『屍人荘の殺人』のレビュー
NETABARE。
小説のレビューを書くときに最難関となるのがこれですね。
ビジネス書とか実用書の場合はあまり気にしなくてもいいのですが、小説の場合、とくにそれがミステリーだった場合、ネタバレは一気にタブーな行為になってしまうわけで、そこが文芸作品のレビューを書くネックになるわけです。
過去のエントリーで私は
「本レビューとはとどのつまり、その本の説明である」
ということを述べましたが、ネタバレを避けながらその本を説明するのは高度なテクニックを要します。
今回紹介しようと思うのはこちらの本です。
この本は「鮎川哲也賞」「このミステリーがすごい!2018年度版」「週刊文春ミステリーベスト10」「2018 本格ミステリ・ベスト10」と、2018年の主要なミステリの賞を総なめにしたとんでもないモンスター作品です。
今年12月には映画化が決まっています。
ただ、
この本、非常にレビュワー泣かせ
なのです。
普通のミステリの場合、最悪、事件の核心となるトリックさえ伏せておけばOKだと思います。
が、この作品の場合、トリックどころか、そのトリックを用いるための前提状況ですらなぜかネットを見てみてもふせられていることが多いのです。
Wikipediaはたまにとんでもないネタバレをやらかすことで知られていますが、この作品に関してはトリックはもちろん、「あのこと」に関してすら一切触れられていません。
引用してみましょう。
神紅大学ミステリー愛好会のメンバーである葉村譲と明智恭介は、女子大生の自称「探偵少女」剣崎比留子に誘われ、同じ大学の映画研究会夏合宿に参加する。しかし、映画研究会はいわくつきで知られ、何かが起きることは容易に想像ができた。事実、肝試しに出かけた合宿初日の夜、思いも寄らぬ事態が発生し、葉村たちは合宿先である紫湛荘に立てこもらざるを得ない事態になってしまう。翌朝、紫湛荘の一室において映画研究会のメンバーの1人が他殺体となって発見される。恐怖に怯える学生たちだが、これはこれから起きる連続殺人事件の始まりにすぎなかった。
これはあまりにも話題になっている本であるだけにウィキペディアンたちが配慮をしているということなのか、事実はよくわかりません。
が、あのウィキペディアですらそのこと「思いもよらぬ事態」と具体的に起こることを伏せている以上、私が勝手にそれをネタバレするわけにもいかないでしょう。
そのため、トリックどこからこの物語の根幹をなす要素について一切明らかにしないまま説明しなければならないのです。困った困った。
さて、この作品が2018年のミステリの賞を総なめにしたことはすでに説明しましたが、それはなぜかというと、
すでにありとあらゆる手法・バリエーションが使い回されてシオシオに枯れ果ててしまったかに思われていた「密室トリック」のジャンルに、別の要素を加えることで"新しいあり方"を鮮やかに実現した
からなのです。
ミステリーの世界ではいろいろな「偽装」が行われます。
たとえば自殺と見せかけた他殺、かと思いきや他殺と見せかけた自殺、偶発的な事故に見せかけた計画的殺人、計画的殺人に見せかけた偶発的自己、犯人ではない人を犯人だと思わせる……などなど。
けっこうギリギリなヒントを差し上げると、この本の真骨頂は、その状況でしかなし得ない偽装工作を行っている点です。
これくらいにしておきましょう。
トリック以外の部分については、この本にはいかにも「本格的」な要素があります。
たとえばホームズ役の相棒としてのワトソン役に重点が置かれていること、たとえば登場人物がやたらミステリにくわしくてうんちくを語ること、たとえばトリック偏重気味で動機の意外性には重きを置かれていないこと。
そうそう、ホームズ役の剣崎蛭子さんはちょっと独特の推理方法が特徴的で、彼女はいわゆるミステリの中の探偵のようにトリック(ハウダニット)の部分を考えず、もっぱら動機(ワイダニット)の側面から犯人を割り出していきます。
これもある意味で本格へのアンチテーゼのように見えつつ、一種の本格に対するリスペクトのように思えるのです。
あと、私が個人的にこの本の著者・今村昌弘先生に非常に共感できる点があります。
それは登場人物の名前の付け方です。
ミステリーって登場人物が多いですよね。
まあ、登場人物が少なすぎると謎解きとか死人が足りなくなるという不都合が生じるので、登場人物が多くなってしまうのはミステリの宿命なのですが、そうなるとだれがだれだかよくわからなくなってくるわけです。
とくに、海外ミステリだと名前のイメージがつかみにくいせいで、だれとだれがどういうつながりだったかわからなくなりがちです。
その点、この本は非常に単純明快です。
というのも、登場人物たちの名前がどれも彼・彼女たちの見た目・正確に即したヒジョーにわかりやすい名前になっているからです。
たとえば、ヒロイン然とした超可愛い女の子の名前は星川 麗花。
口数が少ないおとなしい女の子は静原 美冬。
デブの男は重元 充。
親の七光りで遊びまくる道楽息子は七宮 兼光。
ギョロッとした目つきが特徴的な男は出目 飛雄。
ありがたいのは、きちんと作中でそれぞれの名前の由来を説明臭く説明してくれるところです。
これで、たくさん登場人物が出てくるからと言って、だれがどういうキャラクターだったか混乱することはありませんね。
私のように記憶力に難のある人間には大変ありがたい仕様になっています。
ちなみに、続編である『魔眼の匣の殺人』も読みました。
おもしろかったけれど、状況設定的にはやっぱり『屍人荘の殺人』には劣ります。
ミステリーとかサスペンス系にはさほど珍しくないモチーフだったこともあります。
ただ、適度にライトなノリで、文章もわかりやすく、見た目の割にアッサリさっくりよめる良質なミステリなので、秋の夜長にはお薦めですね。
ちなみに、集英社のアプリ『ジャンプ+』でコミカライズ版が連載されています。
剣崎蛭子がなんかちょっとイメージと違いますが、これはこれで楽しいです。
単行本も発売されるみたいですね。
まだ書影は出てないけれど。
きになったらぜひ。
後記
『移動都市/モータル・エンジン』を観ました。
荒廃したはるか未来で著巨大エンジンによって都市そのものを動かしながら資源を略奪していって生計を立てている人々の物語です。
原作はこちらの小説です。
原作とどのくらいストーリーを変えているのかはわかりかねますが、すごく率直に感じたのは
「これスター・ウォーズみたいだな」
ということでした。
あのキャラクターの設定とか、あの兵器とか、、、。
いや別につまらなくはないけれど、うーんスローリーに安直感が否めない。
ただ、スチームパンク的なギミックが好きな私としてはガチャンコガチャンコする変形都市のデザインは好みです。
それくらいでしょうか。
暇だったら観てみるのもアリかもですね。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『読みたいことを、書けばいい。』のレビュー
みなさまお久しぶりでございます。
前回のエントリーの投稿が9月28日なので、かれこれ1カ月以上、このブログを更新しなかったことになりますね。
せっかくなので一ヶ月間更新しなかったことでブログにリニューアル感を出そうと、タイトルをちょこっと変えて、文体を「だ・である調」から「です・ます調」に変更していくことにしました。
さてブログを休んでいた間も相変わらず本は読み続けていて、読書メーターのほうには読んだ本のレビューを投稿してはいたのですが、仕事が忙しいというか、プライベートがゴタゴタしてたいたというか、あと単純に気乗りしなかったというか、いろいろなものがあって、書きませんでした。
途中から
「いっそのこと、一ヶ月ブログを書かなかったらなにか変化があるのだろうか?
ということも考え始めたので、10月の途中でちょっと「ブログ書こうかな」という気持ちが沸き上がっても、あえて書かなかったという側面もあります。
結果的にこの「一ヶ月ブログを書かない」という実験をしてみてわかったのは
「びっくりするほど何も変わらない」
ということでした。
たとえばブログのアクセス数も変わらないし、Amazonアソシエイトで入ってくるアフィリエイト収入の額も変わらない。
なんだこれは!
これだったらもうブログなんて書かなくていいんじゃないか……というのは冗談ですが、これはひとつの真理を示しているのかもしれません。
個人ブログの良いところは、「やりたくなかったらやらなくてもいい」というところです。
仕事だとなかなかこうもいきません。
気分が乗る、乗らないに関わらず会社に行かなきゃいけないし、アポとった人には会いに行かなきゃいけないし、ぶっちゃけあんまりおもしろくない原稿でも本に仕立て上げなきゃいけなかったりするわけです。
でも、これはある程度ブログを続けたことがある人なら共感してもらえることだと思うのですが、ブログを続けていると、いつのまにか「ブログ書かなきゃ」という気持ちになってくることがあるわけです。
好きで始めたことがいつのまにか義務になって、自分の中でストレスになってしまう。
これは、よく考えればおかしな話です。
それと同じように、
「ちゃんとした文章で書かなきゃいけない」
「ちゃんと起承転結をつけなきゃいけない」
「内容を整理してわかりやすく伝えなきゃいけない」
などなど、ネットで文章を書いていると「~しなきゃいけない」という呪縛にとらわれてしまうことがよくあります。
でも冷静に考えれば、べつにこれらの縛りにとらわれる必要はないわけです。
たしかに、会社のブログやメディアだったら適当なものを書くわけにはいきませんが、所詮は個人が勝手にやっているブログ。
やってもやらなくても、内容が少しばかり適当でも、だれに責められるいわれはないわけです。
(だからといって他人を騙して貶めるためのウソを書いたり、特定の個人や人々を意図的に傷つけようとする内容を書いてもいいとは私は思いませんし、自分が書いた文章には責任が生じることを忘れてはいけませんが)
文章というのは表現のひとつの形態であり、基本的には自由であるべきものです。
はい、というわけで復帰第一弾に紹介したい本はこちらですね。
著者の田中泰延さんはもともと電通のコピーライターをしていた方で、現在は「青年失業家」を自称してネット上で色々モノを書いている人です。
ただ、この本自体はけっこうテレビでも取り上げられたりして、すでに15万部を突破したヒット本なので、すでに知っていたり読んでいたりする人も多いと思います。
また、ぶっちゃけ私自身、すでに読んだのが一ヶ月以上前のことなので内容について完全にうろ覚えになっていて、会社に置きっぱなしにしてきて手元にないので内容を確認できないのが困ったところです。
そこで、Amazonでほかの人のレビューやもくじを確認しながら、自分の記憶を思い起こしているわけです。
結局、この本は文章をテーマにした本ではありますが、だからといって「うまい文章を書くためのハウツー」が書かれているわけではありません。
じゃあ、なにが書かれているのか?
私自身、読んでいる最中は「いったい、だれがどういう目的でこの本を読むのだろうか」ということがわからないまま、とりあえず「売れている本だから」という理由で読み勧めていたわけですが(これは編集者の悪い癖だと思ってます)、ただ、このブログを書きながら思い起こしてみたときに、これにたいする答えを自分の中に見つけたように思うのです。
それが、最初に述べたことです。
文章を書いていると、どうしても「読者ファースト」になってしまうところが出てきてしまう。
私もこのブログを書くとき、たまに「こうしたほうがアクセス数が伸びるんじゃないか」とか「こういう書き方をしたほうがアクセスした人が最後まで読んでくれるんじゃないか」ということを考えてしまいます。
もちろん、そうやってしっかり読み手のことを考えることが悪いわけではないのですが(むしろビジネスにするならそれが大事)、そればっかりに意識が集中していると、「そもそも自分は何を書きたかったのか(表現したかったのか)」ということが置き去りになってしまうわけですね。
そして、じつは私と同じように、表立って口にはしないけれど、そういうモヤモヤを抱えながらブログやSNSで文章を綴っている人が少なからずいるんじゃないか。
そういう人たちに刺さるタイトルであり、内容であると思うのです。
書くことに苦手意識を持っていたり、書くのが億劫になってしまっている人。
そんな人に文章を書くこともおもしろさ、自由さというのを、適度なユーモアを交えてくれる一冊ということで、いわゆる文章の書き方のハウツー本とは一線を画して、夜の多くの人々に受け入れられたんじゃないかなあと。
毀損の文章本のアンチテーゼとしての側面もあって、だからこそ最後のメッセージがあるんだろうなと思うわけです。
文章をうまくなりたいと思っている人にはあまり役立たないかもしれないけれど、もし、文章を書く楽しさを忘れてしまっている人がいるなら、ぜひとも読んでみてほしい一冊です。
後記
観ました(これも観たの1ヶ月位まえだけど・・・)。
何が起きたのかはわからないけれど、荒廃しきった世界で水とエネルギー、そして女を暴力で奪い合う男たちの物語。
過激そうな装飾に目が奪われがちだけど、個々のキャラクターの設定がわりとしっかりしていて、普通に物語としておもしろいところ。
ただ、グロいシーンもあるので、そこらへんは注意かも。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『日本再興戦略』をかなりザックリまとめました
落合陽一氏といえば、いまは本を読まない人でも知っているんじゃないだろうか。