本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『はたらかないで、たらふく食べたい』のレビュー~なんだかかわいそうなアナーキスト~

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数値で測れないもの――本や映画などの創作物をはじめ、人も含む――を評価する場合、大きな影響を与えるのは「期待とのギャップ」である。

たとえばある映画が50点の出来栄えだったとしても、見る前に「70点くらいだろう」と期待した人と、「30点くらいだろう」と期待した人では、その感想に大きな差が出る。ミニシアターなどでしか上映していない映画作品に酷評されるものが少ないのは、そもそも見る人が過度な期待をしていないことが一因にあるだろう(もう一つの要因としては、鑑賞した人の人数が増えるにしたがって批判する人も増えることが挙げられる)

というわけで今回レビューを書く本だが、正直、徒花はあまり読む前に期待していなかった。この本である。

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言

 

なぜかといえば、最近のトレンドとして、既存の資本主義的な価値観・正義観を打ち壊すような本が増えているからだ。働くことや結婚すること、お金を稼ぐことを拒絶したプロニートことpha氏の書いた『持たない幸福論』や、極力モノを持つことをやめた生活を実践しているミニマリスト・佐々木典人氏の『ぼくたいに、もうモノは必要ない』などである。

 

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

実際、私もこうした考え方に最近は傾倒しているため(というか、自分もこうしたテーマで一冊作れないかなぁと画策しているため)、こうした類の本で話題になっているものは一通り読んだ。内容的に賛同できる部分もあるし、そうでない部分もある。

とりわけこうした本の場合、現在多くの人が送っている生活のすべて、もしくは一部を否定する内容なのだから、読み方によっては自分自身を否定されるに等しい。それをわかりつつも、やはり「この人と同じような生活は自分にはできない」という拒否感を抱いてしまうものなのだ。

というわけで、今回読み終えた『はたらかないで、たらふく食べたい』も、どうせこれらの本と似たり寄ったりの内容なのだろうと思っていたので、徒花はさほど期待していなかったのである。しかし、私の期待はいい意味で裏切られた。だからこそ私はこの本を非常に高めに評価している。というよりも、著者をすっかり気に入ってしまった。

栗原康氏について

1979年、埼玉県生まれ。早稲田大学に進み、続いて同校の大学院にも進学したが、満期退学しているらしい。「満期退学」というのがどういうことかはよくわからないが、そこを突っ込むのは野暮というものである。現在は東北芸術工科大学の非常勤講師をしているが、こちらは週に2~3日くらいしか働いていないので、年収は50万円ほどしかない。現在も埼玉県の実家に暮らしていて、基本的には両親の年金を頼りにパラサイトしているようだ。資本主義社会的な価値観で測ると、完全な「ダメ人間」である。

しかも、大学進学時に奨学金を利用したので、数百万円の借金も抱えている。付き合っていた彼女はいたそうだが、結婚を目前にして振られ、目下彼女募集中である。誰かこの人を何とかしてあげて。高校3年生のときにたまたま大杉栄評論集』を読み、その人物像に心酔。大学ではアナーキズム(無政府主義)を研究し、現在もなんとかして政治体制をぶっ潰すことができないものかと考えている。

大杉栄評論集 (岩波文庫)

大杉栄評論集 (岩波文庫)

 

著書に『G8サミット体制とはなにか』大杉栄伝 永遠のアナキズムがある。

G8 サミット体制とはなにか

G8 サミット体制とはなにか

 

 

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

大杉栄伝: 永遠のアナキズム

 

なかでも大杉栄伝 永遠のアナキズム紀伊國屋書店が主催している紀伊國屋じんぶん大賞2015の第6位にランクインしていて、8月には新刊『現代暴力論』も発売された。最近注目度が急上昇している社会学者なのである。

現代暴力論  「あばれる力」を取り戻す (角川新書)

現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す (角川新書)

 

『はたらかないで、たらふく食べたい』のレビュー

本書は資本主義社会にちゃんと参加していない栗原氏のライフスタイルを提唱する本、ではない。本書の中でも栗原氏は自分の生活を誇示したり、読者に自分のような生活を勧めるような描写は一切していない。コツコツサラリーマンとして働いたり、金もうけに一生懸命になっている人をディスったりもしていない。その意味で、『持たない幸福論』『ぼくたちに、もうモノは必要ない』とは一線を画する一冊である。

じゃあ栗原氏は本書でいったい何を書いているのかというと、自身の生活や考え方を引き合いに出しながらアナーキズムとはなにか」ということをわかりやすく説明しているのである(本書の中では「アナキズム」という表記で統一されているが、これだと一発変換できないので、本エントリーの文章中では「アナーキズム」で統一させていただく)現在の社会は搾取の構造をとっていて、一般市民はそれに気づかず、むしろ自ら搾取され、管理され、支配されることを望んでいる豚である、と。そういう意味では、本書は「アナーキズム入門書」ともいえる。

ただし、だからといって栗原氏はアナーキズムの歴史や変遷など、小難しいことは一切語らない。ただ、付き合っていた彼女に「ちゃんと仕事をしろ」といわれたのにそれに従わなかったから振られたとか、3.11のときに自分は何をしていたとか、フィリピンの女性たちを働かせていた自分の叔父の話とか、そうしたことを書いている。つまり、内容としてはむしろエッセーに近いのである。また、「アリとキリギリス」「耳なし芳一」「源氏物語」などを引き合いに出しているので、読んでいて大変わかりやすいし、おもしろい。

そして、ここが一番のポイントなのだが、本書の最大の魅力は栗原氏の文章センスである。ちょっといくつか引き出してみよう。

豚小屋に火を放て。燃やしつくしたそのはてに、とてつもなくおおきな力がやってくる。不満足な人間であるよりも、満足な豚になったほうがいい。合コンにいきたい。

赤ん坊になりたい。おぎゃー、おぎゃー。だだをこねたい。ちやほやされたい。やさしくされたい。しゃぶりつきたい。素っ裸の女の胸に。わたしは、大杉栄の思想はそういうものだとおもっている。

(映画『イングロリアス・バスターズ』について)

この舞台は八人しかいないのだが、むちゃくちゃつよい。というか全員、殺人鬼だ。レインの命令はただひとつ。ひとり一〇〇人、ナチス兵をぶっ殺し、あたまの皮をはぐことだ。どうも、レインの祖先にアパッチ族がいたらしく、そのしきたりにしたがっているとのことだ。そりゃあ、やむをえない。

文章は終始、こんな感じである。

普通の文章だったら漢字にするところをあえてひらがなに書いているし、ところどころ自分の感情がポコッと出てくる。しかし、だからといって読みにくい個所はほとんどないところが、卓越した文章センスのなせる業である。また、自分の感情を唐突に混ぜるところがシュールだし、その内容が笑いを誘う。また、こうした素直な感情が混じっている部分が、なんとも著者を身近に感じさせるのだ。

とかく人間は自分と相手の立ち位置を意識してしまうもので、そういう意味で『持たない幸福論』『ぼくたちに、もうモノは必要ない』は一部「上から目線」に感じてしまう個所もある。だが、本書にはそうしたところがない。むしろ、読んでいるとなんだか栗原氏がかわいそうになってくるくらいだ。「笑える」というのは、ある意味で相手が自分よりも下の立場にいるからこそできる行為なのかもしれない。うまい芸人というのは、収入面では明らかに一般市民よりも高い位置にいるにもかかわらずそれを感じさせず、人々を笑わせるからすごい。

ぜひ読んでみていただきたい。

 

というわけで、お粗末さまでした。