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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

鬼才・河鍋暁斎のまとめ~「画鬼暁斎 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展にいってきたゆえ~

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閻魔大王浄玻璃鏡図』

すごい人を表現する言葉は「天才」「秀才」「英才」「奇才」「鬼才」などさまざまある。それぞれ若干意味が異なるので、使い分けられたカッコよい。それぞれ岩波の国語辞典に基づいて簡単に説明していこう。

もくじ

で、「鬼才」ってどのくらいすごいの?

天才:生まれつき備わった優れた才能を有する人。

秀才:学問などが優れてよくできる人。

英才:優れた才能の持ち主。

奇才:世にも珍しいほど優れた才能がある人。

鬼才:人間とは思われないほど優れた才能がある人。

 一概に比べられないが、感覚的には次のような感じ

鬼才 > 奇才 > 天才 > 英才 > 秀才

自ら「画鬼」を名乗る

というわけで、今回は「鬼才」と称される幕末・明治の画家、河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)と彼の作品の魅力を紹介する。――きっかけは丸の内にある三菱一号館美術館で『画鬼暁斎 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル』という展覧会だ。

暁斎鬼才と称したのはもちろん画力がきわめて高いからだが、同時に暁斎が自らを「画鬼」と称したためでもある。

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川で拾った生首を描く修行時代

河鍋暁斎は江戸時代末期の1831年下総国(現在の茨城県に生まれた画家で、浮世絵師として名高い歌川国芳(うたがわ・くによし)に弟子入りした*1国芳はテンプレのような江戸っ子で、国芳は師匠の教えに従って人々の喧嘩を探し求めてそれを描写したという。このころ、神田川で拾った生首を描写した伝説がある。

ただし、こうした国芳の悪影響を心配した父親によってわずか2年で国芳と引き離され、今度は狩野派の絵師、前村洞和(まえむら・とうわ)、洞白に師を変える。こうしたいきさつがあるため、暁斎狩野派の影響を強く受けていて、鷹、猿、虎、龍といった狩野派お得意の動物を使った絵も多く残した。

その後、わずか19歳という若さで独立し、彼は日本古来の仏画、漢画、さらには洋画の知識をどん欲に吸収していった。Wikiなどを見ると破天荒な行動ばかり起こす問題児のような印象も受けるが、基本的には師の教えに素直に従い、マジメに自らの絵の技量を高めていく人物だったようだ。

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『龍虎図屏風』

浮世絵で有名になる

有名になったのは1855年の安政江戸地震のときに仮名垣魯文(かながき・ろぶん)と出会い、浮世絵を描きはじめてから。この時描いたのは『お老なまず』というタイトルの鯰絵だが、ちょっとその画像が見つけられないのでどんな絵かはわからない。鯰絵はこの地震で流行した浮世絵で、地震を引き起こすとされる鯰を神様や人々が懲らしめる絵のことだ。

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鯰絵の一例 ※これは暁斎の絵ではない

ちなみにこの安政江戸地震――幕府の調査によれば4,000人以上の人々が命を落としたとされるが、そんな震災をも絵で茶化してしまう風習には、どこかISISクソコラグランプリに通じるものを感じる。

売れっ子画家として活躍

さてその後、暁斎美人画から妖怪、幽霊、地獄絵、唐仙人、戯画、風刺画、縁起物まで、注文が入ればどのような絵でも描き、たいそうな人気となった。とりわけ「暁斎らしさ」が際立つのは、『地獄太夫がいこつの遊戯を夢に見る図』などに代表される、「美」と「醜」を対立構造としてひとつの作品に収めた作品だ。ガイコツかわいい。

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地獄太夫がいこつの遊戯を夢に見る図』

戦後は、世間で優雅な絵が高く評価されるようになったため彼の人気は下がっていったが、エキセントリックかつ独創的で、絵のジャンルも多岐にわたり、おどろおどろしさとユーモアが共立した絵画は外国人にも高く評価されている。三菱一号館を設計したイギリス人の建築家、ジョサイア・コンドル暁斎に弟子入りしている。暁斎展が三菱一号館美術館で開催されているのには、そういう縁もあるのだ。*2

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『天竺渡来大評判 象の戯遊』

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『幽霊図』の一部

「筆禍事件」と改名、あと、カエル好き

暁斎3歳の時に初めてカエルの絵を描いたらしく、『鳥獣戯画』のようにカエルを擬人化して世間を風刺したりしたものも多い。大変かわいい。

風刺といえば、「筆禍事件」を忘れてはならない。これは1870年、新政府の役人を風刺する絵を描いて投獄された事件である(翌年には放免された)。どういう心境の変化があったのかはわからないが、もともとは狂斎と書いていた自分の名前を、このころから「暁斎」変えている。f:id:Ada_bana:20150713234819j:plain

『風流蛙大合戦之図』の一部

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『蛇を捕まえる蛙』の一部

晩年は再び狩野派に入門し、駿河台狩野家を継承。1889年に胃がんによりこの世を去っている。ここでも、墓石には遺言によって蛙に似た自然石が使われたというから、カエル好きは筋金入りだったようだ。

絵については、きっとマジメな人だったんだろう

と、このように「生首写生」「筆禍事件」などの逸話に加え、遺した絵の奇抜さから破天荒な人物におもわれがちだが、よくよくその経歴を調べてみるといたって普通の人である。ゴーギャンやダリのように、別に画家本人が普段から奇行に走っていたわけではない。下記の写真では歯がガタガタなせいもあり、あまりいい人の印象は受けないが…。

f:id:Ada_bana:20150715075717j:plain暁斎の写真

暁斎の曾孫さんが質問に答えてくれてた!

公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館の館長であり、暁斎の実の曾孫でもある河鍋楠美氏が2015年8月12日に限定で一般の人からの質問に答えるイベントをやっていた。読むと、暁斎の人柄がわかるような気がして、なかなか興味深い。 

暁斎は本画の下書きなどを夜半にやっていたようで、実の娘も暁斎の寝顔を見たことがない

暁斎はたくさんの動物を実際に飼っていて、弟子がその世話に当たっていて、なかなか大変だったらしい

河鍋暁斎記念美術館 #河鍋暁斎質問 まとめ - Togetterまとめ

おわりに

最後に、本エントリーを書くとき参考にした書籍を紹介。暁斎の絵の中でもグロテスク、コミカルなものが多く集められているため、見ているだけで楽しくなる。税抜2,200円とちょいお高めだが、大判前頁フルカラーなので割高感はない。まあ、美術の本としては割と良心的なほう。

それでは、お粗末さまでした。

*1:ちなみに、国芳は猫を多く描いたようで、Naverまとめもある

*2:ちなみに、暁斎展の前半はコンドルについての展覧が多く、ここでスペースを稼いでいる感じもある。私はここら辺は素早くスルーしたが。