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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『日本がアメリカに勝つ方法』のレビュー~対立が先鋭化する時代の中で~

ノンフィクション 社会

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哲学の有名な話のひとつに、ソクラテスの「無知の知がある。

もくじ

無知の知

かつて、ギリシャ人の哲学者・ソクラテスは、神殿の巫女から伝言としてこんなことを聞いた。

「神様によれば、ソクラテスがこの世界でいちばん賢い人間らしいよ」

しかし、それを聞いたソクラテスはそんな神の言葉がちょっと信じられなかった。なにしろ、ソクラテスは世界の仕組みも、人間がどうやって生きているのかも、なにも知らないと思っていたからだ。そこで、ソクラテスは神の言葉が真実なのか、賢者と呼ばれる人々のところを訪問して話をして、彼らが自分よりもバカなのか確かめようとした。

その結果、ソクラテスはわかった。賢者と呼ばれる人々は、真実なのかよくわからないが、とにかく自分が知っていることだけを自慢げに語り、自分が知らないことについても知ったかぶりをしようとする。彼らは自分がいろいろなことを「知らない(わからない)」ことを認めようとしないのだ。

「なるほど。少なくとも私は『自分がいろいろなことを知らない(理解していない)』ということを知っている(理解している)。だから、その分だけ他の人間より賢いと神様はおっしゃったに違いない」

「わからないこと」がわかっていること

いろいろな本を読んでいると、どれだけ読み返してもなかなか理解できない文章がある。そこで問題なのは「わからない」ことそのものではなく、それは「私だけがわからない」文章なのか、「他のみんなもわからない」文章なのかが「よくわからない」という点だ。他の人のレビューを読んでも「わからなかった」と書いている人がぜんぜんいなかったりするので、「みんなちゃんとこの本の内容を理解しているのか……」と愕然となることも多い。私がわからない文章に対して過敏なのは、過去の職業体験が起因しているかもしれない。

私は以前、編集プロダクションで働いていた。安い給料で朝早くから終電まで働き(当然、残業代というものはない)、土日も当然のごとく出社して(当然、代休というものはない)、つねに締め切りに追われながらいろいろな人から怒られたりする仕事だ。世間一般に浸透している価値観から判断すれば「ブラック」としか表現できない職場だった*1。そのとき、社長が口を酸っぱくして私に叩き込んだ「編集の極意」のひとつが「自分がわからないものを先に通すな!」というものであったのだ。

たとえば、ライターさんからあがってきた原稿をまず私が読み、修正して社長に読んでもらっていると、社長が「この文章のこの部分、どういう意味?」という質問を飛ばしてくる。そこで私がちゃんと答えられないと、烈火のごとく怒られるわけだ。曰く、「自分でわかってないものをオレに読ませるんじゃねえ!(お金を払ってこの本を買う人たちに読ませるんじゃねえ!)というリクツである。以来、私は文章で「意味がわからない」部分については徹底的に(少なくとも自分は)わかるように修正することを仕事で心がけてきた。

※実際、著者の人に「ここの部分の意味がわからないので、もう少し丁寧に説明してください」と赤字を返すと、その部分が丸ごと削除されて返ってくることもある。その場合、「著者本人もよく考えてみたら意味がわからなかった」のか、それとも「(自分はわかってるけど)これ以上わかりやすい表現ができないし、そういう風に変えるのが面倒くさい」のか、どちらなのかはよくわからない。もしくは、その2つのどちらでもないなにか深遠な理由があるのかもしれないが、それもよくわからない。

つまり何がいいたいのかというと、一般の人に向けて作られた本――つまり編集者を介して刊行されたものであるならば、少なくとも著者と編集者はその本の内容を完璧に理解しているはずだという考えに基づいて徒花は本を読んでいるわけである(もちろん、一部の専門書や文芸書は別にして)。そして、著者が理解しているのは当然として、その文章を考え、書いたわけではない他者である編集者が理解し、直しているのなら、自分にも理解できるはずだと信じて本を読んでいるのだ。

こうした前提があるからこそ、何をいいたいのかよくわからない本に遭遇すると、自分の読解力が足らないせいで理解できないのか、それとも著者および編集者の頭脳が高尚過ぎて理解できないのか、すごく気になってしまうのである。

『日本がアメリカに勝つ方法』の概要

そして、今回レビューとして紹介する本は、結局著者がなにを訴えたかったのか、よくわからない本である。私がよくわかっていないまま紹介するのもどうかと思うが、ブログは別に「お金を払って読んでいただいているもの」でもないので、そこらへんはご勘弁願おう*2。こちら。

タイトルだけ読むと、たとえば長谷川慶太郎翁や三橋貴明氏のように、「中国は近い将来滅びるぞい! とにかく日本は大丈夫だ!」という内容の本に見えるかもしれないが、そう単純な内容ではない。 なにしろ、「思想」について扱った本だからだ。こいつは厄介である。

以前、私はブログで「B層」について取り上げられた本のレビューを書いたりした。どちらかというと本書は、こちらに近い。

ada-bana.hatenablog.com

だが、私には本書に書いてあることのうち、たぶん半分くらいしか理解できなかった。別にむつかしい専門用語をやたらめったら使っているわけではない*3。むしろ、著者の倉本圭造氏は兵庫県神戸市生まれの関西人であるためか、ときどき本文に関西弁や関西独特のノリをブッ込んできたりしているため、普通の思想本よりもは読みやすい部類に入るだろう。

www.how-to-beat-the-usa.com

問題は、倉本氏が本書を通じて読者に伝えたいメッセージが曖昧……というか、既存の価値観では端的に表現しきれないものであるため、既存の判断基準しか持っていない私が捉えきれていないということなのではないかということなのだ。ということばっかり書いていると、私のこの文章すら意味のわからないものになってしまいそうなので、徒花なりにおそらく本書で倉本氏が伝えたかったであろうことをいくつかまとめて、説明していこうと思う。

これからはアメリカ的な豪腕手法が通用しない世界になる

これまではアメリカが「世界の警察」の役割を演じて、「自由」「男女平等」「資本主義」などのイデオロギーを各国に強要してきた。それに同調する国もあったし、同調しない国もアメリカには敵わないので、文句は言いつつも面と向かって反抗してこなかったわけだ。それはまるで、立ち上がったばかりのベンチャー企業でカリスマ的な創業者が独善的に物事を決定していったほうがいろいろうまくいくのと同じである。

しかし、アメリカンなこうした手法はどうしても「対立勢力」を生み出してしまう。インターネットの発達によって世界が均一化し、アップデートされていくと、やがてその対立勢力が先鋭化して、真正面からアメリカにケンカを売るようになる。「イスラム国」や、急成長した中国、プーチン大統領が圧倒的なカリスマを持つロシアなどだ。

著者曰く、21世紀のこれからは「ゲームのルール」が変わるという。そこでイニシアチブをとれるのが、アメリカとは違うやり方をずっと続けている日本だというわけだ。

空気を読む社会、日本が世界のバランスをとる

日本は、というよりも日本人は、たとえ「自分のほうが正しい考えを持っている」と考えていても、あまりそれを相手に押し付けるようなことはしない。議論で意見をバシバシ戦わせるのではなく、みんなの意見を聞いて、誰も不満に思わないような折衷案を探っていくやり方をいろいろなところでとっている。だから、大きな会社でダラダラと長時間会議を続けるように、意思決定にすごく時間がかかる。そのため、従来の「20世紀のゲームのルール」ではどうにも存在感を示すことができなかった。

しかし、じつは21世紀のゲームのルールでは、このように丁寧に相手……というか、すべての参加者とじっくり合意を形成していくやり方ができるプレイヤーがイニシアチブを握ることができるという。決して存在感のあるカリスマ的なリーダーシップは取らないけど、ナアナアな雰囲気でなんとなくみんなの意見をまとめる。本書では「柔よく剛を制す」とも表現している。ここで、タイトルの『日本がアメリカに勝つ方法』という真の意味が明かされるわけだ。

多くの日本人がそのことに気づいていないこと

ここで問題となるのは、当の日本人たちが、こうした自分たちの可能性にまったく気づいていないことだという。たとえば、最近は終身雇用や年功序列が崩れ、実力主義を採用する会社も増えているが、それがあまりにも急激過ぎると、これまでの日本のやり方をすべて否定するような方向に向かいがちなのだ。経済的な弱者は「努力不足」と切り捨て、才能がある者が金を設けまくることを是とする。結局、いまさら単にアメリカのやり方に追従しようとしている気配すらある。議論の場でも、より良い結論ではなく、いかに「相手を負かすか」に意識を向けているのだ。

もちろん、だからといって著者は「古きよき日本のやり方が一番良かった」といっているわけではない。むしろ、これまでになかった考え方を取り入れていくことは必要だ。しかし、それがあまりにも急激に行われると、結局日本の中で急進派と保守派の対立が激化し、にっちもさっちもいかなくなる。そして最終的に、どちらかの意見だけが採用された政策がとられ、本来日本が握れるはずだった世界におけるイニシアチブを失うことになりかねないのである。そして、著者が主張しているのは「急進派も保守派も、じつは目指すところは変わらない」ということを知り、「誰が悪いわけでもない」ことを意識することだという。

非寛容が蔓延するインターネットの世界

――というところだと私は理解していたのだが、ちょっとよくわからなくなってきたのが本文149ページの「『寛容の論理』から『非寛容の論理』へ」あたりからである。以下、ちょっと引用しよう。

今あるほとんどの「寛容の理論」は「新幹線的なリベラル言論」すぎて、21世紀の現状においては余計に「現場的多様性」を抑圧する結果になっているんですね。

「寛容の理論」を大雑把過ぎる形で押し付けてしまうと、結局ある範囲を超えた人数が集まる場の運用方法は、物凄く脱臭脱色された最大公約数的なものにならざるを得ず、本当にそこで生きている生身の人間の毎日の感覚からすると「他人事すぎる」ものにしかなりません。

(中略)

結果として、その「場の運用法」が生身の実感からどんどんかけ離れていきながら、たとえばイベントの時だけ着慣れない和風を着てみるみたいな誤魔化しだけを続けていると、「もっと自分たちらしさを感じていたいのに」という「現実に生きている沢山の人々の生身の感覚」は出口を求めて、過剰なまでに他国やグローバリズムに攻撃的で、かつ自国内においては過剰に個人に抑圧的なビジョンへと噴出してしまうことになります。

(中略)

つまり、今の時代の「ダイバーシティ多様性)」を旗印とする活動は、ほとんどすべて「本当のダイバーシティ多様性)を抑圧する活動」になってしまっているのです。

うーん……なるほど?? 単純に相手の主張を理解して受け入れるだけではイカンということはわかる。そうしていくと、結果が浮世離れしたものになるのもまぁ、わかる。んで、問題はどうすれば対立する2つの意見(たとえば原発問題とか、安倍政権の支持/不支持とか、沖縄問題とか)全体を捉えて「一段上の21世紀的言論」に導くことができるのか、ということなのだが、それがよくわからん。

その具体的な方法論として、著者は次のようなことをいっている。また引用しよう。

まず「具体的な問題意識とそれに対する実効性のある提言」と、「そのメッセージを載せる入れ物としての”論調”」を分離することが、突破口になります。

(中略)

その「話をするベースになっていた具体的な提言」のレベルだけを考えると、「どちら側の人から見ても実にそうだよなあと思える内容」であることが多いにもかかわらず、それを「一つのパッケージとしての文章」にしてしまうと、「相手側を全否定する論調」になってしまう

んですよ。

抽象的過ぎてチンプンカンプンだが、そこのところはちゃんと、具体的な事例を挙げて説明してくれている。たとえば、著者はあるブロガーが著書で語った「これからの日本人の働き方」についての主張だ(ちきりん氏だろうか?)。また引用しよう。

それは、寿命も伸びたし年金の支給開始年齢も伸びたんだから、これからの人生は多毛作である方がいいというか、色んな可能性を排除しないで人生を考えるようにしたほうがいいよ……というメッセージで、そのための考えるヒントや色んな事例についてまとめられていました。

で、この要約を見ると、あらゆる立場の人から見て、それほど拒否感を感じずに読める内容だし、読むことで人生に展望が開けたと感じられる人も多い内容のような気がしますよね?

でもね、その本を実際に読むと、前半にかなりの分量を使って、いかにグローバリズムの進展によって日本の今までの働き方が通用しなくなって、一つの会社で真面目に勤めあげようとするようなメンタリティの労働者は一人も生き残れない時代が来るんだよ……みたいに、

脅しにかかる文章

が、よっぽどの市場原理主義者のメンタリティの人でもちょっと食傷気味になるんじゃないかっていうほど続いているんですよ。

でね、考えてみて欲しいことは、「後半部分の具体的提言」はね、「前半部分の脅迫文」と一緒にパッケージされてる意味があるんだろうか? ってことなんですよ。

それは、「こういうことを言うと嫌がる人もいるから黙ってればいいじゃん」っていうだけの話じゃなくて、

前半部分の脅しは明らかに間違い

ですからね。

(中略)

「その新しいタイプの生き方じゃないと決して生き残れない時代が来るよ」ってのは明らかに間違い

です。

これは、ブログを読む人なら誰しも経験したことのあることではないかと思う。炎上マーケティングなんて言葉もあるが、あえて生理的に反発したくなるような書き方(論調)をすることで、強い敵を作るとともに強い見方を作るやり口だ。このやり方は、ブログの中で非常に強く蔓延している(と、私は感じる)

タイトルだけをちょっと挑発的にするならまだ理解できるが、中の文章まで挑発的な論調にすることで、議論を巻き起こすことを目的としているのだ。「議論を巻き起こす」というと「良いこと」のようにも感じられるが、結局これは人々の対立を煽り、最終的には両方の論者が「自分の考えが正しく、反対の人間の考えは間違っている」と考えるようになり、理解が進まなくなる恐れもあるわけだ。

つまり、「自分の意見を主張すること」は悪いことではないが、それを強くアピールするために「自分の意見と違う意見・考え・行動の人をディスる」ことは悪いことだ、ということをこの著者は主張しているのである。

相手をディスることの効用

とはいえ、煽りという手法はインターネットの世界において、非常に有効である。なにしろ、ネット上では数えきれない人々が十人十色の主張を繰り広げているわけだから、そのなかで自己承認欲求を満たすアクセス数を増やすためには、このような刺激的な手法を取らざる得ない状況が既に存在するのである。私もちょっと前、以下の記事を書いた。

ada-bana.hatenablog.com

この記事、私のブログの中で最も大きな注目を集めたが、これはだいぶ「煽り」を意識して書いてみた。本来、私はこうした書き方は好きではないのだが、これは私にとってはひとつの実験だったのだ。その成果は私が想像した以上に結果に表れたため、「煽り」という要素を付加したエントリーがいかに人を引き寄せるか、ということを改めて実感した次第である。

私は基本的に性善説に基づいて人を見ているため、たぶん、最初から誰かをディスるためにエントリーを書く人はまずいないと考えている。しかし、一度こうした手法が集客にとても効果的だとわかると、さながら麻薬のように、人々はその手法に頼り、アクセスを集め続けたいと思うようになってしまうのだろう

しかし、改めて私のアクセス数をチェックしてみると、総合的に私のブログのエントリーの中でもっとも人を集めている記事はこれではない。こちらだ。ブックマークもコメントもないが。

ada-bana.hatenablog.com

これは今年の8月に書いた記事だが、安定して集客力1位を維持し続けている。もちろん、このエントリーの中には誰かをディスるような要素は入れていない。このことから、煽り記事は瞬間的な集客力は持っているが、長期的な集客力は持ち合わせていないのではないかと考えられるわけだ。だからこそ、煽り記事で人を集め続けるためには次々と人を煽るエントリーを書き続けなければならなくなる。

ちなみに、本書の著者もはてなブログをやっている。こちらだ。

keizokuramoto.hatenablog.com

当然、上記のような主張を持っている人なので、エントリーの中で誰かを煽るような内容のものは見当たらない。そして、だからなのか、倉本氏の読者数は少ない(まぁこれは、雉の更新頻度が低いことも原因にあるだろうが……もうブログの更新をやめているのかもしれないし)

もちろん、煽りを意識した主張方法はブログに限ったものではない。アメリカの大統領候補になるかもしれないドナルド・トランプ氏は過激な発言をすることで、多くの敵を作るとともにそれなりの支持を集めたりしているし、フランスでもイスラム教徒に批判的な極右政党が票を集めたりしている。

news.livedoor.com

現実の世界でも、対立を煽ることで自らの支持を集める手法が広がりつつあるわけだ。対立は先鋭化し、世界にいろいろな火種が生まれている。

書くことの効用

私は本エントリーの最初のほうで「本書の内容を理解できなかった」ということを述べたが、なんだか書いているうちにわかってきた。エントリーを書くために読み終わった本をもう一度パラパラと見ながら改めて内容を咀嚼していったのだが、そうするとなんだか理解できてきた(ような気がする)のだ。

やはり、文章を書くことは自分の考えを整理することにつながる。本のレビューも、映画のレビューも、その瞬間に感じたことを改めて文章で表現しようとすると、「ちょっと待てよ? でもこういうことかもしれない」という風に思えてきて、結果的に、直後の感想とはちょっと違った内容のレビューになるのだ。

もちろん、私がこのエントリーで書いていることは私というフィルターを通じたものなので、本来的に倉本氏が主張したことから歪められている可能性もある。興味を持たれたのであれば、実際に著書を読んでいただければ幸いだ。

これからの世界について

私が最近、とくに感じているのは「いまは時代の過渡期なのかもしれない」ということだ。社会の中で、価値観が大きく転換しようとしている時期に差し掛かっているのではないだろうか。

たとえば、資本主義という考え方は「お金ですべての価値を判断する」ことを基調にしている。しかし、この考え方はたかだか数百年続いてきただけの制度であり、それが今後も続く保証はどこにもない。フィクションの世界で描かれるように、貨幣の価値がなくなり、それに代わる価値判断基準(たとえば武力だったり)が世界のスタンダードになる可能性だってありうるわけだ。

もちろん、将来の世界がどうなるのか、私にはわからない。しかし、最初の話に戻るが、「『わからない』とわかっていること」が大切なのではないだろうか。とはいえ、だからといってこれはすべてを丸投げするわけでもない。「これからはこうなる!」という主張に対し、100%信じるわけでも、最初から疑ってかかるわけでもないのだ。「そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。どちらの可能性もありうる」ということを考えておくことで、どちらに転んだとしてもパニック(自暴自棄)になることを防げるのだ。

以下の記事でも書いたが、「怒り」などの感情は「予想外の事態」に直面することで発露する。だったら、あらゆる可能性がありうるし、どれになるか誰にもわからないということを考えておけばいいのだ。

ada-bana.hatenablog.com

「わからない」ことを大切にしよう。

 

 

それでは、お粗末さまでした。

*1:とはいえ、私はそういう環境が必ずしも悪いとも思わない。

*2:無論、私はエントリーを書く以上、できるだけ高いクオリティーを提供したいという意識で手がけている。

*3:もちろん「リベラル」とか「右派・左派」といった思想の基本的な用語の立ち居地は理解している必要があるが。