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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『アイドル国富論』ほかのレビュー~呪いのエントリー~

ノンフィクション 文化 社会

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シルバーウィークが、終わった。だいぶ前に。

 

徒花は「ヘルペスっぽいなにかの病気」に感染して40°近い熱と日夜問わず続く頭痛にのた打ち回りながらゲショゲショ咳をしてネバネバの黄色い鼻汁を垂れ流す環境汚染物質に成り果てていたが、ようやくそれも小康状態になり、少しばかり頭が働くようになってきたので、リハビリテーションもかねてこの文章を書いている。

単純ヘルペスウイルス感染症: ヘルペスウイルス: メルクマニュアル18版 日本語版

病気は人をダメにする。頭が働かないので本を読む気にもなれず、テレビを流しながら能天気そうに騒ぐ芸能人を見て「みんな○ね!ヘルペスになってしまえ!!」と悪態をついて、「生きる意味」を考察しながらこの世を呪っていた。ちなみに、このエントリーには呪いをかけたので、読んだ人はヘルペスにかかるだろう。ヘルペスになりたくなければ3日以内にSNSなどでこのエントリーを紹介しなければならない。

 

まぁそんなことは置いといて、今回のテーマは「アイドル」である。とはいっても徒花はアイドルには全然興味がないのだが、先日、すごいアイドル好きな人と知り合いになって、ふと「アイドルの何がそこまで人を魅了するのか?」ということが気になったので、いくつかその答えにたどり着けそうな本を読んで考えてみた。

アイドルの魅力とはその「不完全性」と見つけたり

1冊目に読んだのがこの本である。

本書はいわゆるオネエタレント(本人はゲイであることを公表している)としても活躍しているクリス松村氏による著書だ。クリス氏はじつはかなり裕福な家の生まれで、生まれはオランダだが、幼少期は両親の都合で世界各国で暮らしていた。大学卒業後は広告代理店 → 芸能マネージャー → フィットネスインストラクター → タレントというなかなか異色の経歴の持ち主である。ちなみに、父親との仲が悪く、現在も絶縁状態にあるらしい。大変だね。

そして、クリス氏はじつは大のアイドル好きでもあり、タレントになったきっかけも『三宅裕司のドシロウト』(日テレ系)という番組にピンク・レディーの追っかけ集団「キラキラ隊」として出演したことのようだ。

んで、本書の内容だが、正直ちょっと期待していたものとは違った。クリス氏はアイドルファンではあるものの、厳密には「70~80年代のアイドルファン」なのだ。そのため、本書でも9割以上のページがその年代に限られており、具体的なアイドル名を挙げながらその変遷を説明するものとなっている。

随所にクリス氏本人のこともエッセー風に挟まれていて読み物としては面白いのだが、あまり私の疑問が解決する内容は得られなかった。また、私は80年代後半生まれなので、70~80年代アイドルの名前をポコポコ出されてもよくわからない、というのが実感である。

とはいえ、収穫がゼロだったわけではない。あくまでクリス氏の持論ではあるが、彼は本書の中で以下のように述べている。

誤解を恐れずに言えば、アイドルは「お人形さん」でいいんです。プロである大人に「この子の魅力を最大限に引き出すにはどうしたらいいか」という目線でプロデュースしてもらう――それがアイドルの基本的な“磨かれ方”ではないでしょうか。場合によっては、本人の意志とは違う方向性になることもあると思いますが、それは本人の気づいていない魅力を、プロの力で引き出してもらっているともいえるでしょう。

この部分を読んで私は「なるほど」と思った。はっきり言って、こうした認識はアイドルのことを少しは勉強(?)している人にとっては自明のことなのかもしれないが、私はこのことすら理解していなかったのである。

だから、アイドルに対して「可愛くない」とか「歌がヘタクソ」「ダンスにキレがない」という批判をするのはまったく的外れであるということだ。容姿にしろ歌唱力にしろダンスのうまさにしろ、それを求めるならもっとすごい人はいるが、あえてそこに難がある年端のいかない女の子であることにアイドルの意義がある。クリス氏も、昔のアイドルはデビュー時、「まだまだ垢抜けないイモねえちゃん」だったと語っている。

そして、そんな発展途上の女の子が次第に注目を集め、きれいになったり歌がうまくなっていく過程を応援し、見守ることに愉悦を見出すのがアイドルのファン心理なのである。いわゆる「○○はワシが育てた」心理である。なるほど。

そう考えると、人気ゲームであるTHE IDOLM@STER」シリーズは、こうしたアイドルの持つ根本的な魅力を正面から真っ当に取り上げたゲームだとわかる。このゲームはまさにプレイヤーが普通の女の子をトップアイドルに育成するゲームだが、アイドルという存在の歴史の長さを考えると、むしろ何で2005年までこの世に登場しなかったのかが逆に不思議になってくる。

たしかにアイドルという言葉自体、もともとの意味をたどれば神や仏など崇拝の対象をかたどった信仰の対象である「偶像」という意味である。偶像に権威をもたらすのはその元となった神だったり、崇拝者たちだったりするわけだ。その意味でクリス氏が暗に指摘しているように、アイドルは自らの意志を持たない「お人形さん」であることが求められるというのはうなずける。

 アイドルと日本の情勢をあわせて分析した1冊

というわけで、次に私が読んだのはこちらの本。著者の境真良(さかい・まさよし)氏は東大卒業後に当時の通商産業省(現在の経済産業省に入省してメディアコンテンツ課などを立ち上げ、現在は国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)客員研究員などを歴任しているエリートかつインテリだ。そのためか、文章は全体的に硬くてマジメで、言葉も難しく、論文っぽくて若干読みづらかった

ただし難しかった分、なかなか内容はおもしろかった。クリス氏よりも客観的に、かつ簡潔に70~80年代から現代にいたるまでのアイドルについて総合的にまとめている上、冒頭には当時の社会情勢とセットになったアイドル年表もあるので、アイドルの歴史を知るには役立つ。また、アイドルと日本の政治・経済・社会構造の変化を一緒に並べながら分析し、いかに日本の社会の変容とともにアイドルの位置づけ、求められることが変化してきたのかということも述べられているのだ。

本書に書かれているアイドルの魅力については、基本的にクリス氏の主張と同じであるが、境氏は同時に「なぜ日本以外の国でアイドルが流行らないのか」についても述べている。そして、それを理解するための概念として著者は「マッチョ」と「ヘタレ」という2つの人間の姿勢を取り上げているのだ。著者が述べるこの2つの概念を説明しつつ、いかにアイドルが「日本的な文化」であるかについて述べていこう。

アイドルを応援するのは「ヘタレ」の証?

アメリカには日本のアイドルのように「ファンと一緒に成長していく未成熟なタレント」というのはあまりいない。代わりに人気を集めるのは、一般人とは明らかにオーラが違い、圧倒的な美貌や高い歌唱力、卓越したダンスセンスなどを持ったカリスマだ。セレブとも称される彼らは、一般人とは別の世界に住む殿上人であり、ファンは彼らを応援するのではなく「尊敬」するのである。つまり、ファンとタレントの上下関係がアメリカの場合「タレント>ファン」なのだが、日本のアイドルだと「タレント<ファン」なのである。*1

そして、こうした関係性の違いをもたらしているものこそ、「マッチョ」と「ヘタレ」である。本書ではこの2つについて以下のように説明している。

本書ではこの規範に従い、強いものに闘いを挑み、困難に挑戦し、源流に忠実たろうとする姿勢を「マッチョ」、そしてその規範そのものを「マッチョ主義」と呼び、反対にこれに背いて戦いから逃走する姿勢を「ヘタレ」、それを許容する考え方を「ヘタレ主義」と呼ぼうと思います。

曰く、自分には不釣り合いに思えるような高いレベルの異性を求めるのが「マッチョ」で、自分よりも弱くて庇護したくなるような異性を求めるのが「ヘタレ」だとしているのだ。これは女性を形容する言葉としては「美しい(マッチョ)」「かわいい(ヘタレ)」といえる。そして、アメリカはタレントにマッチョさを求め、日本のアイドルには「ヘタレ」さが求められるというわけである。

この分類は社会で何が評価されるかということである。マッチョは結果を重視し、ヘタレは努力(過程)を評価する。実力主義の会社と、年功序列主義の会社のようなものである。

そして、日本社会の中にも「マッチョな人」と「ヘタレな人」がいる。マッチョな人は経済的成功(出世することとか、金持ちになること)を望み、自己実現を追及する人であり、ヘタレな人はそうした努力を放棄して安定を望む。

そして、アイドルを応援している人は基本的に後者(ヘタレ)である。なぜなら、マッチョな人は基本的に「どれだけ努力しているか」ではなく、「どれだけ結果を出せたか」を重視しているため、成長の過程が魅力であるアイドルを応援しようとはしないのである。欧米人がアイドルに興味を示さないのは、彼らが芸能人に対して「デビュー時から仕上がっていること」を期待しているからかもしれない。

ヘタレマッチョとは何か

ただし、ヘタレだから同じヘタレな存在であるアイドルを応援する――という簡単な構図ではない。厳密には、ヘタレの中でも著者の言うところの「ヘタレマッチョ」に分類される人物がアイドルに熱を上げる

ヘタレマッチョとは「ヘタレ」な部分と「マッチョ」な部分を併せ持つ人である。つまり、努力して上を目指すことが大切だと分かっている(マッチョ)けれど、それをできずにあきらめている(ヘタレ)人物だ。こうしたヘタレマッチョは上を目指して努力する(マッチョな)アイドルを応援し、その夢をかなえさせることで間接的にマッチョでありたいという自分の欲望をかなえるとともに、そうしたアイドルたちに励まされることで自分も頑張ろうとするのである。

実際、現代のアイドルは決してヘタレではなく、マッチョである。しかも、ヘタレが共感できるマッチョだ。AKB48グループは互いが仲間であると同時にライバルでもあり、つねにセンターの位置や人気投票の順位を巡って争っている。また、ももいろクローバーZのように仲間内のライバル関係がないとしても、ほかのアイドルグループと争いを繰り広げている。彼女たちは成功をめざし、そのために日夜努力しているのだ。

そして、こうした現代アイドルたちのマッチョな姿勢は、同様にマッチョな生き方をしている人の共感を呼ぶ。昔のアイドルクリス松村氏のいうような「お人形さん」)にはマッチョな人は共感を感じないが、日夜戦いを繰り広げ、自ら研鑽にたゆまぬ現代アイドルには、ヘタレマッチョのみならず、マッチョな人も応援したくなる要素があるのだ。

アイドルは世界を救う

そして著者は、アイドルはこれからの世界に必要だと主張している。それは、アイドルが国家の安定、世界の平和に役立つと考えているからだ。

世界を動かしている人々はマッチョな人々である。だから、世界的に「マッチョであることが正しい」という倫理が支配している。日本でも年功序列・終身雇用が崩れ、実力主義が台頭してきたことからもそれがわかる。

しかし、そうした実力・結果主義の社会になると、どうしても「勝ち組」と「負け組」にわかれ、中産階級(中流)が減っていく。日本の社会において現在進行形で起きていることだ。その結果、「負け組」になった人はマッチョになることをあきらめ、絶望してヘタレとなり、フラストレーションをためていく。マッチョを憎むようになるのだ。するとそれは社会の不安につながって政治体制が不安になったり、フラストレーションの矛先を他国に向けることで戦争が起きる原因になってしまう可能性がある。

そこでアイドルの登場である。ヘタレ(努力が評価される存在)でありながらマッチョ(上を目指し続ける)であり続ける彼女たちの存在はヘタレ(負け組)の人々に勇気を与え、絶望させることなく努力させ続ける。実際、日本ではイメージよりも所得の格差は大きかったりするのだが、社会集団対立意識(富裕者vs貧困者、経営者vs労働者など)が極めて小さい。以下、ちょっと本文を引用しよう。

精一杯頑張る現代アイドル達のヘタレとマッチョの両面性は、マッチョとヘタレの間に共通するアイコンとして成立し得るのです。だからこそ、現代アイドルはそれを評価するマッチョたちと、それを評価するヘタレたちの間を架橋し、両者を融和していきます。

そう、アイドルこそマッチョとヘタレを結ぶ架け橋となり、人々を絶望から救う気高き存在として世界平和に貢献している、ともいえるのである。

マッチョであることは正しいのか?

だがしかし!! 理屈としては理解できるが、徒花はそもそも「全員がマッチョであることを目指すことが正しいのか?」という疑問を抱いている。ここの部分はちょっと余談に近いので、読み飛ばしてもらっても構わない。

この記事でも書いたように、最近、資本主義的な幸福――たくさんお金を稼いで、たくさん物を消費して、結婚して子どもを育てること――に疑問を呈するような本が多い。つまり、高い目標を掲げてそのために時には自分を犠牲にしてでも頑張ることは本当に大切なのか、ということである。

もちろん、そうしたい人はそうして構わないだろうが、世の中にはそれを望まない人もいる。しかし、そうした人(働かない人、ケチな人、結婚しない人)現代社会では軽蔑される。そして、間違った生き方だと糾弾されるのだ。さらにアナーキストの栗原康氏は、そもそもマッチョ的な生き方が推奨されるのは、それが支配者(政府、経営者など)にとって管理しやすく、都合がいいからだと述べている(もちろん栗原氏は「マッチョ」などという言葉は使っていないが)。つまり、普通の人々は知らず知らずのうちに支配者の都合のいい奴隷のようなものになっているというのだ。

ここでアイドルの話に戻ると、境氏の本によれば、アイドルとは「負け組の自己肯定感を充足させる存在」であるとしている。つまり、負け組でも腐ったりやけくそにならないようにするための希望を持たせる存在だ。これは結局のところヘタレを肯定しているわけではなく、マッチョに生きることを推奨しているといえる。つまり、「マッチョな生き方こそ正しい」と、人々を洗脳しているとも考えられるのである。もちろん、アイドル達にはそんな意識はまったくないだろうが。

アイドルは世界に平和をもたらすかもしれないが、その平和はヘタレが本来持っている願望(働きたくない、がんばりたくない)を押さえつけた平和なのかもしれないのだ。そこのところを考えると、アイドルの存在を否定するわけではないが、徒花としてはもろ手を挙げて賞賛もしかねるところである。

恐ろしきアイドル、Negicco

というわけでここで3冊目にいこう。

本書はまたまったく毛色が違う本で、新潟のローカルアイドル・Negiccoがなぜここまで人気を得ているのかを実例に挙げながら、そこからマーケティングに応用できることを学んでいこうとするビジネス書である。

だがしかし、それは本書の真の姿ではない。ちょっと中身を読めばわかるのだが、本書はむしろ、ビジネス書を装ったNegiccoのPR本である。読んでいるといつの間にかNegiccoのことを応援したくなってしまうという、何とも恐ろしい本なのである。

さてNegiccoについてだが、彼女たちはもともと2003年に新潟特産のやわ肌ネギをPRするために結成された期間限定グループだった。

だがその後、結局グループは存続して地道な活動をつづけ、2012年にはフジテレビ系のバラエティ番組『めちゃ×2イケてるッ!』のエンディングテーマに選ばれ、2014年には『光のシュプール』という楽曲がオリコン週間5位にランクインするなど、徐々にではあるが、全国的に知名度を上げている。

また、最近の話題ではマツコ・デラックス氏がNegiccoのファンであることを公言しており、今年の8月から活動を開始したAKBグループの新潟組織NGT48の発足に対してNegiccoを心配していたことが記憶に新しい。

徒花は新潟県出身者であるため、けっこう昔から名前だけは知っていたが、まさかここまで有名になるとは思っていなかった。そもそも、こんな本が出ていたのも初めて知ったのである。

本書はNegiccoがここまでメジャーな存在になれた要因が書かれているが、それを説明することは本エントリーの趣旨から外れるので割愛する。知りたい人は本を読めばよろしい。ただし、読むとかなり高い確率でNegiccoに魅了される危険性があるので、重々注意していただきたい。アイドルという存在を危険視するような発言をしていた私自身、これからはちょっとだけNegiccoは応援してやろうかという気持ちになってしまった。まったくもって、本当に恐ろしい本である。

………まとめよう。

  • アイドルは発展途上な少女たちの成長過程を見せるエンターテイメントである
  • アイドルファンはがんばる彼女たちの姿から「自分もがんばらねば」という思いを受け取る
  • アイドルは世界を平和にしている可能性がある一方で、人々に「努力教」という宗教を広める広告塔としての役割があるのかもしれない
  • Negiccoはやばい

こんな感じ。

 

それでは、お粗末さまでした。

*1:※もちろん日本にも「タレント>ファン」の関係性を構築している歌手は沢山いる。安室奈美恵氏がその代表格だ。しかし、周知のように、彼女は決して「アイドル」とは呼ばれない。