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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『武学入門』のレビュー~「勝たない」強さ~

ノンフィクション

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強さとは何か?

答えは人によっていろいろあるだろう。「勇気」とか「根気」とか「克己心」とか「平常心」とか。だがとにかく、根本的な強さに言及しようとすると、多くの場合、肉体とかテクニックではなく、精神的な面を指すことが多くなる。どれだけすごい筋肉と反射神経と技術を持ったアスリートでも、本番で実力を発揮できなかったら試合で勝つことはできない。

 

んで、別に私はサムライでもアスリートでもないが、最近こんな本を読み終えた。

武学入門 武術は身体を脳化する〈新装改訂版〉

武学入門 武術は身体を脳化する〈新装改訂版〉

 

著者の日野晃氏は日本武術・武道の研究家であり、日野武道研究所という活動をしている。

www.hino-budo.com

また、月刊秘伝という雑誌で不定期連載もしている人物だ。世の中にはいろんな雑誌がある……。

月刊 秘伝 2015年 08月号

月刊 秘伝 2015年 08月号

 

武道の研究で得た知見を元に企業の社員研修や講演活動、気功治療などを行っているという。

また、戸隠流忍術で有名な初見良昭氏と交流もある。本書の中でも、初見氏はよく出てくる。というよりも、初見氏の考え方、言葉を日野氏が言語化してまとめているような感じだ。

武神館宗家初見良昭師

なんか胡散臭い感じがしないでもないが、実際に本を読んでみるとなかなか論理的で説得力がある。若干、いろいろなものをディスってるようなトゲのある言い方も多いが、日ごろフツーに生活しているだけではなかなか理解しがたい思考を持っているので、今回は本書の内容の一部を簡単に紹介していこう。

「往なす」という日本的な戦い方

欧米の価値観は二元的・対立的なものである、と本書では述べられている。ある力が襲いかかってきた場合、それに対抗しうるだけの力を自分たちも持って打ち消さなければならないという考え方だ。つまり、それが自分にとって「敵」か「味方」かをはっきり分けるのである。

一方、日本の価値観は一元的・調和的なものである。力に対抗するのではなく、うまくその力を利用したりそらしたりするのだ。そして、その象徴的な言葉が「往(い)なす」という動作であるという。切りかかってきた相手の刀を真正面から受け止めるのではなく、受け流したり交わしたりするのが、日本流の戦い方なのだ。

そして本書では、この往なす動作はなにも戦いでのみ発揮されるわけではないという。往なす=価値観の転換と主張しているのだ。

たとえばその例として、戦後の日本の経済成長が述べられている。戦後の冷戦時代、日本以外の各国はアメリカとソ連を中心に、軍事力を競い合っていた。朝鮮戦争ベトナム戦争などは、米ソを代表とする資本主義と共産主義の代理戦争である。しかし日本はそんななか、武力ではなく経済力で世界と戦い始めたのである。これが、著者の言う「価値観の転換=往なす」という戦略である*1

f:id:Ada_bana:20150818211401j:plain高度成長の象徴のひとつ、東京オリンピック

命(国運)を賭した戦いは相撲やら野球やらのようにルールの定められたスポーツではないのだから、別に相手と同じ土俵に立って同じように戦う必要はない。そしてこれが、日本古来から伝わる戦い方なのであるという。こうした戦い方にいまでは欧米諸国のほうが注目していて、この戦法を取り入れようとしているとのことだ。

ISIL人質事件と「往なす」戦略

と、この話を読んでいて、徒花がふと思い出したのは今年の1月に起きたISIL(または「イスラム国」)邦人人質事件である。

f:id:Ada_bana:20150818211632j:plainISILのシンボルマーク

このとき、Twitter上では「#ISISクソコラグランプリ」というハッシュタグをつけて、おもにISILの男をオモチャにしたコラージュ画像が数多く出回ったのはまだ記憶に新しい。こうした活動はもちろん「不謹慎だ」という非難にも晒されたが、一部の外国からは「ISILが恐怖によって仕掛けてきた攻撃に対し、ユーモアで対抗して威力をそいだ」などとして、一定の評価もされた。

これはもしかすると、日本のTwitter民がISILの「武力による脅迫」という攻撃に対して往なす=価値観の転換という手法をとった、とも考えられるのである。相手の土俵に乗るのではなく、自分たちが得意な方向へ引っ張り込んで、相手が本来与えようとしていたダメージを笑い飛ばそうとした行為――といえるのかもしれない。もちろん、実際にクソコラを作っていた人たちにそうした意図があったのかは知らないが。

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日本人2名の殺害予告したイスラム国(ISIL)メンバーのツイッターにISISクソコラ画像が載る - NAVER まとめより

また、現在また安保法制で議論が起きているが、地理的にもすぐそばにいる中国が巨大な武力を持って脅威であるという状況に対して、同じく武力を持って対処しようとするのは日本的な「往なす」戦略ではない、ともいえる。とはいえ、だからといっていまの日本にはかつてのような経済的な強さもない。武力でも経済力でもない新たな争いのパラダイムも見いだせていないので、これだけ議論になっているようにも私には思えるわけだ。

ちょっと話が脱線するが、世界の歴史を顧みると、人類の強さのパラメータは力から金へと移行してきた。個人的には将来、さらに金からなにか別のものに「強さの基準」が変わるのではないだろうかとボンヤリ予想している。それはおそらく、貨幣価値では換算できないものだろう。それがなにかはよくわからないが…………。

「往なす」は「かわす」ではない

さてそこで「往なす」とは一体全体どういうことなのか、もうちょっと突っ込んで考えてみよう。

まず誤解してはいけないのは、往なすとは「かわす」とはまったく異なる概念であるということだ。欧米の戦法にももちろん相手の攻撃をかわす術があるが、それとは違う。さらに言えば、日野氏によれば、柔道などでよく言われる「柔よく剛を制す」のようなものも「往なす」ではないという。以下引用する。(太字は書籍内では傍点)

合気道をはじめ、特に柔術系の武術には「相手の力を利用する」という言葉が残ってはいるが、実際としてはここでテーマに掲げている「往なす」というものではなく、「相手の力を利用して勝つ、相手の力を利用しようとこちらの力と意思が働いたもの」だ。つまり、「対立」がまずあり、対立を制するために相手の力を利用する、なのだ。だから、どこまでいっても「対立」から成長することはない。

先にも述べたように、「往なす」とは価値観の転換である。つまり、「勝つ」とか「負ける」ということを考えている時点で低い次元に立っているのである。真の達人とはそういったレベルを超えて、相手の力と自分の力を調和させる。つまり、勝ち負けをはっきりつけないのだ。しかしこれは、「敵」という概念とは矛盾するものであり、そうした矛盾を解決して悟った人が達人なのだという。

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この意味において、日野氏はいわゆるスポーツ化した剣道にチクリと一言言っている。また引用しよう。

武術と現象が似ていることから、よく混同される剣道や柔道がある。これらは、伝統的な武術から「対立・対抗現象」だけを取り出し競技化(相手に勝つためのもの・勝敗を決めるだけのもの)したものであって、ここで言う伝統的な武術とは似て非なるもの(対立しないためのもの)であり、全く違う種類のものなのだ。だから、今の剣道や柔道を伝統武術の立場からからは、悪いとか良いとかいった価値判断を入れるべきではない。

現在この二つの運動形態は、競技という形式を取っている。競技という形式を取ったとき、そこには必ずルールが介在する。もちろん、ここで言う剣道や柔道はより多くの人たちに普及するために新たに作られたものであるし、普及するためには競技化することがより分かり易いので、という考えの元にあるものだ。

だから、良いとか悪いとかいう話ではない(しかし、現在行われている柔道や剣道からは「何を普及したかったのか?」が、さっぱり見えてこない、つまり、現在の剣道や柔道が普及したからといって、人類にどういった利益があるのか? という問題だ)

前置きはしているものの、思いっきりディスってるのが面白い。

往なすために不可欠な「水月移写」

日野氏が達人としているのは、前述した初見良昭氏に加え、宮本武蔵伊藤一刀斎柳生十兵衛などである。彼らは別にほかの人たちよりも腕力が強いとか、刀の扱いが巧みだというわけではない。日野氏によれば、彼らに共通しているのは水月移写」という心身状態だという。

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水月移写とは「月は水に写ろうとして写るのではなく、水は月を写そうとして写しだしているのではない」ということで、これを相手と自分に置き換えた状態である。反射神経の良し悪しというレベルを超え、相手の「意識の揺らぎ」、すなわち攻撃しようとする意志を感じとることができる状態のことなのである。

本書ではここで江戸時代随一の剣豪にして柳生新陰流の創始者、そして3代将軍・徳川家光の剣術指南役を務めた柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)のエピソードを紹介している。

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割と有名なので、知っている人もいるかもしれない。書籍の中の語りはなかなか長いしわかりにくい部分があるので、以下のエピソードは私が簡潔にまとめたものである。

あるとき、宗矩は小姓に刀を預けて桜の見物をしていた。そのときにふと、小姓はこんなことを考えた。

『どんなに天下に名高い剣豪といえども、いまここで、この刀で斬りつけられたらどうしようもないに違いない』

その瞬間、宗矩は素早く周囲を見回して座敷にこもり、不審晴れやらぬ顔で中空を見つめている。心配した家臣が訪ねると、宗矩はこう答えた。

「自分は長年の修行の末、相手の敵意を察知できるようになったが、さきほど桜を眺めているときに殺害の気が心に感じられた。ところが、後ろに小姓が控えているだけで潜んでいるものも見当たらない。自分はまだまだ修行が至っていないのだろうかと考えていたのだ」

ちなみにこれは、単に相手の攻撃を察するだけではない。このとき、水月移写状態にある達人の心には攻撃の意思や相手と対立するような感情が一切ないのである。だから、達人と相対して斬りかかったりしてもまったく手ごたえがないらしい。なにしろ達人は調和を求め、相互に衝突しないような立ち合いをするので、結局どちらも死ぬことはないことを至高としているのである。

剣の極意は相打ちではなく相抜け

剣術の世界では「相打ち」を必勝の道とするものがある。これは相手の斬撃をかわすということを忘れ、まさしく相手も自分も同時に倒れることを目的とした戦術だ。この意気で戦えば、相手との実力差を縮めることができるとされる。

徒花が思い出したのは、アニメ『サムライチャンプルー』で主人公のひとり・ジンが作品内での最強の剣客・刈屋景時を相手に披露したもの。このときジンはあえて相手に自分を斬らせることで生まれた一瞬の隙を突き、相手を斬り伏せた。

サムライチャンプルー BOX [Blu-ray]

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だがだがしかし、達人からすればこの相打ちすら「子どもの殴り合い」のようなもので、何ら術技・技法に値しないという。おそらくそれは、結局のところ「相手に勝つこと」を目的とし、二元論的な考えに基づいているからにほかならない。

そこで、無住心剣流の剣術家・針ヶ谷夕雲(はりがや・せきうん)は、剣の極意を相打ちを抜けた先にある「相抜け」とした。つまり、勝敗を決する対立的な関係に違和感を持ち、二者択一的な相対関係を乗り越えて、自らも相手も守る非常に高度な精神状態にある戦い方なのである。

おわりに

というようなことが本書には書いてあり、後半に行くとサブタイトルにあるように体=精神のような話に入っていく。ただ、これかなり難しい。べつに書き手が下手なわけではなく、そもそもこうした内容を文字だけで理解しようとすることに無理があるような気がするのだ。文字を生業にしている徒花としては忸怩たる思いがするところだが、ここらへんに文字の表現の限界を感じざるを得ない。

結局、いままでの一元論的な考え方や水月移写というものも、もちろん考え方としては理解できるが、それが実際にどのような状態であるのかはわからない。私は達人と呼ばれる人と相対したこともないので、実際に斬りかかってみるとどのような感触がするのかもわからないのだ。

ただ、そうしたところを差し引いても、本書は非常におもしろいことがいろいろと書いてある。これまでこうした剣術、武術系のものはまったく読んでこなかったが、俄然興味がわいてきた次第である。

最初の問いに戻ろう。おそらく、本当の強さは「勝敗を超越した精神」を持つことにあるのではないだろうか。まだ私も頭でしっかり理解しきれていない部分ですらあるが、達人の境地というものを本書から垣間見れたような気がする。

 

それでは、お粗末さまでした。

*1:もちろん、日本が武力を持つ必要がなかったのは日米安保条約によりアメリカという軍事力の後ろ盾があったことはあるだろうことは留意しておくべきだ。