本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『バールの正しい使い方』(青本雪平・著)のレビュー

今回紹介するのはこちら。

この本、書店でたまたま見かけて、なんとなく惹かれて買ったものの、しばらく積読になっていた一冊です。つい先日、ふいに読んでみたら予想外(←失礼)におもしろくて一気に読んでしまいました。

んで、この作品についていろいろ考察も書きたいのですが、たとえばこの本に通底しているテーマとか、タイトルの意味とかをちょっと書くだけでもすごいネタバレになってしまうので、ちょっと憚られてしまいます。

といっても、べつにこの作品の場合は、たとえば最後の最後にすごいどんでん返しがあるとか、驚くべきトリックがあるとか、そういうわけではありません。

ただ、情緒面のところで、読んでいくと「あー、なるほどそういうことだったのかー」という思いを抱くだろうと思うのです。むしろ、そうした情緒面のカタルシスを損なわないようにすることのほうが大事なのではないかなと思いました。

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ということで、本の内容もおもしろかったんですが、私がまずいいたいのは、この本のカバーデザインの秀逸さです。

私も本づくりに携わっている人間で、装丁づくりもやるわけですが、ざんねんなことに私はデザインセンスがからっきしないので、いつも装丁づくりには四苦八苦しているというか、デザイナーさんにおんぶにだっこしてもらってます。

そのくらいデザインについてはなにもいえないわけですが、この本のカバーデザインに関しては、そんなデザインおんちな私でも「ウワアッ!」と思ってしまうほど秀逸でした。

Twitterなんかでもたまに話題になることですが、デザインって、単にカッコよければいいってもんでもありません。むしろ私は、ベストセラーになるカバーデザインは「適度なダサい」ことが必要な条件であるとすら思っています。

大事なのはデザインの目的と意図です。本のカバーデザインに関していえば、その本の想定読者とか、あるいは著者が伝えたいことがデザインで読者に伝わるかどうかが大事になってきます。

このあたりは、別に編集者じゃなくても、ふだん書店で本を選んでいる人が自然とやっている選別でしょう。

たとえばメチャクチャ怖いホラー小説が読みたいなと思っている人は、たまたま目に入ったおどろおどろしいカバーデザインの本を手に取りやすいと思います。それは、デザイナーが「ホラー好きな人が手に取りたくなるようなデザイン」の本にしたからです。

ここで想定読者とデザインの意図のあいだにミスマッチが起きると、ほんとうだったらその本を買ってくれるはずだった読者がその本を手に取らない……という悲劇が起こってしまいます。

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ただし、場合によってはカバーデザインで意図的にズレをつくることもあります。私は、この本の場合はデザインがそうしたズレを意図的につくったものだと感じました。

というのもこの本、帯がかかった状態の印象と、帯を取ったときの印象がかなり変わるからです。下の画像、左が帯あり、右が帯なしです。

 

帯ありのときは、真っ白な背景に赤いバールがニョキッと飛び出しただけのシンプルなデザインになっています。

バールというのは本来、ドアをこじ開けるための道具ですが、金属でできた先端が尖った道具なのでゲームなどでは武器の1つとしても使われることが多く、物騒な印象も受けます。鮮やかな赤色は血を連想もさせます。

それにくわえて、帯では「ミステリの傑作」的な文言が踊っています。ミステリという言葉の組み合わせとタイトルおよびビジュアルの印象により、なにかバールによって良くないことが起こることを印象付ける感じがします。

一方、帯をとると、こんな感じでうつくしい花が咲き乱れている風景になります。まあ、これも見ようによっては、花のあいだからバールが突き出ている不気味な光景とも受け取れるんですが、物語を読み終えたあとでこれをみると、このデザインの意匠にうなってしまいます。

どういうことかというと、この作品、表向きはミステリと銘打ってはいますが、どちらかというとひとりの少年の成長物語だからです。んで、最終的にその結論が、バールという剣呑なアイテムとはまったく印象が真逆の、なんとも心温まるやさしい物語になっているのです。

だから、「帯を取ると初めて美しい花が咲き乱れている様子がわかる」というこの本の装丁の仕組みそのものが、この物語の構造をデザインによって表現しているわけです。

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とにもかくにもそういう物語であるため、殺伐としたホラーテイストも混じった学園ミステリものかと期待して読み進めていくと、じつはこの話はひとりの少年が成長していく過程を描くひとつの児童文学作品であるとわかります。

なので、読んだ人のなかには、自分が期待していたようなミステリ作品ではないとわかり、とガッカリする人もいるかもしれません。私もどちらかというとホンワカした話より、そういう殺伐とした話のほうが好きだったりするタイプですが、あまりそこでガッカリはしませんでした。

なぜそこで自分がガッカリしなかったのか……は正直よくわかりません。

ただ、ひとつ考えられるのは、話の展開が読者にも意図させないくらい緩やかに、ちょっとずつ、ミステリからフェードアウトしていったことが要因なのではないかなと思います。

だから、読んでいるうちになんとなく自分の心境も変化していったのかもしれません。もしそうだとしたら、そうした構成そのものが非常に巧みであることの証左でしょう。

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さてこの物語のあらすじをかんたんに紹介すると「シングルファーザー家庭の小学生の男の子が、父親の仕事の都合で転校を繰り返す先で、バールにまつわるうわさと、いろいろウソをつく人たち、そしてふしぎな事件に出会う」という物語です。

主人公の男の名前は要目礼恩(かなめ・れおん)で、これは物語を中盤くらいまで読むとわかりますが、カメレオンをもじった名前であることがわかります。

彼はあまりにも大人びてクールな少年で、転校を繰り返しすぎたために、周囲の人間関係を分析してその場にふさわしい言動をする人間に擬態します。こうした主人公の性格も物語の大事なポイントになっています。

あまりこれ以上中身について語るのは冒頭で述べたようにはばかられるので、気になった人はぜひ読んでみてください。

今日はこんなところで。お粗末さまでした。

『四つ子ぐらし』(ひのひまり・著)のレビュー?


今回紹介するのはこちら。

 

 

自分に子どもが生まれてから図書館に行く頻度が増えて、絵本のコーナーによく行くようになったのですが、そうすると自然と児童書のところをブラブラして、いわゆる児童書もよく読むようになりました。じつは以前に紹介した『バーティミアス』も、そんな過程で発見した一冊です。

 

 

んで、最近は自分の仕事でも文芸というか、いわゆるフィクション系の編集をするようになりました。そういう視点でいろいろなフィクションを読んでいると、気づきというか学びみたいなものがあります。そのひとつが、「物語の筋書きのおもしろさは2つのロジックで成り立っているのではないか」という私なりの仮説です。2つのロジックとはなにかというと「ファクトのロジック」と「エモーションのロジック」です。

 

「ファクトのロジック」は、要するに物語のなかの設定とか、出来事の因果関係に無理がないか、矛盾がないか、飛躍がないか、みたいなことです。たとえば「平凡な小学生」が物語の語り部であるはずなのに、その語り口調のなかで「夜の帳が下りて、その部屋は静謐な雰囲気で包まれていた」などという表現がされていたら、「いやこれ、ぜんぜん平凡な小学生とちゃいますやん」とツッコミたくなります。これはもちろん極端な事例ですが、読んでいるときに論理が破綻していたり、物語の展開に「ご都合主義」を読者が感じてしまうと、読む気が失せます。

 

一方「エモーションのロジック」というのは、感情の論理です。たとえば、相手の裏切りにあってメチャクチャ怒っていた登場人物が、次のシーンですっかり仲良くなっていたら「いやいや、さっきまであんなに怒ってたのにいつのまに許したんだよ?!」とツッコミたくなります。この場合、ファクトのロジックで考えれば、まあすごくサッパした性格の人物であれば現実的に「ありえない」ことではないわけですが、やっぱり読者としては納得できないので、これも読む気が失せてしまいます。

 

※以下、めんどくさいので「ファクトのロジック」をFL、「エモーショナルのロジック」をELと表記します

 

んで、ここからが本題なのですが、私は当初、この2つのロジックをどちらもクリアしていないといい物語にはなり得ない、と考えていました。これはたぶん、私がそもそもミステリとかSFとか、FLがしっかりしていることが大事なジャンルの物語が好きなことに由来しています。ミステリとかSFとかの場合、そもそもFLがしっかりしているのが大前提で、そこでさらにELまでしっかりしていれば名作になる、と思っていたからです。

 

しかし私はこのたび『四つ子ぐらし』という作品を読んで、もしかするとこの2つのロジックは、片方だけしっかりしていればおもしろい作品として成立しうるのではないか、むしろ、いい物語のために大事なのはELのほうであり、FLはそれに比べれば重要性がガクッと下がるのではないか、ということを考えました。というのもこの『四つ子ぐらし』という作品、FLがけっこうメッタメタだからです。

 

この物語の設定を簡単に説明すると、「赤ちゃんのころに親に捨てられて全国各地でバラバラに育てられていた四つ子の女の子が、中学生になるタイミングで政府のプログラムの一環でひとつの家に集められ、子ども4人だけで生活するように指示を受ける。生活費は『政府の偉いおじさん』が出してくれるので、お金の心配はしなくてOK」というものです。ちなみに主人公は三女なのですが、なぜか初対面から彼女にめっちゃ優しくしてくれるイケメン男子も登場します。まああ……あり得ない設定ですね。

 

さらにこの物語、最初からシリーズとして続編を描くことが決定していたようなので、「なぜこの4人は全国各地に捨てられたのか?」も説明されませんし、4人の母親を名乗る女性が登場するのですが、ほんとうにその女性が彼女たちの母親なのか……などなど、いくつもの謎がまったく解明されないまま終わります。にもかかわらず、この作品はたいへんな人気を博していてシリーズは14巻まで刊行されており、マンガ化もしています。

 

なんでそんなに人気を博しているのか。人気になるには必ず理由があるはずです。私が読んでみて感じたのは、この作品ではELがものすごく丁寧に描かれているからではないか、です。ELがしっかりしているから、たとえFLがいささか現実離れしていても、読者は主人公および四つ子たちに感情移入して物語そのものを楽しめるようになっています。むしろこういう作品の場合は、FLよりもはるかにELの整合性が重要なのかもしれん、と思いました。

 

それで考えてみると、そもそもマンガはELに重きをおいてつくられていることが多いです。むしろ、マンガ作品にいちいちFL的なツッコミを入れるのは無粋というものです(もちろん、いい作品にはその作品のなかで守るべきルールや法則のようなものがあり、度が過ぎると白けてしまう要因になりますが)。

 

で、このELがしっかりしている『四つ子ぐらし』の1巻目ですっっごく重要なポジションにあるのが、四つ子の末っ子、無口・無表情でほかの姉妹になかなか心を開かない四月(しづき)です。四つ子の女の子たちは、そもそも自分たちが四つ子だったということを知らなかったので、家に集まったときに自分と同じ顔の女の子がほかに3人もいることに驚きます。そして半強制的に共同生活が始まるわけですが、ここで育ちが異なる四つ子の女の子たちの性格の違いがどんどん出てくるわけです。

 

長女ポジションの一花(いちか)はしっかりもののお姉さんで、次女の二鳥(にとり)はとにかく明るい関西弁キャラ、本書の語り部である三女の三風(みふ)は平々凡々とした感じで一花と二鳥がケンカするのを仲裁したりします。そして、四月です。一花と二鳥はわりとすぐに環境に順応し、三風も最初は戸惑いながらも、姉妹ができたことを素直に喜んでちょっとずつ慣れていきます。でも、四月はぜんぜん会話に参加してこないし、意見を求めても「どっちでもいい」としか言いません。この四月が、ほんっとうに、なっっっかなか心を開かないのです。

 

でも、「四月がなかなか心を開かない」というところが本作におけるELの肝で、やきもきしながら読み進めていた読者が、物語終盤になってようやくちょっとだけ心をひらいてくれた四月の言動を目のあたりにすることでカタルシスを得られるという構造になっています。そうしたELの整合性に比べれば、場面設定がありえないとか、解決されていない姉妹のナゾが残されたまま物語が終わることなんていうのは些末な問題なわけです。

 

ちなみに、先日鑑賞した話題のインド映画『RRR』も、かなりEL部分にしっかり整合性が取られている作品だなあと感じました。

 

rrr-movie.jp

 

この作品はイギリスの植民地時代にあるインドで、イギリス人に連れ去られてしまったとある部族の少女をその部族の青年ビームが取り戻しに行く物語です。ビームはその途中で、インド人でありながらイギリスの現地軍人をしているラーマと出会います。ラーマは立場上、ビームを捉えなければいけないのですが、ビームは自分の目的や身分を隠してラーマと仲良くなり、兄貴と弟のような関係になるのです。

 

この作品も、FL面で見ればいろいろツッコミどころが満載です。たとえば冒頭、初対面だったはずのビームとラーマは、見ず知らずの少年を助けるためにアイコンタクトだけで息ピッタリの連携プレーをします(そもそもその前の段階で、ラーマはたったひとりで何百人もいる暴徒を鎮圧させたりしている)。また、そもそもバトルシーンは前編にわたってビームとラーマのふたりだけでイギリス軍を壊滅させてしまいますし、終盤になるとラーマが神がかったような演出もあります。あと、ラーマが毒蛇に噛まれたときも、なぜか町中に生えていた植物で治ったりします。

 

※そもそもこの作品、インド神話の物語をベースにつくられていて、ビームとラーマの2人はインド神話に出てくる神さまの象徴みたいな存在なので、超人的な強さをもっていてもOKという裏設定があります

 

こんなふうにFL面はけっこうメチャクチャやってる映画なんですが、EL面はかなり緻密に設計されています。ビームの正体を知ったラーマが抱く葛藤から、さまざまなシチュエーションを乗り越えて2人が真の親友になるプロセスにはまったく無理がないのです。

 

そもそも、じつは主人公の2人が協力して戦うシーンは冒頭の少年を助けるときと、終盤のクライマックスだけです。でも、だからこそ、冒頭で少年を助けるために2人が息ぴったりの連携プレーを見せることの意味が生まれてきます。そのシーンの爽快さを観客は覚えているからこそ、ずーっと共闘シーンがない状態で進んでいた映画がいよいよ佳境に差し掛かったとき「やっとまた、この2人が共闘するシーンが見られた!」というカタルシスを得られる構造になっているわけですね。

 

フィクション作品のおもしろさはなにで決まるのか、ということについては私もまだ研究中ですが、FLとELという2つの要素を見比べながら、ジャンルや作品ごとにどちらが重視されているのかをチェックして鑑賞してみるのもまたその作品を楽しめるかもしれません。

 

『「人それぞれ」がさみしい』(石田光規・著)のレビュー


今回紹介するのはこちら。

 

 

私は天邪鬼な性格なので、世の中でよいとされているものがあると「ほんまかいな」と思ってしまう人間です。そうしたなかで最近ふと思ったのが「多様性を尊重することにはなにかデメリットはないのかな」ということでした。きっかけになったのは、大手量販店ドン・キホーテを運営する会社が、管理部門でも髪色を自由にしてOKというニュースを見たときのことでした。

 

  1. news.yahoo.co.jp

 

これに対して街の人たちに意見を聞いていて、わりとご高齢の方でも「多様性は大事だからね」みたいなことを言っていたのを見て、多様性が大事であるという価値観はかなり日本人に浸透してきているのかな、と感じた次第です。なにしろいまはポテトチップスですら多様性を主張する時代ですしね。

 

www.youtube.com

 

だいたいの物事には両面性があり、メリットもあればデメリットもあるものです。多様性(ダイバーシティ)という概念にかんしていえば、いまはどちらかというとメリットが主張される機会が多くなっているかと思います。

 

 

この本を、別に私は読んでないですが、Amazonの紹介文を見ると次のように書かれています。

 

日本で行われている建前ばかりの男女雇用機会均等やダイバーシティ経営は、むしろ「やったつもり」になることで現実を見る目を曇らせてしまいます。文化や歴史、習慣など世界との違いを学び、受け入れるところから本当の多様性が身につきます。そうすることで、「失われた30年」を脱し、日本人がグローバル社会で活躍できるようになるのです。

 

「本当の多様性」を多くの人が身につければ、日本人がグローバル社会で活躍できるようになる、というロジックです。いちおう、私は別に多様性を尊重することを否定はしません。というエクスキューズは書いておきますが、やっぱりそこには負の側面もあるであろうということを感じたわけです。

 

あと書いていて思い出しました。多様性の負の側面についてボンヤリ思った理由がもうひとつあります。最近、友人にすすめられて『奇跡の社会科学』という本を読んだのですが、そのなかにフランスの社会学デュルケームの自殺に関する項目があったのです。

 

 

デュルケームによると、……というかこの本によると、社会のいろいろなしがらみから解放された個人主義者のほうが自殺しやすいみたいです。たとえば政変や戦争などが起こると自殺率は低下するらしいですが、これはなぜかというと、そういう国家レベルの緊急事態になると国民が団結して一体感が生まれるからです。人びとが団結すると、個人の勝手な行動が許されにくくなり、自由が損なわれていきますが、その一方で「自分が生きている意味ってなんだろう」みたいなことを悩む機会が少なくなり、自殺しようとする人が減るのではないかと考えられます。

 

哲学者のサルトル「人間は自由の刑に処されている」という言葉を残しました。自由はいいものだと思われがちですが、「なにをやってもいいし、やらなくてもいい」となると、人生における決断ををすべて自分の価値観で決めないといけないことになります。たとえば結婚なんかはわかりやすいかもしれません。一昔前であれば「ふつうはするもの」という考え方が主流で、結婚候補相手を勝手に選ぶ「お見合い」というものもよくありましたが、いまは結婚するか、子どもを生むかなどは個々人の意思を尊重する社会になっています。そうすると、「そもそも自分はどんな人が好きなのか」「自分は結婚したいのか、子どもがほしいのか」などということをそれぞれの人が考えて決断しないといけないわけです。生きているなかで「そもそも自分のやりたいことってなんだろう?」と考え続けなければいけないのは、ある意味で生きるのがしんどくなった、とも表現できます。

 

 

多様性を認めるということは、個々人の多様な価値観と行動を認めるということであり、社会の「個人化」を促進する役割があると考えられます。ということは、もしかしたら社会の多様性を尊重することで、かえって生きにくくなる人も少なからずいるのではないか……ということを私は考えたのでした。

 

で、大きく回り道しましたが今回紹介するこの本を読んでみましたという話になります。

 

 

本書は早稲田大学文学学術院教授の著者が、「人それぞれ」が認められる社会で人間関係のあり方はどのように変化していくのか、についてまとめられた一冊です。結論についてはタイトルに書かれていますが、そうした社会では人間関係が「やさしく・冷たい」ものになり、さみしさを感じやすくなります。なぜ、「やさしく・冷たい」人間関係になるかというと、他人の判断についてとやかくいったり、深いレベルで対話するのが難しいからです。

 

たとえば大企業の正社員として働いていて、家族もいる友人がいきなり「会社をやめて起業する」といいだしたら、私なんかは「やめといたほうがいいんじゃないの……?」と感じます。でも、多様性を認めることが大事な社会では、おいそれとそうした反対意見はいいにくくなり、「まあ、生き方は人それぞれだからね。がんばって」といいたくなってしまうみたいな感じです。友人が相手ならまだいいですが、これが同じ会社内の人となると「ハラスメント」だと受け取られることもあります。自分の価値観や行動に対して自分の意見を主張することがリスクになります。

 

相手の意見を尊重するのが大切だとされる社会だと、人々がコミュニケーションにおいてとる戦略は大きく2つにわけられると本書では述べられています。それが「緩やかな撤退」「結託」です。「緩やかな撤退」とは、先の友人の起業の例のように、自分の本心や感情を相手に伝えず「まあ、人それぞれだからね」で片付けて相手との距離をとる戦略です。この「人それぞれだからね」という言葉はほんとうに便利で、これさえ言っていれば、少なくともコミュニケーションで攻撃されるリスクはゼロにできます。

 

もうひとつの「結託」というのは、自分と完全に同じ価値観を持っている人間だけで固まって行動するということです。本書でも述べられていることですが、多様性を尊重する社会が実現できた理由のひとつに「インターネットの発達」があります。私たちは自分と同じ考えをもっている人をSNSなどでかんたんに見つけることができます。自分と価値観の違う人と無理してつるまなくてもよい社会になったたわけです。たとえばコロナ禍で、ワクチンの接種はイヤだと思っているのであれば、同じようにワクチン接種に反対している人たちとだけコミュニケーションを取ればいいという感じです。

 

これがなかなか厄介なところで、多様性を尊重する社会では同じ考えを持つ人々が集まって思想を先鋭化させ、相対する価値観を持つ人を集団で攻撃しやすくなるということも起きます。どうしてそうなってしまうのかというと、個人レベルのコミュニケーションでは「人それぞれ」といっておけば対立は避けられますが、そうはいってもやっぱり「ほんとうは自分はこう思ってるんだけど……」というフラストレーションは人々のなかに蓄積され、なにかのきっかけで爆発するからです。

 

たとえば不祥事を起こした企業とか、迷惑行為をした個人が”発見”されると、不買運動や個人情報を調べてさらすといった激しいバッシングが起こります。それは「攻撃してもいい相手」を見つけられたので、ふだん自分の思いを主張できない不満を吐き出すはけ口にされるからです。ちなみに、マツコ・デラックスさんとか有吉弘行さんとか、ズバズバいってくれる人が人気なのもこれと同様の心理メカニズムが働くからだと思われます。つまり、つまらないことを「つまらない」という、おいしくないものを「おいしくない」ということを多くの人ができないからこそ、それを代わりにやってくれる人に好印象を抱くということです。

 

現状に息苦しさを覚える私たちは、「昔はもっと大らかだった」、「昔はもっと豪快な人がいた」などと言って、「人それぞれ」ではない社会の気楽さを懐かしみます。「生きづらさ」は、現代社会を象徴するキーワードのひとつになっています。その背後には、キャンセルや迷惑センサーをちらつかせて、萎縮によって人びとを統制しようとするシステムの存在がほの見えます。

かつて私たちは、農村社会を集団的体質の残る息苦しい社会とみなし、批判の対象に据えました。現代社会は、人びとを統制する方法がキャンセルや迷惑センサーに転じただけで、集団的体質そのものは変わりません。このような社会で「生きづらさ」を感じるのは、むしろ必然と言えます。

 

さてさて、社会がそういうふうになりつつあるなかで重要なのは「異質な他者」を取り込むことです。自分とは違う価値観を持っている人の考えに触れて、それに対する自分なりの考えを深めることです。とはいえ、日常生活でなかなかそこまで深く価値観について人と話せる機会はないと思います。それこそ、本音をぶつけるとその人との関係が疎遠になったり、攻撃されるリスクが高いからです。そこで役立つのが読書です。自分とまったく違う考えを持っている著者の書いた本を読むことは、「異質な他者」と濃密なコミュニケーションをとるのに近いです。小説の場合も、自分とはまったく相容れない言動をするキャラクターに触れることができます。それに本の感想なら、多少、批判的なこと、乱暴なことを書いても攻撃されるリスクは高くありません。

 

ただし、ここで気をつけておきたいのは、私たちは本を選ぶとき、自然と「自分と考えが近しい人の本を選びがちになる」という点です。たとえば気に入った作家さんの本ばかり読むとか、「ビジネス書や自己啓発書は嫌いだから読まない」といったスタンスになりがち、ということです。これでは「異質な他者」とのコミュニケーションになりません。これはとくに読書が好きな人ほど陥りやすい罠といえます。

 

それこそ読書なんて趣味の一環なんだから「人それぞれでいいのでは」とも思いますが、それでも私なんかは人から本を勧められると、あんまり興味が持てなさそう本でもとりあえず読むようにはしています。さすがにスピリチュアル系の本は読むのがちょっとキツイと感じることもままありますが。。。

 

 

『名探偵のままでいて』(小西マサテル・著)のレビュー


今回紹介するのはこちら。

 

 

宝島社が主催している「このミステリーがすごい!」で2023年の大賞を受賞した作品です。

 

著者の小西マサテルさんは、小説家としてはこれがデビュー作になりますが、もともとお笑い芸人から放送作家に転身してラジオ番組「ナインティナインのオールナイトニッポン」などの構成をずっと担当していたようです。帯にはナイナイの岡村さんによる推薦コメントがついていますが、これはそういう経緯があるからみたいです。

 

本書をざっくり説明すると認知症になってしまった祖父のところに孫娘(社会人)が身の回りで起きた謎を持ち込んで解決してもらう安楽椅子探偵モノの連作短編集」です。なお、祖父のところに持ち込まれるのは主人公の身の回りで起きたいわゆる「日常の謎」なんですが、「日常の謎」とは言いつつ、けっこう内容はヘビーです。けっこう人が死んでしまっていたり、ドロドロっとしたものが多いです。タイトルやカバーの雰囲気ほど、ほのぼのした世界観ではないということろには注意が必要かもしれません。

 

さて、この本は「名探偵なのに認知症である」ということがミソであり、高齢化が進む日本ならではの作品っぽくていいなあと私が感じたところでもあります。

 

とはいえ、ちょっと私がガッカリしたのは、認知症認知症でも、レビー小体型認知症であるということろでした。本書でも説明されていますが、認知症には大きく3つの種類があり、いわゆる「ボケた」といわれやすいのはアルツハイマー認知症です。レビー小体型認知症の最大の特徴は、幻視をともなうということろであり、本書ではまさに名探偵役のおじいちゃんが真相にたどり着くとき、幻視を見ながら謎を解明していくという描写をとっています。

 

私がガッカリしたポイントは、祖父が意外と、推理しているとき以外でもしっかりした人として描写されている点でした。まあ要するに、「ふだんは人の名前も忘れるくらいボケまくっているのに、謎がやって来たときにだけ脳みそが覚醒して冴えわたるおじいちゃんになるキャラ」なのかなあと思っていたら、意外とそのギャップがなかったところがちょっと不満だったわけです。こういうギャップがあるキャラが好きな人は、亜愛一郎のシリーズを読んでみてください。

 

 

ちなみに本書『名探偵のままでいて』は、トリック自体はそんなにたいしたことはありません。また、連作短編ということで、全編を通じてちょっとした謎というか、真の犯人みたいなものが出てくるのですが、それもまあ、そこそこミステリを読む人であれば、なんとなく展開の予想はつくものではないかなと思います。

 

ただ、私はそれが悪いとも思いません。むしろ、本書のなかでも、登場人物のキャラクタのひとりが、古典的ミステリについて「登場人物が多すぎてわかりにくい」などの批判をしていますが、これはそのとおりで、やたらトリックに凝って玄人好みにすると、必然的に設定が入り組んだものになったり登場人物が多くなりすぎてわかりにくくなってしまいます。

 

そうするとなにが起こるのかというと、「本として売りにくい」ことになるわけです。ふだんあまりミステリとかを読まないライト層にも買ってもらおうとするのであれば、このくらいのライトで、ちょっと突っ込みどころはあるけれどシンプルめなトリックのほうがビジネス的には売りやすいという側面はあります。

 

そこらへんのバランスというか、「ミステリ小説」というマーケットのなかでどのポジションを狙って、どのくらいの売上規模を想定しながら売り出していくかを考えるのは編集者とか出版社の営業部の戦略になってきます。

 

※このあたりの戦略は出版社ごと、あるいは賞の種類によって変わってくるはずなので、もしもこういう賞に自分が書いた作品を応募しようと考えている人がいるのであれば、過去の受賞作品から、その賞を主催してる出版社なりがどういう意図で受賞作品を売り出そうとしているのかの意図を読み取りつつ、どんな作品を投稿するべきかを考えたほうが効率的と言えるかもしれません。

 

ちなみに、私が「これは編集者がいい仕事したな~」と感じたのは本書のタイトルです。

 

この作品、応募されたときには『物語は紫煙の彼方に』というタイトルだったようです。紫煙はタバコの煙です。名探偵役の祖父は、推理に入るときにタバコを一服しながらやるので、おそらくこういうタイトルにしたものと思います。これはよくないタイトルですね。

 

まず、タバコを連想させるものをタイトルに使って全面的に押し出すのは、ヒットをつくるうえででは得策ではありません。いまはタバコを吸わない人が増えていますし、タバコに対してネガティブイメージが強いので、もしも『物語は紫煙の彼方に』というタイトルとともに、おじいちゃんがタバコを吸ってるイラストの表紙なんかにしたら、一気に手に取る人は減るでしょう。

 

また、本書は基本的に祖父と孫娘のお互いにいたわりあうハートフルなやり取りがメインの物語なわけですが、『物語は紫煙の彼方に』というタイトルではそういったほんわかした雰囲気がまったく表現されていないのがもったいないところです。どちらかというと、なんだかヘビースモーカーな私立探偵が出てくるハードボイルドな作品のようにも感じられてしまいます。

 

『名探偵のままでいて』というタイトルは、祖父のところに謎を持ちかけてくる孫娘のセリフだと読み取れます。それにともない、カバーもおそらく孫娘をイメージした女性の、ほんわかと温かみを感じるイラストになっています。

 

「名探偵のままでいて」という言葉からは、名探偵のように明晰な頭脳をもった祖父が、認知症により少しずつ変わっていってしまうさまを惜しみつつ「いつまでも、名探偵のようなおじいちゃんのままでいて」という願いが込められたセリフです。(ただし、実際にはこのセリフは物語に登場しないですが)

 

なんかそのうちドラマ化でもしそうな作品だなあという感じはしました。ヘビーなミステリマニアには物足りなさを感じるかもしれませんが、ほんわかしたライトなミステリを楽しみたい人にはぴったりな一冊ではないでしょうか。

『ロボットには尻尾がない』(ヘンリー・カットナー著)のレビュー


今回紹介するのはこちら。

なにで見つけた本なのかまったく記憶がないのですが、刊行したのが双葉社なのがちょっと珍しいなあと思ったのだけ覚えていました。

こういうSF系の文庫の場合は早川書房とか東京創元社とかが多いのですが、はたして双葉社文庫はほかにどういうのを出しているのだろうかと調べてみました。

まあ、このリンクを見てもらえばわかりますが、ざっくり「時代劇」「ラノベ」「サスペンス」あたりが多いですね。

ターゲット年齢高めな感じです。

www.futabasha.co.jp

さて本書『ロボットには尻尾がない』はアメリカのSF作家ヘンリー・カットナーの連作短編集です。

私もまったく知らない作家でしたが、1915年生まれで1958年に45歳の若さで亡くなっています。

最初はクトゥルフ神話ものの物語を書き、その後、さまざまなペンネームを使い分けながら活躍したようです。

あまり知名度は高くないですが、じつはアメリSF小説史のなかでは影響力が大きかったようで、当時は新しいSF作家が登場すると「これもカットナーの別名義なんじゃないか」と疑われる"カットナー・シンドローム”みたいなことも起きたということが本書の解説には書かれています(真偽の程はさだかではありません)。

さらに本書の解説によれば、『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』の脚本を手掛けたリイ・ブラケットや、『華氏451度』『火星年代記』などで著名なレイ・ブラッドベリの師匠として、創作術を指南したとも紹介されています。

 

 

 

ちなみに、カットナーはプロットづくりには抜群の才能を発揮しましたが、文章とか表現部分には難があったようで、奥さんのムーアと共同執筆した作品も少なくない、とされています。

ただ、共同執筆を重ねるうちにヘンリーのほうの文章力もアップしていったようで、妻ムーアによれば本書の物語は100%ヘンリーが書いたものであるとされています。

 

内容に入りましょう。

本書の主人公はサブタイトルになっている天才発明家ギャロウェイ・ギャラガーです。
ただし、ギャラガーはただの天才ではありません。

彼は酒を飲んで酩酊状態になったときだけ天才になり(Gプラスという潜在意識というか別人格が動き出す)、手近なガラクタをつかってとんでもないマシンをつくりだしてしまうのです。

そのため、ギャラガーが酔いからさめると、目の前に使い道のまったくわからない発明品が転がっている状態になり、ギャラガー自身が「こりゃなんだ?」と不思議に思いながらその使い道を探っていく……という感じでほぼすべての物語が進んでいきます。

※ちなみに、ギャロウェイ・ギャラガーという名前は最初から決まっていたわけではなく、一作目に主人公の名前を「ギャロウェイ」にしたのを忘れて二話目に「ギャラガー」と表記してしまったカットナーが、「じゃあギャロウェイ・ギャラガーって名前にするか」というすごいテキトーな感じで決まったみたいです

 

ちなみに、本書のタイトルは『ロボットには尻尾がない』ですが、そういうタイトルの話は入っていませんし、それを象徴するような内容の話もいっさいありません。

これは原著のタイトル『Robots Have No Tails』を直訳しただけです。
一見するとこれは『Tails(尻尾)』と『Tales(物語)』をひっかけた言葉遊びのようにも思えますが、そういった深い意図はまったくなく、単に単行本化するときに提案したタイトルが片っ端から没になってヤケクソになったカットナーが

「好きなように題名をつけてくれ。なんなら、『ロボットに尻尾はない』とでもしてくれ」

といったところ、それがそのまま採用されたとされます。

このように行き当たりばったりで適当な著者ですが、そうした性格がそのまま反映されたキャラクターが本作の主人公であるギャロウェイ・ギャラガーであるといえるでしょう。

(しかも、そんなにテキトーなくせに物語づくり/発明の天才であるというところもそっくり)

※ちなみに、作中では「クレジット」というのがお金の単位として使われているみたいですが、そのくせ「ドル」という言葉がひょこっと出てきたりする辺りにも、作者のいい加減さが見え隠れします。でもそれも愛嬌のひとつ

 

さて、本書の魅力は以下の2つにまとめられます。

〈1〉魅力的なキャラクター
〈2〉使い道が不明な謎の発明品

主人公が事程左様にちゃらんぽらんな人間であるだけで十分な気もしますが、それ以外にも「未来からやってきた、弱いオツムで世界征服を企むフワモコの火星人」とか「隙あらば鏡の前に立って自分の美しさに見惚れるナルシストなロボット」などなど、キャラが濃すぎる登場人物たちがぞくぞく登場して物語をひっかきまわしていきます。

そして、ストーリーの中心にいつもいるのが「謎の発明品」なのです。

動力も原理もまったくわからないけれど、すごいことをしでかすので、どちらかというとドラえもんひみつ道具みたいな感じでしょうか。

それぞれの話について簡単に説明していきます。

 

『タイム・ロッカー』

酔った拍子に入れたものを物理的に小さくして収納できるロッカーを発明したギャロウェイ。犯罪者の弁護を生業にする悪徳弁護士がロッカーをその安く買いたたき、犯罪の証拠品である債券の隠し場所にしたけれど……という物語。
本書の中では最初から発明品がどういうものなのか、主人公が把握している(ほんとうはちゃんと把握してない)物語で、話のオチは星新一の短編集のような感じもする王道的な結末が待っています。

 

『世界はわれらのもの』

ギャラガーの家に突然リブラと名乗るうさぎのような見た目のフワモコの生き物がやってきて「世界征服をしにきた」という。遊びに来ていたギャラガーの祖父の話によると、酔った勢いでギャラガーがタイムマシンをつくったところ、未来の火星から彼らがやってきたらしい。その後、リブラの指示でギャラガーが熱線銃をつくると、突如として裏庭に男の死体が出現する……。
本書の中でもっともカオスなストーリーだけど、リブラの言動がとにかくかわいい。
こちらは初期の『うる星やつら』のような雰囲気がある。

 

『うぬぼれロボット』

ギャラガーの家に男が怒鳴り込んでくる。その男によると、先日、男が抱えているビジネス上の問題を解決するような発明品の開発を依頼したところ、酔っていたギャラガーは快諾して金を受け取ったらしい(すでに記憶も金もない)。しかし、家にいるのは鏡の前でひたすら自分の美しさに見惚れ、屁理屈をこねくり回すロボットだけ。仕方がないのでギャラガーはロボットを引き連れつつ、酔った自分がどうやって自体を解決しようとしたのかを探りに出かける……。
このあとの話でもギャラガーの相棒役みたいな立ち位置になるうぬぼれロボット・ジョーが登場する話。
ジョーはリブラとはまた違う尖ったキャラクターで人をイラつかせる天才。

 

『Gプラス』

ギャラガーがいつものごとく酔いから覚めると、部屋のなかに大きなガラクタのようなマシンがあり、庭にはとんでもなく大きな穴があいていた。と同時に、家を訪ねてきた警察官が裁判所から召喚状をもってくる。自分の口座の明細を見ると、どうやら、今度は3人の人間からそれぞれ別の悩みを解決する依頼を安請け合いして金だけ受け取っているらしい。果たして自分はどんな依頼を受けて、それに対してなにを発明しようとしていたのか……。
話の流れ自体は前の話『うぬぼれロボット』と似ているし、強烈な新キャラも出てこない(ただし、ABC順で酒を飲みに行くくだりはちょっとおもしろい)、またオチもなんとなく読めてしまうので本書の中では凡作。

 

エクス・マキナ

いつものごとくギャラガーが二日酔いを治すために迎え酒をしようとジョーにビールをもってこさせるが、なぜか飲もうとするたびに酒がこつ然と消えてしまう。ジョーによると、小さな茶色い生き物がササッと飲んでいるという。さらにジョーによると、昨晩は耳の大きな男とギャラガーの祖父がやってきたらしい。ギャラガーが仕方なく部屋の様子を録画していたテープを回したところ、どうやら耳の大きな男から発明品の依頼を受けたようだった。一体今度はギャラガーはなにを発明したのか? なぜ酒が消えるのか? 茶色い小さな生き物とは?
依頼人パターンが3つ目になるとちょっとマンネリ化してくるけれども、茶色い小さな生き物の正体にはちょっと笑った。
タイトルの回収は最後だけれども、ここはいまいち。


「酔っているときだけ天才発明家になる」というエッジのききすぎたキャラ設定のため、どうしても話が続いていくとシチュエーションがマンネリ化してしまうのが玉に瑕ではあるけれど、それにつけても設定がおもしろいので一読の価値はあるSF短編集でした。