本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

感情的になることは悪いことなのか~無為自然という名前の雑記~

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私は感情表現が乏しい……らしい。

もくじ

私としては「感情は持っているけどそれを表に出さないだけだ」などと考えているが、実際、他の人から見れば実在の有無よりも「見えるか否か」が問題であって、外からそれがわからないのであれば存在しないのと同義であるのも確かだろう。一方、世の人々の体の中ではよほど感情という獣が暴れまわっていることはなんとなく感じる。

感情的にならない本 (WIDE SHINSHO203) (ワイド新書) (新講社ワイド新書)
 

この本、けっこう売れ続けている。著者の和田英樹氏はいろいろな肩書きを持っている人で、ざっと挙げてみるだけでも「受験アドバイザー」「臨床心理士」「大学院教授」「起業家」「映画監督」「作家」などがある。

アンガーをマネジメント

まぁ、和田氏のことはどうでもいいとして、世の中には「いかに自らの感情を制御するか」に苦心している人たちが多いことかうかがい知れるだろう。とりわけ、「怒り」という感情は強く出やすく、放っておくと厄介なことにもなりかねないためか、「アンガーマネジメント」という独立した名称でいくつも本がある。

この怒り 何とかして!!と思ったら読む本

この怒り 何とかして!!と思ったら読む本

 

 

「怒り」がスーッと消える本―「対人関係療法」の精神科医が教える

「怒り」がスーッと消える本―「対人関係療法」の精神科医が教える

 

仏教関連の本は「~しない系」がメイン

徒花は最近、瞑想から仏教へと興味が移っているため、いくつか本を読んでみた。仏教の最終的な目標は涅槃にたどりつくことで、当然ながら感情の赴くままな発露は好ましくないとされる。タイトルを見てもわかるだろう。 

考えない練習 (小学館文庫)

考えない練習 (小学館文庫)

 

「反応しない」とか「考えない」とか、それはそれで人間の生き方として楽しくはなさそうだなぁと思ったりするわけだが、そう思うことこそが「煩悩まみれ」な証なのかもしれない。涅槃は遠い。ちなみにこれらの本、内容やメッセージはけっこう似通っているので、どちらか一冊だけ読めば十分である。意外と宗教色やスピリチュアル色が少ないので、誰でも読みやすい。

※ちなみに、こちらの本も読んでみたのだが、こちらはお勧めしない。著者の蝉丸Pはニコニコ動画で配信している「リア住(リアル住職)」であるため、知識の深さは間違いないが、いかんせん説明が下手で、読みにくい。

蝉丸Pのつれづれ仏教講座

蝉丸Pのつれづれ仏教講座

 

ゲーマーでもあるため、ちょっとした隙があればすぐにゲームのたとえをぶっこんでくるが、けっこうディープな例え方ばかりなので、ピンと来るのは難しいのではなかろうか。喋りはうまいのかもしれないが、本としてもおもしろさはイマイチ。

さて、世の中では「感情を抑制せよ」という本が多い*1が、私は感情的であることは必ずしも悪いことだとは思わない。たしかに、つねに感情をフルスロットルにして働く人と一緒にお仕事するのはいろいろと面倒くさいことが多いが、「効率性」や「論理的思考」だけを重視したら機会には勝ちようがない。徒花がcreativeさで食っている人と付き合うことが多いためか、感情という面倒くささがいい作品を生み出しているのかもしれないとも考えている。

『僕僕先生』のレビュー

話は流れて、つい先日には小説『僕僕先生』も読んだ。以前からタイトルは知っていて興味はあったのだ。

僕僕先生 (新潮文庫)

僕僕先生 (新潮文庫)

 

あらすじを説明すると、唐時代の中国を舞台に、やる気ゼロのニート青年・王弁と美少女仙人・僕僕が冒険を繰り広げるというもの。第18回ファンタジーノベル大賞を受賞して人気を博し、現在7冊もの続編が出ている人気シリーズである。しかも、今年に入ると『僕僕先生 零』という、まるでFateのように僕僕先生の過去が物語られる新シリーズも始まった。

僕僕先生 零 (新潮文庫nex)

僕僕先生 零 (新潮文庫nex)

 

ストーリーはもちろんオリジナルだが、エピソードや登場する空想上の存在などは北宋時代に成立した『太平広記』が元になっている。この書物は前漢から北宋初期までの奇談に類されるもの7000篇を集めてまとめたもので、本作のみならず、さまざまな物語の下地となっている。マンガ版も出ていて、こちらもあわせて読んだ。

僕僕先生 1 (Nemuki+コミックス)

僕僕先生 1 (Nemuki+コミックス)

 

マンガ版は原作にけっこう忠実で、おもしろいことはおもしろいのだが、どうにも「マンガならではのおもしろさ」がちょっと欠落しているように感じる。徒花がこのマンガを読んで思ったのは「原作をビジュアル化しただけでは『コミカライズ』とはいえないのだな」ということだ。マンガ著者のちょっとした遊び心とか、オリジナルの設定とか、そういうものが加えられて初めて「コミカライズ」といえるのかもしれない。おもしろいことはおもしろいんだけどね。先生はつり目がちでかわいいし。

ちなみに、新潮文庫nexは2014年に創刊された新たな文庫レーベルで、立ち位置としてはライトノベルと文芸書の中間に位置づけられているらしい。

shinchobunko-nex.jp

ここらへんのジャンルわけをそんなに厳密化する必要性があるのかは甚だ疑問ではあるが、公式ツイッター

togetter.com

などと供述しており、とにかくライトノベルではないことははっきりしているらしい。このレーベルで今のところ一番注目されているのは『いなくなれ、群青』だろう。そのうち読む。

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

 

涅槃と仙人

話を『僕僕先生』に戻そう。

徒花はまだ1作目しか読んでおらず、1作目では僕僕先生がどのような仙人なのか、その多くは語られていない。そもそも仙人というのは中国における3大宗教の一つ・道教において理想とされる人間のあり方であり、煉丹術という術で「仙丹」を作り、不老不死となった人間のことだが、僕僕先生の過去は(におわせる描写こそあるものの)ほとんど語られていないのだ。

印象的なのは、主人公の王弁が昔、父から聞いた昔話である。仙人の修行をしていた男は、地獄みたいなところで豚の姿にされた自分の両親を目にする。仙人となるためには、心を無にしてその両親すらも見捨てなければならない。しかし、弁くんはそうした無常さに違和感を覚えていたため、仙人というやつにあまり好印象を抱いていないのである。はじめの「感情」とリンクするところではあるが、仏教における涅槃も、道教における仙人でも、こうした「悟っちゃった人」というのは感情が希薄で、打てど響かぬ感じがする。

人々が心の安寧を得るためにそういう存在に憧れるのはわかるが、世の中の多くの人々がそういう存在になってもなんだかツマラナイ世界になりそうだなぁというのが私の所感。まぁ、なかなかそういう境地には至らないからこそ、人々はそういうものを求めてあがくのだろうが。

無為自然とは

また話は流れる。

関係性はいまだはっきりとしていないが、いろいろ読む限り、道教の考え方はやはり老子荘子の「老荘思想」に似通う部分が多い。徒花は最近この当たりの本も読み漁ったりしていて、とくに老荘思想の「無為自然」には惹かれている。

textview.jp

上のページに書いてあるように、

道は常に無為にして、而も為さざる無し。

という生き方である。

要は、「なるようになる」とでもいえばいいだろうか。道教では道(タオ)という宇宙不変の真理と一体化することが目的の一つだが、徒花も最近はいろいろと「無理」なことをしようとせず、「流れ」に身を任せようと考えることが多くなった。

とはいっても、これは「努力しない」ということではない。もちろん、仕事とかいろいろなことは頑張るが、たとえそれがうまく実を結ばなかったり、いきなり変な事態になってぶち壊しになっても、過度に落胆したり怒ったりせず、「そうなるべくしてなったのだ」ととらえるようになったということである。

簡単に言おうとすると「無理筋を強引に通そうとしない」ということだが、じつは層簡単にも言い切れない部分がある。無理筋を強引に通そうとする姿勢こそが道を開くこともあるからだ。その場合、無理筋を強引に通そうとする姿勢ことが「なるようにしてなる」ことの段階の一つとも考えられる。

老荘思想もいいよってこと

たとえば人類による自然破壊が問題視されることもあるが、大きな視点で眺めれば人間の進化・進歩も自然の一部分であり、自然が破壊されるのも大いなる流れの一つである。そして、そうした自然破壊や動植物の保護を問題視して、いろいろな活動をする人が出現し始めるのも大いなる流れの一つである。すべてが「そうなるべくしてそうなった」んじゃないだろうか。老荘思想については、以下の本がわかりやすい。

 

無為自然は「アカシックレコード」につながるかもしれない

そういえば、こんな本も最近読んだ。

魂も死ぬ

魂も死ぬ

 

自らをキチガイ医師」と自称する炎上王・内海聡氏の新刊である。くわしくはこちらも参照のこと。

ada-bana.hatenablog.com

本書はいろいろなことを語っているが、最終的な結論としては「魂とは大いなるライフストリームに還っていくものである」というFF7的な発想に落ち着く。

設定/【ライフストリーム】 - ファイナルファンタジー用語辞典 Wiki*

そんなことよりも、徒花が本書を読んでいて思い出したのはむしろアカシックレコードのほうだった。アカシックレコードというのは、19世紀に生きていたオーストリア出身の神秘思想家、ルドルフ・シュタイナーが生み出したとされる言葉で、この世のすべての出来事(感情や思念も含めて)は現在から過去に至るまですべて決まっていて、記録されているというものだ。この考え方は、もしかすると老荘思想の「無為自然」につながるところがあるのかもしれない。

結末が決まっているからこそおもしろい

徒花が最初にアカシックレコードという言葉を知ったのはたしか『地獄先生ぬ~べ~』だったような気がする。当初は「未来も全部決められているという考えはなんともつまらない考え方だなぁ」などと思ったものだが、最近ではそうも思わなくなってきた。

すべての結末は決まっているからこそおもしろい、と考えることもできるわけだ。「すでに決まっていることをなぞるだけじゃおもしろくない」と考えるのであれば、およそこの世に存在する小説や映画などは例外なく「おもしろくない」ものになってしまう。むしろ、結末が既にすべて決まっているかもし得ないことを受け入れてなお、その状況を楽しめる度量を持っているかも大切なのではなかろうか。その心境こそ、もしかすると「無為自然」なのかもしれない。

おわりに

今回のエントリーはいつにもまして中身のない、何が言いたいのかよくわからないものだったが、つまりこれこそが無為自然である。つまり、徒花はこのエントリーによって無為自然そのものを表現しようとしているのである。一見するとテキトーとか手抜きにしか見えなくても、「これが無為自然というものなんです」と言えばなんか高尚な感じがするのは気のせいではない。心の赴くままに文字を書き綴ろう。文末に「無為自然」の一言を付け加えれば、それでオールオッケーなのだ*2

それでは、お粗末さまでした。

*1:というか、「感情を爆発させろ」という本は見当たらない。

*2:ぶっちゃけ、ここのところいろいろ予定が立て込んでいてじっくりと文章を練っているヒマがない。師走には編集者だって走る。