすがに会社の経費で買うのもちょっとはばかられる。ので、今回のエントリーに関してはネットで収集した情報オンリーになってしまうため、信憑性に関して疑わしい箇所があるかもしれないことを最初に断っておく。

というわけで、まずは基本情報を洗っておこう。

戦国時代も後半に差し掛かった1567年に生まれた伊達政宗出羽国陸奥国を治め、江戸時代になってからは初代仙台藩の当主として辣腕を振るった英傑。特徴は二つ名「独眼竜」でわかるように隻眼だったこと。これは幼少時、病気によって失ったとされている。

BASARA伊達政宗を見るとテンプレ通りの「いけいけオレサマキャラ」で、実際の伊達政宗も野心は高かったらしいが、実際はそのときどきの一番の有力者の下につき「いつ裏切るかな?」と思わせるだけ思わせておいて、結局死ぬまで一度も裏切らなかった人物(合戦のとき、邪魔だったからという理由で味方の軍勢を壊滅させたことはあるが)。あと、徒花の印象では、「乱暴そうに見えて意外と世渡りがうまい人」という印象を持った。では以下、もう少しくわしく見ていこう。

リボルテックヤマグチ No.079 戦国BASARA 伊達政宗

リボルテックヤマグチ No.079 戦国BASARA 伊達政宗

 

幼少時~視力を失ったコンプレックスを克服した方法~

1567年に生まれた政宗(幼少時の名前は梵天丸(ぼんてんまる)。これ、テストに出るよ)は3歳のときに天然痘を患って方目の視力を失う。これだけでも不幸だが、それがどうも実母のお気に召さなかったらしく、すっかり母親から嫌われた政宗くんは父・輝宗(てるむね)の働きかけで虎哉宗乙(こさい・そういつ)というお坊さんの元に預けられる。

f:id:Ada_bana:20160205183734j:plainパパンの伊達輝宗

この坊さんが政宗に教えた物事の考え方のひとつとされるのが「へそ曲がりの極意」である。痛かったら「痛くない」と言え、悲しければ笑え、といった具合に、自分の気持ちと反対の行動をしろということを伝えたのだ。普通であれば、大病を患って母親に嫌われた政宗くんはそのまま育てば気の弱い・コンプレックスの固まりのような男になっただろうが、この坊さんに厳しく教育されたことが、その後も政宗の人格形成に大きく影響している。宗乙はその後も、政宗にとって生涯にわたる師匠となっている。

そしてすくすくと育った政宗くんは13歳のとき、おそらくカップリングの相手としてももっともよく選ばれるだろう片倉小十郎景綱(かたくら・こじゅうろう・かげつな)と出会う。景綱はその後、生涯にわたって仕えた名参謀で、政宗の「右腕」もしくは「右眼」と呼ばれた。

f:id:Ada_bana:20160205183913j:plain片倉小十郎景綱。BASARAではこんな感じ。↓ 

戦国BASARA3 片倉小十郎の章 (講談社BOX)

戦国BASARA3 片倉小十郎の章 (講談社BOX)

 

最も有名なエピソードのひとつは、政宗の右目を抉り取った逸話だろう。政宗は右眼の視力を失ってはいたがまだ眼球そのものは残っていて、困ったことに、それがまぶたから飛び出して不恰好になっていたのだ。それがまた、政宗に大きな劣等感を抱かせ、暗い・無口な子にしていたのである。そこで景綱は短刀でその右目を抉り取り、政宗の性格を変えるきっかけを作ったとされているのだ(後々のことを考えると、若干強情にしすぎた感もあるが)。ちなみに、彼は政宗の10歳年上なので、ちょっと年の離れたお兄さん的な感じだった。

家督相続~いきなり虐殺事件を起こす~

さて、そんな感じで壮健に育った政宗くんは15歳のときに近隣の大名・相馬氏との合戦で初陣を飾り、18歳で家督を継ぐ。ちなみにこのころ、本能寺の変が起こり、時代は大きく動こうとしていた。

さて当時の東北はまだ最上、葛西、大崎、相馬、岩城、葦名などの各勢力が拮抗状態にあったのだが、当主となった政宗(ちなみに、政宗という名前は家督を継いだときから始まる)はさっそく攻勢を仕掛ける。その最初の標的となったのは小浜城主、大内定綱(おおうち・さだつな)だった。というのも、定綱は最初、政宗の家来になるとか言っておきながら、やっぱり葦名氏のほうに寝返ったので、政宗がそれにブチ切れたのである(最初は葦名氏を滅ぼそうとしたが、失敗したので定綱に標的が切り替わった)

というわけで1585年、まだ18歳という学校のガラスを叩き割ってもおかしくない年齢の政宗は定綱の支配地域であった城のひとつ小手森(おでもり)城に進行。貧弱な守りだった城はすぐに陥落し、乗り込んだ政宗軍は侍はもちろん、女子どもから犬にいたるまで、そこにいた人間を残さずなで斬りで殺戮したとされる。これが政宗の悪名をとどろかせた「小手森城の撫で斬り」と呼ばれる事件である。(ちなみに、原因を作った大内定綱は小浜城すら放棄して二本松城に逃げ込み、葦名氏にかくまってもらった)

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この事件、東北のほかの戦国大名たちにとってはかなり衝撃的な事件になった。というのも、東北の人たちは互いに争ってはいたものの、徹底的に相手を壊滅させるような戦いはこれまでしてきたことがなく、互いに婚姻関係を結んだりして、ナァナァな状態を維持していたからだ。そこに「大人たちの常識なんてクソくらえ」という政宗が大暴れを始めたのである。

父殺し~悲劇か陰謀か~

さて、小手森城撫で斬り事件を聞いて戦々恐々としたのは、大内氏に協力していた二本松(畠山)義継(にほんまつ・よしつぐ)である。予想通り、次は二本松氏を攻撃してきた政宗に対し、義継は政宗のパパン・輝宗に仲介を頼んで降伏。さすがに実の父親に頼まれたので二本松氏を滅ぼすわけにもいかず、領地の大部分を没収するだけで政宗は許してやることにした。

しかしこれで円満と終わらないのが政宗の人生っぽい。仲介のお礼をするために輝宗を訪ねた二本松義継が、なんと輝宗パパンを二本松城に拉致しようとしたのである。父を助けるために追いかけてきた政宗軍は粟之巣という場所でようやく追いつくが、もうすぐ相手の領地に入ってしまう。そこで輝宗が「自分ごと撃ち殺せ」と叫び、政宗も決断。鉄砲隊を使って輝宗もろとも皆殺しにしたのである。(粟之巣の変事)

ただしこれ、「なぜ二本松義継が輝宗を拉致したのか」「なぜたまたま鉄砲隊がそろっていたのか」など疑問点も指摘されている。つまり、敵との和睦の仲介をしてきた父親を疎ましく思った政宗がもしかしたら自分の父親を殺害する口実を探していたのではないか、という説もあるのだ。とにかく、政宗としてはこの父親の死を口実に、今度は二本松城の攻略へと乗り出すのである。

人取橋の戦い~命からがら逃げ延びる~

父親の仇をとるべく、初七日のあとに政宗はすぐさま二本松城を包囲。しかし、ここで政宗軍は二本松氏を助けるべく救援に駆けつけた佐竹・葦名・岩城氏などほかの東北大名の連合軍と激突し、数の力で劣勢に立たされる。実際このときかなりピンチだったらしく、政宗自身も銃弾や矢を体に受けている。(人取橋(ひととりばし)の戦い)

そしてこのとき活躍した政宗の臣下のひとりが鬼庭良直(おににわ・よしなお)。齢73歳のおじいちゃんだったが、政宗軍が敗走を始めると「今生の別れに」と部下60騎を引き連れて殿(しんがり)を務め、敵軍を200余り討ち取って戦死した。そのおかげで、政宗は命からがら逃げ延びることができたとされる。ちなみに、1987年のNHK大河ドラマでこの役を務めたのは、いまは亡きいかりや長介氏である。

遅れてきた戦国武将~悩んだ挙句、秀吉の配下に~

人取橋では負けてしまったものの、その後、政宗は東北の諸大名と大崎合戦、郡山合戦などをしたり、摺上原の戦いで葦名氏を滅亡させたり、弟の小次郎をサクっと殺したりした。あと二階堂氏もついでに滅ぼしたりして、いつのまにか政宗の支配権は現在の山形、岩手から宮城、福島にまでまたがる広範囲に及ぶようになり、勢いを増していった。

が、そうした政宗の勢いに待ったをかけたのがこれまたいつのまにか関白になっていた豊臣秀吉である(実際にはもっとも前に「私戦はしちゃダメ」とお触れを出していたのだが、政宗はシカトして戦争してた)。1590年に秀吉は小田原攻めを始めていて、この戦いで自分の側につけと政宗に命令していた。政宗は最初、どちらの側につくべきか決めかねたが、さんざん無視したあと秀吉の側につくことを決定。結果的に秀吉は小田原攻めを成功させ、応酬し起きによって東北地方も支配下に置いたので、政宗の決断は正しかったことになる。

f:id:Ada_bana:20160205191356j:plain復元された小田原城

なお、伊達政宗「遅れてきた戦国大名といわれているが、もし豊臣秀吉のような絶対的強者のいないせめてあと10年くらい前にうまれていたら、彼が全国を統一したかもしれないという念がそう言わしめているのである。

戦国の伊達者~秀吉への言い訳エピソード~

さて、とりあえず豊臣がたについた政宗だが、やはり返事が遅かったため、秀吉からの信頼は薄い。最初は秀吉にお目通りすることも叶わなかったが、そこで政宗は「せめて千利休にお茶を習いたい」と突拍子もないことを言い出したのである。それでようやく秀吉に面通しすることがゆるされたわけだが、そこでさらに白装束に着替えて登場。「失礼なことをしたんだから、死ぬつもりで来ました」ということだ。豊臣秀吉はこういうパフォーマンスが好きなので、結局、政宗は大したお咎めナシで済んだ。ちなみにこれは、参謀の片倉小十郎が提案したアイディアとされている。

f:id:Ada_bana:20160205191251j:plainサル

もっとひどいのは 葛西大崎一揆の一件。大崎氏や葛西氏は秀吉の見方にならなかったので奥州仕置にてお取りつぶしになったのだが、このときの混乱に乗じて政宗は大崎・葛西での一揆を扇動し、どさくさにまぎれて自分の領地を増やそうと画策していたのだ。しかし、それが秀吉にバレ、政宗は呼び出しを食らう。そしてそこで政宗が一揆を扇動していたという証拠の書類を見せ付けられるのだが、「これは自分の花押じゃありません。本物の自分の花押は押したあとに印をつけるのです」と断言したのだ。しかも金色の十字架を持参して、「もし疑うようなら自分を磔にしてください」とまで言う始末。こうして、この一見もちょっと所領を減らされるだけの罰で済んだ。

さらに、朝鮮出兵の第一弾・文禄の役に参戦したときには自分のところから出した軍隊に派手な鎧を着せて聴衆の歓心を集めたりして、中身のともなわない派手な装いを「伊達」と表現するようになったのである。

関が原の戦い~東軍側につくも大した活躍はナシ~

さて、朝鮮出兵に失敗して豊臣秀吉が世を去り、時代の趨勢を握るのが徳川家康になってきた頃、政宗は家康と親族同士を婚姻させたりして、仲を深めていた。今度はちゃんと、家康に信頼されるようにしていたのである。政宗は30代前半くらいだった。

反対に、家康に対して挑戦的だったのが越後の英雄・上杉謙信のあとを継いだ上杉景勝と、その参謀・直江兼継だった(このコンビも政宗、小十郎のように幼い頃からの長いつき合い)。とくに有名なのが、関が原の合戦の原因になったとされる、家康にケンカを売った直江状」。その内容は、ここらへんがわかりやすくておもしろい。

とはいえ、じつはこれ、上杉氏と石田光成が考えた策略だった。直江状に激怒した家康の軍勢は会津を征伐すべく北へ向かったが、その隙に西から石田が軍を進めて家康を討ち取ろうとしたのだ。しかし、石田光成の挙兵を知った家康はすぐに会津征伐を中止。方向転換して石田ら率いる西軍と関が原にて相見える。こうして、天下分け目の合戦が開始されたのだ。

f:id:Ada_bana:20160205191103j:plain石田光成

一方、上杉氏も放っておくわけにはいかない。というわけで同じ頃、上杉vs伊達の戦いが繰り広げられていた・・・・・・というわけではなく、上杉氏と争っていたのは最上氏であり、一応政宗も最上氏に援軍は送っていたが、メイン戦力ではなかった。ぶっちゃけ、関が原では政宗はさほど活躍しなかったのである。むしろ、また一揆を誘発させて自分の領土を広げようとしたことが家康にバレて、「100万石のお墨付き」を反故にされたりもしている。やれやれ。

大阪の役~味方を攻撃し、真田幸村に笑われる~

とにかく世の中は徳川のものになり、政宗は仙台藩の初代藩主に就任。仙台城の建設を開始したり、独自にエスパーニャと交流を重ねて慶長遣欧使節を派遣したりしていた(BASARAの政宗が英語を使うのはこのあたりの影響。エスパーニャはスペインだから、どっちにしろ英語ではないが)

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使節団員に贈られたローマ市民権証書

しかし、まだ戦乱は終わっていない。豊臣方の残党と争った2度にわたる大阪の役(冬の陣、夏の陣)に政宗は出陣し、活躍している。・・・・・・とはいえ、この争いでは味方であるはずの神保相茂(じんぼう・すけしげ)の部隊が伊達軍によって壊滅させられたともいわれている。その理由が「先行していた神保軍が総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」という理由。さらに水野家家中3人を味方討ちしたという話もあるし、弾薬の不足や兵の負傷などを理由に対真田信繁(幸村)との争いを避けたことで「関東武者に漢はいない」と行き村に嘲笑されたなど、あまりよろしくないエピソードが多く残っている。このころには40代後半だが、暴れん坊ぶりはまだまだ健在だ。

f:id:Ada_bana:20160205191740j:plain真田信繁(幸村)

晩年~領地の整備もきちんとやったよ~

いろいろむちゃくちゃなことはやってきた政宗だが、徳川家からの信頼はなぜか厚く、3代将軍・家光からは「伊達の親父殿」として慕われていたらしい。戦を経験したことのない家光からしてみれば、戦国の世で実際に活躍したその世代は尊敬の的だったのだろう。

f:id:Ada_bana:20160205190539j:plain3代将軍・家光

また、意外な一面では料理が趣味で、いまや仙台のお土産品として有名なずんだや凍り豆腐(高野豆腐)は政宗が生み出したとされている。さらに、宮城調理製菓専門学校は伊達家御用蔵が母体となっているらしい。ただし、それだけたくさん食べたのか、晩年には太り気味で、歯もほとんど抜けていたという話もある。

あ、もちろん、河川や湊の整備、神社仏閣の建造、海路の発達、農業の促進など、政治的なこともきちんと行った。

享年は80歳。死因はがん性腹膜炎、または食道がんではないかとされている。江戸の屋敷でこの世を去り、20名の陪臣・家臣があとを追って殉死した。政宗の死を受けて江戸で7日、京都で3日、人々は服喪するような命令が下ったが、これは徳川御三家以外の人間に対してはかなり特殊なことだった。以下、辞世の句。

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

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おわりに

いろいろ飛ばした面もあるが、以上が自分で調べてまとめてみた結果である。読み返してみて、若干政宗をディスってる感がしなくもないが・・・・・・。気にしないでおこう。そういえば、先日のエントリーで読むつもりだと述べたマンガが思ったよりも早く届いたのでさっそく読んでみた。

おもしろいし、かなり画力が高いことがうかがい知れるけれど、思った以上に下ネタが多くて下品な内容なので、そこだけ要注意だ。

 

それでは、お粗末さまでした。

 

おもな参照ページ

伊達政宗 - Wikipedia

仙台市博物館 - 主な収蔵品 | 仙台市

伊達政宗とは (ダテマサムネとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

伊達政宗 「遅れてきた戦国大名」奥州独眼龍

日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒〜宿命の対決が歴史を動かした!〜|BS-TBS

【籠城戦】周辺諸侯を震え上がらせた政宗の撫で斬り|「発見!ニッポン城めぐり」運営ブログ

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